蓮は泥中より発す

心身一如に生きるヨーガ教師の日記

№258 音楽と記憶

7:43
昨夜の体験について改めて考えてみる。

脳への刺激は、音、光、振動、運動などを通じてされるというので、初の大音響と光の競演に私の脳はびっくりしてひっくり返ったのだろう。

久保田さんは、私が中学生の時にデビューした方で、したがって人生の折々でその音楽を聴き続けてきたことになる。
演目は色々なので、新しいアルバムからのほとんど馴染みのない曲もあれば、懐かしい曲も披露された訳だが、19歳の秋に繰り返し聴き続けていた古い曲が演奏された時は、フラッシュバックのようにその時の思い出が湧き上がってきた。

当時私は、福岡県の航空自衛隊芦屋基地第3術科学校で初級補給員過程に在籍していた。
入隊して約半年、自衛隊という環境にもまだ慣れきらぬ中、慣れない基地、馴染みのない隊舎での、先輩、同期との共同生活。
秋も暮れようとしているもの寂しい時期、隊舎の窓からは林の木しか見えなかった。
近くには朝鮮戦争時代に米軍によって建てられたというチャペルがあって、霊が出るというもっぱらの噂だった。

3人部屋で一人になろうと思えば、イヤホンで音楽を聴きながら目を閉じるしかない。
そういう状況で、何度も何度も繰り返し聞いていた曲だった。寂しい気分が思い返されるのに、好きでたまらない。「そんな曲は聴かなければいいのに」と言われたこともあるのだが、そういう問題じゃないんだな!

情動は体で記憶されるという。
聴いた曲も、その時の感情と共に心素に納められているのだろう。

心素とは、記憶を貯蔵しているというところ。
歓喜鞘という、人間存在の最も深いところにあると言われる。
この歓喜鞘は、心臓の中の非常に小さい空洞の中に座していると言われ、小さいのだが五蔵のうちでもっとも力が大きい(うまく機能していれば)。

久保田さんは”FUNKY"という語をよく使われるのだが、今調べてみたところ、この語はもともと「怖気づいた、怯えている」という意味があるそうだ。

そうするとなんだか合点がいく。
彼の楽曲で私はイカしたFUNKY気分になりつつも、同時に怖気づいたFUNKY気分になった。

そもそも感情と結びつかないのなら、音楽はこんなに人を惹きつけないだろう。
私も、イカした「越後獅子」を三味線でかき鳴らして、誰かの暗い情動を動かしたい。