蓮は泥中より発す

心身一如に生きるヨーガ教師の日記

№547 だれも逃れられない

ざらしで吹きっさらしの肺である戦って勝つために生まれた   服部真理子

 

 

 

1月19日

なぜかJK剣士が休みだった。予定表は届いているはずだがまったく把握していない。いったいなんで休みだったんだろう?
とにかく「部活に送って」と言われて朝のルーティンが崩壊した。

送れば迎えに行かねばならぬ。昼食を食べさせねばならぬ。JK剣士がいると長女も一緒にということに、当然なる。ということで昨日はたいへんだった。「オットセイとアシカはどうちがうか?」という議論で車内が喧々囂々の騒ぎ。アシカのマネまでしてさ、ほんと子育てって大変だね。それでどう違うの? 知っている人いたら、ほんとのこと教えて。母さんはJK剣士に騙されている気がするんだよね。

 


こんな夢を見た。
考えたことが数分後には具象化してしまう世界に生きている。
バラの花のことを考えたら、目の前にゆらゆらと黒い靄のようなものが立ち上がり次第に花の形を帯びる。しばらく後には目の前で私たちがバラだと合意しているところのものに落ち着いていく。こういう世界だと無駄なことは想起してはならないし(命の危険すらある)、現象の世界に不運や想定外の事象の因を求めることは許されない。

これは大変な怖ろしい世界だと思ったが、実のところこの世界の在りようもまさにこのようであると思う。自分というものを小さく限りあるものと見限っているために、肉の眼で見える世界をもってすべてのものごとの在りようを理解しようとしている。だからなにやら従うべきルールがあるかのような気がしてしまう。法則ってほんとにあるの?ないと思うよ。

 

 

と、やたら難しく語ってしまったが、ヨーガの先生になる課程でこのことを「ひつじライオンの教え」という説話で勉強する。

母ライオンが死んで、幼い仔がひとり残される。たまたま通りかかったひつじの群れが、その仔ライオンを連れていって育てる。このひつじたちの度量ったらすごいよね。そのなかでとうぜん仔ライオンはすくすくと成長して大人のライオンになるわけだが、たてがみフサフサの立派なライオンと行動を共にするひつじたちは、ラッキーなこともいっぱいあっただろう。ライオンが混じった群れを襲うのはやめようって、思った獣がいたはずだから。本人はまったくの無意識だが、守護神みたいになっていたはず。

この仔(もう子供じゃなくなっているが)は、自分のことをひつじだと思っている菜食主義獅子である。ひつじたちを親とも兄弟とも思いこころ安らかに生きている。皆と同じように他の獣全般をまっとうに恐れて生きている。
これはこれで平和に思えなくもない。が、しかし。ヨーガとは、眠ったように迷妄の平安の裡に生きることをぶっ壊してやろうという壮大な野望の火を何千年も絶やさず継承してきたご流儀だから、別に不幸でもないライフスタイルを貫いている“ひつじ=ライオン”にも容赦がない。

ある日、群れを若いライオンが襲う。もちろん食べるためである。
逃げ惑うひつじのなかに、ひつじと同じような行動をとるたてがみフサフサの立派なライオンがいるのをみて魂消てしまう。食事のことを忘れて“ひつじ=ライオン”を負ういわゆる普通のライオン。追いつかれた“ひつじ=ライオン”は「僕のことを食べないで!」と叫んだそうです。なんて切ないの…美味しくないし、食べられっこないのに。だってライオンだからね。

いわゆる普通のライオンは事情を知って、まるでセラピストのように川のほとりにひつじ=ライオンを連れていって自らの姿を見せてやった。しかし流れる川の水面に映る自分っていうのがそもそもぼんやりしているよね?それくらいのぼんやりさの自己認識で十分ってことかな。まあでもとにかく「おれはライオンだったのかぁぁぁ!」と覚醒し、それからはひつじも食べる立派なライオンとして生きました、めでたしめでたし、よかったねというお話。

 

ええと、このお話しの示すところってここで書いた方がいいのかな?
でもどういう受け取り方をするかは各人の生き方在り方、来し方によって自由であるから私の考えを述べるのはやめておく。先に書いた夢の話に集約されていると思うので推察してみて下さい。

 

 

昨日ふとYouTubeで「アンナ・カレーニナ」の予告編やダイジェスト映像を見ていたら、今朝も気分がアンナカレーニナモードである。初めてこの長編小説に手を出したのは村上春樹の傑作中編「ねむり」を読んでしまったせい。深夜、チョコレート、強いお酒、そしてアンナ・カレーニナ

余談になるが、…しかしこのブログのどこに余談でないところがあるというのだろうか。まあともかく、筋金入りの村上主義者(ハルキストっていうのは事情を知らない部外者が使う言葉)の私が推奨する春樹の傑作は、

・納屋を焼く
・カテドラル(翻訳)
・ねむり

の三作である。有名な長編しか読んでらっしゃらないお方はこの短編・中編を読んで出直して頂きたい。その上で、春樹についてサンドイッチをつまみにビールを飲みながらお話ししましょう。ここは絶対にビールです。譲れません。

 

 

アンナ・カレーニナ。今朝はDmitri Shostakovich“The Second Waltz”を聴きながらこれを書いているが、だんだん心が沈んでアンナな気分になってくる。ふらふら~と駅に出かけたくなっちゃうような。

この優れた小説は過去何度も映画化されていて、1997年のソフィー・マルソー版、2012年のキーラ・ナイトレイ版などは容易に手に入ると思う。個人的にはソフィー・マルソーが原作に近い、いい味を出していると思う。アンナはヴロンスキーに出会うまでは保守的な女だったのだから、キーラだと美しいけれど奔放すぎる感じがするのだ。
ちなみにヴロンスキーに関してはジュード・ロウがよい。これじゃアンナも抵抗できなかろうと思わせるアヤシイ色気がある。個人的にはショーン・ビーンの方が好み。あの目付きがたまらん。

 

アンナはつまんないけど平和で安定した家庭に暮していた。可愛い息子もいた。賢夫人として尊敬もされていた。「私を思うなら平穏を返して」というアンナに「平穏などない、苦痛か至上の幸福か」とヴロンスキーが応える。このやり取りは2012年版の予告編で見られるのでご興味ある方はどうぞ。

これもヴロンスキーが惚れたとかアンナが年上の夫にうんざりしてたとか、そういうことではなかろう。絶対者ブラフマンの仕事は各処に顕現し、起きてしまったが最後、ひとは誰もそれからのがれることはできないということなのだと思う。


それでね、若者よ(注意・20代までだよ)。これくらいの小説は読んでおくべきです。ほんとに。
私も20代の時に初めて読んだが、一生かけて読める小説というのがこの世にあるというのはまさに恩寵と思う。大人になってこの小説を読み返す至福を味わうために、若いときに読んでおかねばならないのです!!すぐに丸善もしくは今井書店に走って行きなさい。Amazonでも許す。


この魅力的なアンナも、そもそもレフ・トルストイの頭のなかにしか存在しなかったと思うと、今この世で、ご自身の内面にしかない何かを顕現させようと苦しんでおられるすべての方に深い尊敬を覚える。
なにがあっても負けない意気込みで、混沌たるものを世界に顕してください。ファイト!