蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№469 思うこと、動くこと

全存在として抱かれいたるあかときのわれを天上の花と思わむ  道浦母都子

 

 

不在時に娘が二十歳の誕生日を迎え、彼女のアルバイト先のマスターお二方が大変なお心づくしをして下さった。親もその場にいるに越したことはないのかもしれないが、親に祝ってもらうより嬉しかっただろう。

そのうちの一軒のお店に、昨夜お礼を申し上げるために伺った。平日の夜のことでマスターと二人きりになることができ、亡くした人の思い出話に延々と付き合ってもらった。

思い返し、語る。そのこと以上の供養はないと思う。彼の場合、供養という言葉を好まなさそうだが、他に良い表現が見つからない。手向け、の方がいいかな。

ちなみに供養という言葉は、サンスクリット語 pūjanā がもとで、仏、菩薩、諸天などに香、華、燈明、飲食などの供物を真心から捧げること。ヨーガの師も毎年、歴代のご導師に対するプージャを行われ、私たちもそれに参加しているが、ご供養ということとは思っていなかった。感謝祭と呼ばれ、その思いで参加しているから、本来「供養」という言葉は感謝ということなのだろう。

 

人には縁というものがあるから、「次がないかもしれない」と思って行動しようと思ってもそれができないことが多いように思う。しかし、行け!と言われているような気がするときが確かにある。

10年にわたり規夫師匠に師事してきたが、師匠のいる東京と私の住む町とではフライト時間わずか70分でも、旅費という壁があった。そのため、上京できる機会を捉えて何時間ものセッションをお願いしたりしたものだ。ちなみに師匠の1セッションとフライト時間は同じ70分。価格はどんな割安チケットでも往復フライトの方が高い。
今夏、とある会食後に「航空券の方が高いのに、よく通ったよな」とのお言葉を頂き、駒込駅近くの路上で踊り狂いたいほど嬉しかった。大人なのでクールなふりをしていたが。

この、機会、というのはなにかのついでということではなくて、頭のなかに来る「今だ!」という電撃的な徴のことである。今このときに何か行動をしておかなければならないんだ、というときがある。これは他の場合にも発動するセンサーであって、可能なかぎりこの感覚に従って生きようとしてきたし、最近はこの感度と、決意と行動と周囲の状況が合致しつつある感覚がある。

 

「今だ!」という感覚に従って、後から大変な苦悩をすることもある。
昨年受験した筝曲職格試験はその最たるもので、4年前の年末に「これはやるしかないんだ!」と盛り上がり、初釜のお席で師匠(茶道、筝・三絃、華道の師匠は同一人物)に「試験受けます!」と言ったは良いが、それがどんなに大変なことかは後から知った。これくらい大変でないと、資格者の覚悟は生まれないとも思う(少なくとも私にとっては)。現時点で人生最大の山だったと思っているが、人が生きることは図りがたいので、これから先もなにがあるかはわからない。

 

大事な友人を亡くした私に、多くの方がお心をかけて下さる。波紋のようにそれは今も続き、少しずつ輪が大きくなっている。近い関係の人も、少し遠い人も、会ったこともなかった人も、人と人を介して影響を与えられ続けている。それを痛いほど感じる。

皆が思って下さっている。様々なことを、常に。
それを何らかの行動に移すチャンスを捉えられたと思ったら、その波に乗って欲しい。それは大きな世界の織物のように緻密に絡み合った関係性のなかから萌した特別な思いであり、波である。一言を確かに言葉にして誰かに届けたとき、きっと双方向で世界が変わる。

 


ヨーガの人間観では、人は五層構造である(人間五蔵説)。
人を生かしめる命という力そのもの、物事を判断する部分、行動を起こさせる力、感情、肉体、この5つが合致して働くとき、人ははじめて全存在としてここに在ることができる。

ヨーガという名で呼ばれる行法が、この「全存在として生きたい」という願いそのものあることを、私はようやく理解しつつある。