蓮は泥中より発す

心身一如に生きるヨーガ教師の日記

№595 才能?

ゆびさきのきれいなひとにふれられて名前をなくす花びらがある  笹井宏之

 

 

 

3月8日

先日JK剣士がご立腹になった件について書いてなかった。
実のところJK剣士はファンが多いようなので(カッコいいからなあ)、このことを書き忘れていることについてご立腹の方がおられるかもしんない。ちゃんと書かないと次会ったとき叱られるから、今日書きます。後半で書きます。

 

押し入れの片づけをしていたら、長女ぶーちーとJK剣士の七五三の写真が出てきた。人生において制服以外でスカートなんて持ってもいないJK剣士だが、三歳時の七五三ではちゃんと振袖を着ている。が、しかし。手に持っているのは「刀」である。刀…? そしてその写真を撮った直後、振袖を着ているのがイヤさにぽろぽろと涙を流したため、サッサと普段着に着替えて今度はバイク(刀と同じくおもちゃ。だけどなぜかBMW)に跨ってビシッ!とキメてぶーちーと2ショットを撮っている。すごい眼力で。大きく引き伸ばされて写真屋さんのウィンドウを飾った思い出の写真である。

JK剣士はあの頃から剣士だったんだなあ。もし学校剣道から足を洗ってJK剣士じゃなくなっても、剣士としての魂みたいなものはずっとこの子のなかにあるんだろうね。そんな気がする。

JK剣士は進むべき道についてめちゃくちゃ悩んでいる。ところが我が家はハハがこんな感じなので、「行くべき道は今ここに!」とかいうような一般的には何の役にもたたないアドバイスを平気で(アドバイスですらないのに)してしまうから、JK剣士の葛藤はいや増すばかりである。ひどいよねそのお母さん。どんな人だろ、一回会って文句言ってやらなきゃ。

…だってさあ、JK剣士はオトナのウソは見抜く眼力をもっている。だからハハとしてもウソはつけない。高校は卒業するべきだよとか、次はインハイ絶対あるよ!とかウソでもないかもしれないけど真実ではないでしょう。だからハハのなかにある最も真実に近似した言葉を(しょせん言葉にしか過ぎないれども)伝えるしかない。

即ち「絶対者のお仕事は緻密にして完璧であり、偶然はない」。
これをJK剣士向けに翻訳してみまして「今、そうであるってことが答えだ」となる。

考えすぎるな、逃げるな、ジャッジするな。小さな自分が考えた、一見よさ気な結果を探しに行くな。君の毎日使うトイレの壁に道元さんの言葉が書いて貼ってあるよ。「己のはからいなし」とか「人の悟りをうる、水につきのやどるがごとし、月ぬれず、水やぶれず」とか。その言葉たちが言おうとしていることをうんと考えてみて欲しい。

ほんとなら、今この瞬間リアルにそばにいて何も言わずに抱きしめたい。今それができないこともまた、おおきなもののはからいだと思う。だから今このようであることを信頼したい。心の中で戦争が起こっていても、それをもっと大きなもので豊かに支えていたい。がんばれ、JK剣士。

 

 

はい、ご立腹の件です。ご立腹して保健室経由で帰宅して来られました。それをハハがあたふたと迎えに行ったのです。なんといっても境線は電車が1時間に1本しか来ないからであります。

なんでそこまで怒ったん? 

朝、登校すると、教室の黒板にこんなことが書いてあったんだって。メモをもらったのでここに書き写してみましょう。

才能+努力=成果・結果
才能なし+努力=成果・結果なし

あるセンセイが書いたそうです。これを見た瞬間、カッ!と頭にきてすぐに帰りたくなったがとりあえず話は聴いてみるかと思って1時限目は堪えたそうな。センセイはこう言った。「才能がないやつがどんなに努力しても無駄なんです」。そして自分の経験から何某かのことを語った。JK剣士は「気分が悪いです」と言って保健室に自主避難した。気持ちはわかんなくもない。

私のおともだちには人の成長発達に関与しているひとがたくさんおられるんですが、はてさてこのセンセイのリロンに如何に向き合いますか。まあここでセンセイが才能っていう言葉をどんな解釈で捉えてんのかとか、センセイの世界観とかいろいろな視点があるでしょうが、しかし。

こんなことを聞かされたワカモノはどんなことを思っているんだろう。まさかその場にいる子らがみんな「そうか、そうなんだな」と思ってる訳もないとは思いますが、まさか万が一、朝一番の授業だからちょっと寝ぼけてて心のハードルが低かったらスーッとこの魔法の言葉が存在に刻み込まれちゃうかも。それはとても恐ろしいことだと思う。私はきっとこの話を規夫師匠にしちゃうだろうな。でも一瞬で終わるだろうな。

 


なんだか後味の悪いハナシで、私もどうお仕舞にしたものか悩んでいる。なので最後に道元さんのお言葉をもう少し紹介して終わることにしよう。

「ひろくおほきなる光にてあれど、尺寸の水にやどる。全月も弥天も、草の露にもやどり、一滴の水にもやどる。」

この部分が私は大好き。どんなにちいさな柄杓で汲んだ水のおもてにも、月はやどる。わたしのなかにもきっと月がやどる。

さとりは難しくない。自分がなににも囚われていないと知ること、この恐ろしいばかりの自由のなかに生きていることに向かい合うこと。自由だから、この自由をわかちあうために、言葉という不自由な道具や肉体という限りある道具を用いて、まるで別のいのちを宿しているかのように見えるひととわかりあおうとする。触れあおうとする。
そしてそこで気付く。わたしたちはおなじ月の光を宿したもの同士であって、わかれて存在しているように見えるだけで、ひとつであったことを。

私たちはずっとひとつであったことを大きな安心とともに思いだす。それがさとり、そしてYoga。

正法眼蔵」現成公案の巻に載っている言葉です。ぜひどうぞ。