蓮は泥中より発す

心身一如に生きるヨーガ教師の日記

№551 つなぎたいから

1月24日

特急やくも号に乗り込み、伯耆大山駅を通過したところ。列車はここから南に進路を変え、岡山へ向かっていく。
ちなみに始発。米子駅発5時32分。今朝は3時起き、寝たのが1時。そろそろ眠たくなってきた。

 

 

昨晩、YouTube対談でお世話になっているさとちゃんと、その息子さんRくんにオンラインでお箏の演奏を聴いてもらった。昨年夏にこれもオンラインで三絃を聴いてもらったのだが、このことをRくんは覚えていてくれて、学校で筝曲の授業を受けたときに私を思い出してくれたのだ。

 

大人の方はご存じないかもしれないが、今は義務教育のカリキュラムのなかに邦邦楽が入っている。だから私も毎年、小学校の出張授業でお手伝いをさせてもらう。実際に箏爪をつけて楽器に触れてもらい、三絃は繊細な楽器なので、見せるだけで、音を聴いてもらう。お正月の定番・名曲「春の海」について解説をして、尺八の先生とお姉さん弟子の生演奏を聴く。

 

Rくんは東海地方に住んでいるので、山田流の爪しか見たことがないという。関西(伊丹)にご宗家がおいでの私は生田流である。お箏にはこの二つの流儀があり、爪のかたちが違う。山田流は丸く、生田流は四角い。なので私の手元を見て「あ!角爪だ!」と言ってくれた。

先生から「角爪が見られた人はラッキー」と言われたそうなのだ。それはよかった!

 

Rくんはおかあさんに「かよちゃんは『六段の調』が弾けるかな?」と訊ねてくれたそうだ。授業では動画を視聴したのか、音源を聴いたのか。ともかくそれをさとちゃんが私に聞いてくれたので、「弾けるよ!」とお返事して今回のオンライン生演奏になった。

 

 

六段は基本中の基本で、筝曲を学ぶ者が折々に立ち返る曲。
そのときどんな曲を稽古していたとしても、常に六段の楽譜は持参している。もちろんこれも箏と三絃双方で弾け、合奏ができようにしている。
たまに師匠からお声掛けがあり稽古するが、そのたびに「六段は難しいね。これをひとりで弾こうとしたらどれほど大変なことか。」とのお言葉がある。この度はその大変なことをやらかしてしまった…。

どれだけ弾き込んできたかわからないのに、満足のいくように弾くことができない。いつも不満が残るし、昨日のようなシチュエーションではやはり緊張し何度かミスもした。

 

まあでもオンラインとは言え生の、しかも箏を弾く手元を見る機会なんてほとんどないと思うので、Rくんは色んなことに気付いてくれた。弦を押さえて半音や一音を上げ、何もしなければ生み出せない音を作りだしていることに気付いてくれた。糸を「弾く」ことは「押す」ことであって、とても力強い音が出せることも気付いてくれた。そしてこの段物の最高峰と言われる「六段の調」には、実に多くのテクニックが散りばめられていることにも気付いてくれた。

 

以前彼に聴いてもらったのは三絃の「越後獅子」で、新潟の名物などを歌詞に盛り込んだ楽しい歌が面白いからといって演奏を見てもらった。越後獅子は私の技量ではまだまだ胸を借りるような曲なのでドキドキしたが、「しらうさぎなることのはに」とか「おもしろがらしそうな」とかなんだか意味不明の言葉遊びはおもしろいなと思ってくれたかもしれない。

 

私は残念ながら音楽の才能がないので、筝曲を諦めずに続けていることは文化継承の意味合いが大きい。若い誰かに伝えていって、この技を途絶えさせることのないように励むのが私のような者の務めだと思う。


ちなみに三絃にはいくつか種類があって、ザックリいうと津軽が太棹、芸者さんが引かれるのが細棹、そして私たち筝曲のものが弾くのは中棹。それぞれ撥のかたちやサイズも異なる。
筝曲はお箏と三絃の双方を学ぶ。そして尺八と合奏をする。このことを「三曲演奏」という。

 

筝曲はぜったいに酒席では演奏しない。
って、去年の夏、オンライン飲み会のとき弾いちゃったけど、それはMっちが可哀相だったから「飲んでいいよ」と言っちゃっただけで、ほんとはダメ。


菊井松音は私共の宗家だが、私はこの方を心の底から尊敬している。
ご宗家が舞台に立たれると場の空気が一変する。命を筝曲に捧げていることが伝わってくる。今こうして言葉を連ねながら、ご宗家の佇まいや在りようを心に思い浮かべるだけで私の心身に変化が生まれる。

 

 

早く、演奏会が再開できるようになるといいな。人前で緊張感をもって芸を披露させて頂いたのは久しぶりだった。

Rくん、ありがとう。良い機会を与えてくれて。素晴らしい芸の刺激になりました。