蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№695 もう書きたくない

逢いたいと思う気持ちをためている逢いたい思いに利子がつくほど  詠み人知らず

 

 

 

6月18日

昨日五反田を発って、センター北駅にやってきた。
その前夜某所で会食があったのだが、どこでなにをということはワケあってヒミツである。とても楽しい一夜だった。出向いた某所にはこれもまたワケあって深い思い入れがあるので、その場所と、昨夜集った方々と、そして交わされた対話によってとても充たされた思いになった。


ふだんここでバカな話を臆面もなく語っているので、「このことをブログに書かないでね」と言われることがたまにある。私がどれくらいおバカさんなのかわかっておいでの故ご心配になられるのであろう。こういう言葉は深く私を傷付ける。そこまで自分は弁えのない人間だと思われているんだと。でももしかして、弁えているつもりなのは自分ひとりでほんとうはとんでもない心得違いがあって、人にたくさんの不快な思いをさせてしまっているのかもしれない。

書いて、人目に晒すというのは怖いことで、かつて、この行為が怖くてたまらないからこそ公開される文章を書くことに抵抗があり、師匠にどんなに背を押されても何年も踏み出せなかったし、公開するようになっても名前を開示できなかったりした。

そして今日は久しぶりに、書くのはもうイヤだという気分になっている。でも嫌なことをやり続けなければ違う地平を見ることはできず、おまえはいつまでもバカなお前のままだよということで、師匠方が「書いて、見せる」ということを私に課したのだろうと思う。人は大体のところ何事もなければ、過去慣れ親しんだパターンに従ってぼんやりと日々を過ごし変わることが無いので、なにかが刺さって自分の一部が死んだように思えるのはしあわせなことだと思う。これでもう一歩、絶対者に近付けたんだと思っていることが大事かもしれない。


昨日の夕方から「癒し体験ハウス」なるところにやってきている。岩盤浴というものに入ったことは一度たりともなかったのだが、昨夜は「サウナ」と呼ばれるその施設で何時間も横になってある方と話をしていた。あたたかいその部屋でダラダラと汗を流し、心拍数がバクバクあがってきたら「水が足りない」と思ってごくごくと水を飲みながら、いろんなはなしをした。

人は過去に経験したことごとが楔のように自己存在に刺さってなかなか抜けない。Yogaではこれを、心素と我執が真我を覆い隠している、と表現する。


多くのひとがYogaを体操だと思っているが、この取り組みの最も大事なところは、Vedaの智慧を学び、二極の対立を超得した健やかな視点をもって、自らの過去を客観的に見つめ直すことにある。体操は、肉体に刻み込まれた過去にまつわる無意識的な感情と、それに伴う自動的な反応を無力化する目的があるし、瞑想は放っておくといつまでもグルグル回り続ける過去の反芻を止めるためだ。

 

ほんとうは私は誰なのか?を問うたときに、常に迷いなくアートマンでありブラフマンであると言えるか。今この瞬間突然肉体の死がやってきたとき、迷いなく神の名を口にできるか。いつも最も尊いものと結びついていられるか?そのためにYogaはあるし、私たちはYogaを選び、Yogaを行じる。愚かで有限な自我を一瞬一瞬に殺しながら、無辺なるものに近付いていきたいから。

バカは死んでも治らないらしいので、もし次また人間になれるチャンスがあればそこでの成長を期待したい。お前らには来世があるからな、と慧心師もいつも励ましてくれる。今生では救いがたいようだ。人間、この一生でそんなには成長できないらしいが、たとえほんの僅かでも今と違うように世界を見られたらいい。

これまでここで私が書いた言葉で傷付いた人がおられたのならば、心の底からお詫び申し上げます。ほんとうにごめんなさい。