蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№87

土曜午前は、お茶のお稽古日だ。
近くのNHK文化センターでの稽古にお供し、先生のお手伝いをする。
自分自身もこのクラスで、今、師事している先生と出会うことができた。
新しい土地でどの先生のお世話になってよいかわからない場合は、まずこのような、NHKや新聞社などがやっている文化センターに行ってみると良い。
その土地を代表する先生が入っておられることが多い。

今なら直接、「同門会」という表千家で茶を学ぶ者の会に問い合わせるだろうが、当時はこの会にすら入れて貰えないくらいの初心者だったので、文化センターに助けられた。
ちなみに、こういう会に入れて頂くには先生の推薦がいる。何をするにも師が面倒を見て下さる世界なので、勝手に活動をすることは許されていない。いつも師が守って下さる。有難い世界だ。

先生とここで出会ってから17年になるが、出会ったあの頃、後々自分が講師資格を取って、ここで先生のお手伝いをさせて頂く事になろうとは想像だにしなかった。
物事は考えるだけ無駄だなと思う。
私は自分の思いに従って生きてきて、そのことで人に批判されることも多いが、こうして長く続く大事なものとの関係が複数育ってきていることが、私を支えてくれている。

さて、ここ数年こちらでのお稽古は人数が少なめで、子供がお稽古に上がるのが特徴だ。保育園からお稽古をしているお嬢ちゃんもいて、社中の有望株である。
初めの頃は先生のご苦労を傍で拝見しながら、ひとり勝手にハラハラしたものだが、いよいよ先週から、釜の前に座って本格的な薄茶の点前の稽古を始められた。今週小学校に入学したばかりのピカピカの1年生なのだが、茶歴は今年で3年になる。共にお稽古を始められたお母様は、同じく先週から濃茶の稽古を始められた。大事な道具の扱いが増え、緊張されておいでだったが、練られたお茶はとても美味しかった。ご本人のお人柄が滲み出るような、丁寧に練られたお茶だった。

時間をかけて積み上げてきたもの、身に付けてきたものは絶対に奪われない。
かつて、大事だと思っていたものを失わねばならなかった経験をした。そんな経験がなかったとしても、死ぬときに何一つ持っていけないのは皆同じだ。私は肉体が死ぬ前から、何一つ自分のものと言える物などないのだと知った。

でも経験や智慧は、肉体を無くした後にも持っていけると信じている。

2日後に、しばらくご無沙汰していた先生にお目に掛かる。何事かが起きた時に、いつも心の中で思い浮かべて対話をする何人かの方々のお一人だ。その大事な方々が、私に智慧を授けてくれた。では智慧って何なのと聞かれたら、うまく言葉にできないかもしれないけれども、思うことは心の中にたくさんある。こういう思いは、いつか行くどこかに持っていけると信じている。

できれば、そのどこかに持っていかれる智慧のためだけに生きたい。
「私」というかさぶたが無くなっても存在するところへ、持っていかれるもののためだけに努力ができればと思う。
すべての行為を神にささげるカルマ・ヨーガの教えに、このところ強く共感している。
物事に意味を与えるのは自分なのだから、小さな心でジャッジをするのではなく、目の前に起きることをありのままに受け入れて、よく考え、丁寧に行為したい。