蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№483 ほんとのところ

生えぎわを爪弾きおれば君という楽器に満ちてくる力あり   俵万智

 

 

 

11日ぶりに自宅で迎える朝。夜半、足元に生きものの気配があった。一匹だったのか、二匹ともだったのか(我が家には猫がいる)。娘がiPhoneで設定している目覚ましが鳴り、手を伸ばしてくる。JK剣士の肉厚の、でも可愛らしく暖かい手。

 

起きてすぐの第一声は「目覚ましじゃないやつも鳴るに」。
設定している目覚まし以外に「目覚ませ!」と勝手に鳴るやつがあるのだと。それはあれか、母さんの念みたいなものか。愛だな。君のiPhoneはすごいな。

 

 

故人愛用のバッグ等を次女が譲り受けた。良いものを長く愛用する彼の姿に憧れ、それを真似ようとしてきた子なので、物に対する愛着と「しげちゃんのもの」だったことが重なり、更に深い別の思い入れを育んでいくことができるだろう。
今朝は、奥さんが届けてくれたそのバッグを背に、力強く登校していった。

 

 

瀕死寸前の花たちの手入れをしたが、娘の今の技量ではここから先はどうしていいのかわからなかった困惑が伝わってきた。
「ここを切る?切らない?これは使う?使わない?」という決断が花活けにはついて回る。これが想像以上に心に堪える。ここを切ってしまったがゆえに、もう二度と再現できない美しさがあるとしたら(あるような気がして)、切るのが怖い。私は花のことを語れる立場にはないが、「えーい、もうここはザクっと行っとけ!」という潔さと、失敗した場合になんとかごまかすリカバリー力は、歳と共に逞しく育っている気がする。若く可憐な娘には、まだその自由がないだけだ。

茶の湯では、茶室に活ける花は「野にあるように」と言われる。
そのものが、今あるような姿でそのままに用いるということが何よりも大事なのではないかと思っている。短かくても長くても、枯れる風情を見せていても。

 

 

新しいクライエントさんとのレッスンが始まっていく中で、やはりYogaは体操だと思われているとひしひしと感じる。誰も悪気なんてなくて、むしろリスペクトする気持ちをもってそう思ってくれている。実際にYogaの身体的なアプローチは強力なものだから、そう思われることはなにも不思議ではないと思う。

でも、先程花の茎に鋏を入れながら考えたのだが、Yogaのアサナ(体操)って実は歯磨きみたいなものではないかと思うのだ。

あなたの村に、いつも心穏やかな人がいたとしよう。
実はその人は、この世の真理を知ることに真剣に取り組んできて、なんとか自分なりにそのことが理解できた。いつどこにいても、なんとはなしに根拠のない至福を感じ、まあ生きていてなにごとが起こっても大丈夫なんじゃないかなあと思いつつ、しあわせに生きている。

その人は至福のうちに生きながら、毎日ちょっと変わった歯磨きをしている。もちろん歯もピカピカで、いつも美味しそうに物を食べている。

それを見ていた村の人は「あんな風に歯磨きしているから、あの人はあんなにしあわせそうなのかな」と思って羨ましくなる。「俺もあんな硬い木の実をバリバリ食べたい」とも思う。
なので、その歯磨きを教えてもらえませんか?と頼む。
しあわせな人はそれを断る理由はないから、もちろん歯磨きを教える。
だって歯磨きを教えてって、言われたから。

 

でも本当はみな「楽になる」方法が知りたい。だから問自体が間違っている。

 

 

その動きの先に、なにを求めているのか聞いて欲しい。
Yogaを通じて私たちが手にしたもののなかに、自らの身体的イメージと乖離していないしなやかな肉体と、深い呼吸によってもたらされる肌の透明感があったとしても、目を閉じてしか見えないものに心を寄せて、心を超えたところで私と話をしよう。

その領域にはもう言葉もない、私とあなたを隔てるものもなにもない。だからあなたと私はひとつである。
私が素晴らしいと思っている歯磨きであり体操をあなたにもやってもらうことで、私たちは何を交歓しようとしているのだろう

 

だからどうしたらいいのかな、と今朝は考えた。

今日は何をしましょうか?ということの先に、「Tat tvam asi(あなたとはそれである)という言葉について話をしてもよいですか?」とか「Yogaの考える良い働き(Karma Yoga)ってどんなものか興味ありますか?」という問いかけがあるといいのではないか、と思った。
その途端、おや、それは伝統的Yogaのダルシャナそのものじゃないか、と思い至った。

「こんな話があるんだよね」と話して聞かせるのがシュラバナ Shravana 、
「ふーん」と考えるのがマナナ Manana 、
「それって凄くない?!」となるとニディディヤーサナ Nididhyasana。


やっぱりお題は大事だよ。
師匠 Jnana Yogi、私もようやく分かりました!

理解が遅いなあ。