蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№229 好みの問題

数年前の映画をようやく見た。
表千家を始めとした三千家が皆協力なさった,「利休にたずねよ」。
教授者講習の折にも、お家元所蔵のお道具が使われるのでぜひ、と勧められていたが、その当時は叶わなかった。

色んな見方や意見はあると思うが、海老蔵さんや中谷さんの所作も美しく、見ていて気持ちが良かった。

冒頭で、信長に道具を見せるシーンがあるのだが、他の人々は「モノを売ろう」としているのに、利休は「その瞬間の美を切り取って見せる」ということをした。
これぞ利休さまの茶の神髄なのかな、と感じたのは確かだ。

弟子の山内宗二が、秀吉の命で殺されてしまうシーンで、宗二は「自分の好みを人に愚弄されるくらいなら、死んだほうがマシだ」というようなことを言う。

自分の感じたこと、考えたことを口にする(言語化)を躊躇う人は多い。
かつて私もそうであった。
でも、自分が感じていることは宗二が言うように「好み」なのだから、誰かにどうこう言われることなど気にせずに口に出したらいいのだ。

あなたと私の好むところが違っても、全く問題ない。
お茶の世界で楽しませてもらうようになって随分時が経ったが、確かに、何かを拝見した時に申し上げる感想や、人との会話は上手くなったように思う。

例えば、ある季節のあるお軸(掛物)の様子を表現するのに、「これは、夏に相応しい涼やかな表装ですね、私はここの部分のお色が特に好きです。」などと申し上げて、揶揄されるなどということは絶対にない。

お道具を見ながら「どれが好き?」ということは聴き合うけれど、それぞれが相手のお好みを尊重し合う。「~だからダメ」というような評もしなくて済む。「好みじゃないなあ」というだけだから。

お茶を通じて、随分と救われていることに気付かされる。
そんな映画だった。

「人生七十 力囲希咄 吾這寳剣 祖佛共殺 
堤る我得具足の一太刀 今此時ぞ天に抛」
という辞世を遺し、自ら腹を掻っ切った利休さまの迫力は、描き切れててないんじゃないかな、と思ったけれど。
そこは好みの問題かな。