蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№452 ずっと、ここに

今、とても哀しい経験をしている。
事情があってここに詳細を書くことができない。

これまで学んできたことをすべてつかっても、この経験に立ち向かうことができない。
物陰に隠れて涙を流すことしかできない。

同時に、書籍やきれいな研究会では絶対に学ぶことのできないことを教えられている。
ひとりの人が、言葉通りの意味で、全身全霊を使って私になにかを教えてくれている。
目を反らさずにしっかり見ておけと。

家族という関係性は、制度の中で構築され維持されていて、人を滋養する関係性に育っていないことが多い。
ひとりの人が成長し成熟するということは、この関係性が豊かに育っていくことに直接は繋がらず、双方が成熟し合うことをもってようやく関係性自体が成熟していくのだと、感じた。

家族という関係性のもつ病理を真剣に捉えて、その関係性から生じる個々の人のなかの闇や影をきちんと見つめていかなければ、人が真に癒えるということはありえない。

制度に守られてはいない関係性はそれぞれの努力と愛情によってしか構築されないものなので、お互いを癒す関係性に変容させることができる。

家族でも職場関係でもない、いつどこで切れても不思議でない関係性の中で、人と人との結びつきが深まっていくこと、そして癒しが生じるかもしれないことをこれからもっと大事にしたい。
いつも大石先生と「第三の場が大事だよね」と語ってきたが、私はその第三の場に命を捧げたい。

死ぬときにはひとりで静かに、とも思ってきたが、たとえ病み衰えた姿であっても愛する人に手を握って欲しい。逆の立場でも、私も手を握りたい。
制度の押し付ける関係性に阻まれたとしても、たとえ蹴られても罵倒されても、その肉体がこの世にあるうちに、手に触れて温かさを感じたい。

肉体というもの、それぞれの人の個別性。そういうものを祝福して生きたい。
せっかく今生で出会った大切な人たちと、生きて別れることがないように、死という避けがたいものがどうしてもどちらからを別の世界に連れていくまで、思いや言葉やエネルギーという目に見えない領域と、触れることのできるリアルな領域とをしっかり使って、触れ合っていきたい。


苦しまないで欲しい、でも一分一秒でも永く、現し身をもって私たちのそばにいて欲しい。
その相反する思いが、傍にいる者を苦しくさせる。
生きるということはなんて尊いことなんだろう。
すべての尊いように見えるものが、この生きるという営みの先にある。
だからほんとうは、ただ生きていることが尊い

もう何も生み出さなくてもいい、価値のあることなんてやらなくていい。
ずっとここにいて、手を握り続けられたらいいのに。

お願い、どこにも行かないで。
目を開けて、ちゃんと私を見て。