蓮は泥中より発す

心身一如に生きるヨーガ教師の日記

№549 若さなんてなあ

夢の沖に鶴立ちまよふ ことばとはいのちを思ひ出ずるよすが   塚本邦雄

 

 

 

1月22日
20日夜から異様にテンション低め。「アンナ・カレーニナ」起因で心素のなかの塵が激しく舞い上がった。最近課題に取り組んでおり夜更かし中の長女によると、寝ているときに何かから逃げるように魘されていたらしいが、まったく記憶にない。

来週いよいよ新しいセラピストさんとのシャドウワーク。今大きく、自分のなかの若い頃の記憶が動いている。お力をお借りしてしっかり取り組んでいきたい。

 

 

さて、昨日ある方とお話をさせて頂いた中で、歌人川田順の話題になった。

川田順
明治15年生まれ。東京帝国大学で当初文学部に所属し、小泉八雲の薫陶を受けたが、八雲の退任を受け法学部に転科。「ヘルン先生のいない文科に学ぶことはない」と言ったそうだが、私は八雲も漱石もどちらも好きなのでなんとも切ない言葉である。

住友総本社で常任理事まで務めた実業家でもあった。
以下、Wikiさんに伺ったところによると…

会社では住友商人として主に経理畑を歩み、「住友に川田あり」の評判を得ていた。1930年に理事就任後、同年一足飛びで常務理事に就任。1936年住友の総帥たる総理事就任がほぼ確定していたが、自らの器に非ずとして自己都合で退職。その間、佐佐木信綱門下の歌人や「新古今集」の研究家としても活躍。1942年4月に第1回帝国芸術院賞受賞。1944年に朝日文化賞受賞。戦後は皇太子の作歌指導や歌会始選者をつとめた。

とまあ錚々たる方なのである。

この川田は66歳で門下生の女性(旧知の仲の京大教授の妻)と恋に落ち、悩んだ挙句自殺まで図る。「老いらくの恋」と書き立てられるが、これは川田自身の「四十代の恋は世の中に心配る、墓場に近い老いらくの恋は怖るるもの何ものなし」という詩から取られた言葉。

充分に成熟した大人であった川田の残した恋の歌は、実に瑞々しく私の心を打つ。
「はじめて彼女と同席したときに、互ひの心には何等意識しなかつたけれども、『宿命』が仲介の役をつとめて傍に坐つてゐたのだ」と言ってのけるその潔さったら!

いつよりか君に心を寄せけむとさかのぼり思ふ三年四年(みとせよとせ)を

わがこころ環の如くめぐりては君をおもひし初めにかへる

今の世のなかだと、この川田のような恋はどれほどの批判を浴びてしまうだろうか。
「君」である淑子夫人は27歳年下、川田が1966年に84歳で逝去するまで添い遂げた。

20代の頃から川田の歌のいくつかを愛誦してきた私としては、世のなかの人になんと言われようとも、激しく人を愛し、こんな歌を今の私たちに残してくれた川田をほんとうに素晴らしいと思う。絶対者ブラフマンの仕事からは、誰も逃れようがないのだから。

自殺まで図った川田だが、私が生まれるより前に亡くなった彼の歌に、今50も近くなってしみじみ感動する。20代の自分の感動と今日このときの思いは少し違っていて、時間というものが為してくれるものを有難く思う。どんな苦しみも、いつか必ず癒やすことができると信じていたい。

 


さて、今朝はいくつかバージョンを変えた「変容に対する抵抗感や戸惑い」を思わせる夢を見たので記録しておきたい。

 

1 有職紋様のような絵の描かれた画用紙を見て悦に入っていたら、ある方ががニコニコしながら、真っ白のページを示して「なんでもいいから好きに描いてごらん」と言うので困惑する。


2 山の尾根の地図にいくつかのポイントが示してあり、驚いて「こんなところに行くの?!」と聞くと、インストラクターの女性に「修学旅行みたいなもんだよ」と軽く返され何も言えない。

 

3 ブリキのバケツに自分が入っている。その底が抜けて、落ちたら宇宙だった(映画「ゼロ・グラヴィティ」的な)。ここではどんなことでもできると言われて、どうしたらいいかわからないが、苦しくはないことに驚く。

 

 

いったいなんに私は戸惑って、どのように変わっていこうとしているのか。
目の前に現れる事象はすべてきっかけに過ぎない。この事象を通して私はどう生き、なにを表すことを求められているのか、私も60代になった頃には「宿命」というものの存在を信じ、迷いなく歩を進めることができるようになっているといい。たとえ世界中を敵に回したとしても。

若さなんてバカなだけだと慧心師が吐き捨てるように言っておられた気がするが、今日初めてそれに完全に同意できる気がする。 

 

有職文様図鑑 (223) (コロナ・ブックス)

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