蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№307 意識をする練習

先週は長い出張に行っていた。そして数年ぶりに、師匠と二人で会って話をしてきた。
お付き合いは10年を超えたが、この年月を振り返るとしみじみと自分が変わったのを感じて嬉しくなる。決して楽な道ではなかったが、間違いなく価値ある10年だった。

「10年かかるが、一緒に学ぼう!」と言われたら、多くの人は引いてしまうよねと師匠は言う。残念ながら、今、躊躇すれば、きっと10年後も同じことで悩んでいるだろう。人間がほんの数年で変わると思うのは、少し傲慢な考えかもしれない。

この師匠に言われたことを理解するのに何年もかかった。
「読んでごらん」「やってごらん」と言って頂いたことの積み残しを今も持っているが、ある時突然それができるようになったり、「今だ!」と感じる時がある。こういう学びを3年間で完了しろと言われたら、きっと私にはできなかった。その時「できた」と思ったことも、あとになってみると低い完成度だったと気付かされることもある。

おかしな例えかもしれないが、成長は猫を飼うことに似ているような気がする。
1年目、3年目、5年目と関係性が変わっていく。簡単には馴染んでくれないが、病気やケガをきっかけに急に親密になれることもある。お互いそこにいるのが当たり前になってきた時に、見知らぬ面を見せられてハッとさせられる。

人は「自分」というものをよくわかっていない。
それどころか、本当の自分から分離されている。
ほんとうは分離などできないのだが、そう思い込んでいるのだ。

自分と肉体も切り離されているように感じている人が多い。
身体的な実践の役割は、切り離された肉体を何とかすることではない。
「わたし」というものと、「からだ」との橋渡しをして、それが本来わかれることなどできなかったことに気付いていくためのものだ。そして自分というものの「取扱説明書」を、自ら紐解いていくことの入り口ともなる。

ほんとうの「わたし」がわかったとき、あなたはこの上ない幸福感に満たされる。
その感覚を知るために、まず自分自身を「意識する」練習をしていこう。

この世に生まれた時、自分の心身を思うように扱えず苦しんで泣く。次第に成長し、意識せずに使えるようになるが、その先に「改めて意識して使う」ことを学ぶと、その豊かさに驚くことだろう。

ヨーガが導く心身の状態は、「当たり前」のもの。苦痛がなくて当たり前のからだに、当たり前の状態を提供されても、それに気付く能力がないことが多い。
意識化を練習すると、この当たり前の状態のすばらしさに気付く。

「自分には何かが不足しており(または欠点があり)、罰を受けるのではないか」と感じながら生きている人もいる。
生きていく上で、なにか大きな力あるものが、あなたに罰を当ててきたりはしない。
そんなことを言ったりしたりする”人間“は確かにいる。それはただの人間のすることだ。

今、あなたは息をしているはず。
呼吸という祝福を受け取っていることを、この瞬間に感激と共に受け取って欲しい。
意識化は、呼吸から始まる。