蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№614 そのまま

手のひらのはんぶんほどを貝にしてあなたの胸へあてる。潮騒  笹井宏之

 

 

 

3月28日

昨日、桜が満開だった。そして昨夜はげしい風が吹いて花は舞ってゆき、春が極まりつつあると思った。

今朝、K山さん宅にお邪魔してタイヤを交換して頂いた。K山家には自動車の一級整備士がお二人もおいでになるのだ。交換して頂いている間、大きなお屋敷の奥座敷でK山さんとふたりあれやこれやとお話をする。先日膵臓癌でお逝きになったKさんのこと、椅子に座るときの姿勢や足裏のはなし、第二子を出産されたお嫁さんの産後ヨガのことなど。

 

自分のからだの感覚をじぶんでよくわかって、それを自信をもって(断固として)言葉で説明できなければ、ただそこに「おいしゃさん」がいたり「検診」を受けたりしてもほんとうに自分のために活用することは難しいんじゃないかという話が出た。Kさんはあんなに検診に行ってたのに、膵臓のがんが見つかって1年足らずで逝ってしまわれたからだ。

自分のなかにいつもと違う感覚があることに気付き、その「違う」という感覚に忠実でいることはとてもたいせつなこと。これってやろうと思って急にできるようなことじゃない。
だからふだんの自分をいつもいつも、よく感じ続けていないといけない。
どんな感覚があってもそれを「いい・わるい」で分類してしまわず、「そういう感覚があるんだ」とわかって貴重な情報としてあつめていくことが必要だと思う。

 

 

今日は色んなことがあってすこし戸惑っている。なのであまり面白くなくて恐縮です。しかも短いままお仕舞にしようとしている。こんなときこそほんとうの意味でのYogaや靈氣が必要。

自分のなかの最も尊いなにかに意識を向けて、呼吸を鎮めていくこと。踊るように揺れる内的なものをジャッジせずに見守ること。どんなに愚かであっても自分には価値があり、同じようにすべてのひとに価値があると信じること。どんなひとも受け容れられ、尊重され、愛されてほしい。いや、愛されなければならない。主義主張や世界観の違いを超越する智慧が得られますように。

胸の痛みとともにここに在って、人を愛することから逃げないと誓う。
理解し寄り添ってくれる人の存在に感謝を。いろんな表現の愛があるが、愛とはやすらぎを与えてもらえること、たしかにしあわせを感じられること。受け取るその人が「いま存分に愛されている」と確かに思えること。

いま、そのままのあなたを、愛おしいと思う。