蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№484 生きることの喜びを

風を浴びきりきり舞いの曼殊沙華 抱きたさはときに逢いたさを超ゆ  吉川宏志

 

 

昨日は、長女と二人、最寄りの書店併設のカフェで、おいしくはないコーヒーを飲みつつ読書。気分転換に書店内を散策(ハンティング)したところ、「女性の健康」の棚に興味深い本があったので早速購入。今日にも読了する勢いである。


私たちは自分のことはなんにも知らない。ひとのことはわかった気になっている。
自分がなにかを恐れ、親密な人間関係のなかでその“なにか”を巧妙に避けているかを理解していない。目の前の相手と、ことばやそれ以上のもので深いコミュニケーションに到ろうとすることもほとんどない。


その上、女性は自分のからだのことすら知らない。からだの底にある神秘的で美しい部分を、自分の目で見ることもない女性が世界中にたくさんいると知っているだろうか。自分のからだについて知らず、女性同士で情報交換もしない結果、無智と恥が覆う領域が生まれる。男性が仕切る社会で好き勝手に扱われ、恍惚を感じることなく産めと言われているのだ。もしあなたが女性ならば、自分がただの穴のようだと思ったことはないだろうか。残酷な、そして現実の話だ。

 

私が10代の頃と、状況はほとんど変わっていないように思える。結婚生活はおおむね不幸な結末を辿る。皆がそんな感じであって、特段珍しくも不思議でもないことだと知っていればまだしも、パートナーシップにおける問題を自分ひとりの努力不足に帰結させ、諦めて口を噤む。この充たされなさを誰かに話すこともできない。そもそもそんな話を聞いてくれる人が、この世のどこにいるというのか? そしてちょっと意地悪になって、人の不幸を喜んでしまったりする。とても哀しいことだと思う。

 

 

今、私は大きな声で叫びたい。自分のなかで激しい波が立っている。

この夏、背後から私を追いかけてきたテーマがあって、首根っこを掴まれた。次々に関連書籍と出会い、人に繋がり、体験が蓄積し始めている。ひとが私に打ち明け話をしてくれる。肉体と人間関係に潜む闇、でも間違いなくそこに光も存在する。玄妙の世界とはこんなところなのか。Yogaと同じくこのテーマからも、おまえの身を捧げよと迫られている気がする。

 

多くのひとは自らのからだのなかに在って心地よさを感じていないし、YogaとAsanaを混同している。Asana(アサナ、体操のこと)をしても、Yogaの境地に達するかどうかはわからない。Yogaとは至福、そして囚われのない安心の境地。Asanaはそのためのチケットだから、どこにもいけないAsanaのためにあなたの時間を無駄にして欲しくない。

自分自身に対する感度がそもそも低いので、気持よさというものをほんとうには理解できていない可能性がある。あなたのこころやからだ(五蔵)、あなたがこれまでに経験し蓄積してきた過去の記憶(心素)、そこで構築されたあなたの自己概念(我執)、それらとあなたのするセックスやあなたが食べるものはけっして切り離されることが無いはずなのに、あれとこれは別の話になっていることが多い。

 

現時点で、私のクライエントは30代以降の女性がほとんどである。気の置けない方々に今の自分の興味関心から、いくつかのことを尋ねてみると愕然とする。全存在として充たされ、幸福であると感じているひとがほとんどいないからだ。いったい私は教師としてなにをしてきたのか。そして私は、いったい世界の何を見ていたのか。

 


伝統ヨーガでは、ヤマ・ニヤマの教えにおいてブラフマチャリヤ Brahmacharyaという戒律を持つ。禁欲と訳されるこの規律を、ガンジーは「結婚していたとしても妻との間にこの教えを守れ」と語る。これは狭義の考え方である。

デボラ・アデルはこの教えを「不過度」と捉え、食物やセックスの慰めに頼らず感情に向きあうことと解釈する。こちらの方が親近感を覚える。ブラフマチャリヤは文字通りに解釈すると「神と歩く」ということで、見るものや体験することのすべてに神秘を見つけることだ。

正統的なRaja Yogaの流れに連なる私は、この先一生、肉体を通じて人と愛し合ってはならず、その代償として1万回輪廻したあとに解脱に導かれるのか?

 

 

来月の初めに、鎌倉の海岸で秘密の会が開催される。修行や努力という上昇の道ではなく、身を委ね、堕ちゆくような下降の道の重要性を心身で体感しようという飲み会。
そこに私も乱入して、自分のなかに蠢くものを規夫師匠に開示しようと思っている。

 

師匠、私は過去の自分に向かって叫びたい。
お前は無智であっただけでなく、バカだったと。
生きるということを全方向から味わい、そこから喜びを得て、それを力として人に向かって叫びたい。みんなもっと、自分の幸せに責任を持たなきゃダメだ。あなたの悩みは、多くのひとが感じているものと同じ。だからSUKKA(快)の道を選べ、と。

 

 

このブログは、オランダの洋平先生に向けた狼煙の役割も持っているから、私の背を押してくれるこだまがいつか響いてくるかもしれない。ぼんやりして聞き逃さないよう、心身を研ぎ澄ませていよう。

先生、私はようやく本が書きたくなりました。