蓮は泥中より発す

心身一如に生きるヨーガ教師の日記

№702 じょうずでなくてもいい

魂がいつかかたちを成すとして あなたははっさくになりなさい  笹井宏之

 

 

 

 

6月25日
たいがいふらふらして生きているが、今日は休養日である。休養したいがケガの回復途上にあるので、治療を受けに行ってきた。

昨夜はなんぶ町でのリアルレッスン(純粋に体操だけをするという前提のクラス)だったのだが、3週間ぶりにリアルに会って皆さんの近況を伺い、それに対してアレコレ反応してみんなで大笑いし、一緒になって体操していたら案の定一番自分が気持ちよくなった。

踵に痛みが存在するのと、どうやらまだ多少炎症している様子でからだを動かす気分になれないため、朝の攻め系Asanaはおさぼり中である。しかし皆さんと一緒にセラピー的Yogaをやっていたらだんだん気持ちよくなるわ、痛みをかばって歩くためにこわばっている左足の筋肉はどんどん柔らかくなってくるわ、最後のシャーバアーサナでは自分の意識が飛んでいた。フッと目を開けたときには終了時間を5分過ぎていたが、ここにそんなことを問題視するひとは誰ひとりいない。めちゃめちゃ立派な(平成天皇皇后両陛下がお食事をお取りになった)ホールなのに使用料は無料。延長料なんていうものも存在しない。「いやー、Yogaってマジで気持ちいいわー」と皆さんで言い合いながら帰路に就いた。


そういえば、昨日昼間にあったせっちゃんとのセッションでも、夜のレッスンのK山さんの発言も「いや、ほんっとに腹って立たなくなるなあ」としみじみ感慨にふけっていたのだが、Yogaや瞑想をやったり人に勧めたりしながら、自分は怒ったり人に嫌味を言っちゃったりしている人がいるとのウワサやグチを耳にする度に「ハラが立つようじゃYogaや瞑想は機能してることにはならんやろ」と思う。

ずいぶん長い歴史のあるYogaだけれども、役に立つ=苦しみを軽くしてくれるから連綿と途切れることなく続いているはずなんである。仲間うちで「ハラ立つわー」と口でいうことはあるが、「それのどこがハラが立っとる顔なん?」とツッコミたくなるくらいで、ハラの立て方がわからなくなっているんじゃないかと思う。「ハラが立たない」水平的な方策を身につけているわけではなく、「ハラが立つ」事象を複数抱え込んでも特に問題ない器の拡大という垂直的な変容が起きたんだ!、と妄想でもいいから思っていたい。

「体操なんて」という言いかたをよくする私だが、体操は必須である。体操(Asanaじゃなくてもいいけど、その肝要なところを押さえている実践)を軽んじたり、実践を怠っている人に起こるのが、感覚器官の制御力が高まらないことである。

なぜ体操をしたらハラが立たなくなったり、そもそも性格が変わったりするの?ということはさいわいなことに現代ではなんとかかんとか「なるほどねー!」という説明が可能だと思うが、ここでヨガヨガした話を展開したらひんしゅくを買うので、しない。

とにかく恩恵を受けたかったら身体的実践は必須で、押さえるべきポイントを押さえ、内的感覚(いわゆる意識ってやつ)を高め、淡々と毎日なにか必ず続けるしかない。「えー、めんどくさー」と思ったひとがいるに決まっているが、毎日数分でもやる実践は自分を裏切らない。たまに数時間がんばっても何も変わらないことはみんなもう嫌と言うほどわかっているだろうから、諦めて先人の智慧に従っていいんじゃないの?いいおとながなにかにハラ立てたり、誰かの悪口言ったり、正直恥ずかしいし体に悪いよ。それになにより、ボディが老けるよ?

昨日のクラスでは、Yogaを始める以前に80代だと言われた血管年齢が30代になったというはなし(ご本人の歴年齢は60代前半)や、健康年齢がだんだん長くなっているよというはなしを聴かせてもらって「いやー、Yogaはやっぱり手軽で便利でええなあ」と皆ご満悦だった。毎日腹も立たずに「なんくるナイサー」の精神で生き、ますます若返って魔女か魔法使いと呼ばれたいよね。

そう、足のケガ。今朝は柔道整復のY先生の施術を受けた。先生は鍼灸の施術もなさるので「踵に鍼打ってもいいけど、すごく痛いからなあ」といってなさらなかった。夕方、鍼灸専門の治療を受けに行ったのだが、こちらではズバリ「踵に鍼」の治療をして頂いた。痛みの客観視がかなりうまい私。痛みには強い。が、今日のは痛かった!

鍼治療の痛みというのは、鍼が刺された時はまったく痛くないのに、奥(患部に対応したツボ)がズーンと痛くなる。ただ鍼を差すだけではない私の先生。非常に微細な動きで鍼を揺らすと、踵の奥で生じている痛みの感覚に多彩な変化が生じる。なんとか呼吸を制御して痛みを逃し、堪える。今日はほんとに!痛かったのだが、終わったあとは明らかに差があるので驚く。鍼を人体に刺す、という侵襲的な治療だからこそここまでの変化が生まれるんだよなあ。こんな治療に比べるとAsanaなどぼんやりしすぎていて、私(森の子リス)と一緒である。ぼんやりした森の子リス的実践は、せめて毎日コツコツやる他ない。

帚木蓬生の小説「閉鎖病棟」に、毎朝モップで玄関を掃除してくれる入院患者さんの話が出てくる。でも患者さんなので、まんべんなくソツなく掃除をしたりはしなくて、ある一点のみを毎日毎日モップで拭いているのでそこだけが実に美しくなっている、という描写がある。

その部分を読んだとき、ものすごく感動した。たぶん20代の頃だったのだが、じょうずでなくてもいいのだと思った。その気付きにどれくらい救われたかわからない。

ここ何年もずっと朝起きたらする水回りの掃除のときに、今このときにすべてがキレイにならなくてもよいが、毎日こうすることをやめさえしなければいつかきっと磨かれて美しくなるのだと思って救われる。こうして今しているなにかは、誰に知られなくても構わない。私のなかの生命原理はいつも私のすることを見ているだろう。私がどんな素晴らしいことをしても褒め称えたりはしないし、愚かで間違ったことをしても私を罰したりはしない。

実践を通じて得られる気付きとは、こういうやすらぎであると思う。そうだ、だいじょうぶなんだ、ということ。そしてこの安心から、なにかが始まる。なにかが生まれる。