蓮は泥中より発す

心身一如に生きるヨーガ教師の日記

№143 発達、花が開くように

たった今、第5回目のオンラインゼミナールを終えたところだ。
今日のゼミナールも、多くの刺激を頂くことができた。

ただ、全体でのシェアの時に、どうしても自分の視点に固着してしまうというか、様々なバックグラウンドを持つ参加者の皆様に向けて、分かりやすいようにお話しできていないと事を感じる。
これは私の課題だろうと思う。

加藤先生のオンラインゼミナールや、インテグラル研究会の中では、負荷を感じる。
そのため、言うこと為すこと、なんだか浮ついているような気がする。
これも必要な経験なのだと思うが、お腹の辺りに微妙な違和感を感じる。

以前、初めてゼミナールに参加させて頂いた時のことを思い出す。
事前課題に関して悪夢を見て、涙を流して叫んでいたことがあった。
それくらい自分自身にとって、負荷がかかっていたのだ。

ヨーガを実践しているせいか、感情的なものをそのまま身体に感じる。
昔はこのつながりが切れていたので、なぜ体が重苦しいのかのわけを感じ取ることができなかったから、今この様に感覚を感じることができるのは、訓練のたまものだろうとは思う。

ああ、自分はダメだなあという無意識の感覚が、下腹にそろりとやって来る。
でも今は、その不快感をそのままに受け止めて、今の自分の在り様を受け入れられるように思う。

いつかOさんやSさんのように語れる自分になりたいなあ、なれるかなあと思う憧れや焦りの気持ちと、自分は自分でいいんだと思う根拠のない安心感。
その相克の中に私という存在が在る。

発達 Develop とは、つつみこみ花開かせるものだという。
誰かを、いつか花開かせるような仕事をしたいと思う時、まず今、既にこのようである自分を、つつみこむ心が必要なのだなと思う。

加藤先生に出会わなければ、自分をこれまで育てて下さった師匠方の、未熟な私を受け入れ、ゆっくりと導いて下さったことの価値に、意識的に気付くことはなかったのかもしれないし、その理論的な価値や素晴らしさに理解が及ぶことはなかったろう。

ここ半月の変化の多い生活の中で、余裕を失っている自分がおり、今は何かを学ぶに相応しい状態ではないと思う。それでもそのなかで、あえて何かを学ぶことの意味は、後になって見えてくるのかもしれない。

昨夜も半月ぶりの筝曲の稽古で、置かれている現実とはまったく違う華やかな曲想に連れられて、心がふわりと舞い上がっていくその高揚感に、弦の響きの力を感じたものだった。

今でないどこかにいくため、今のようでない自分になるための学びなら、もうやりたくない。今以外にどこもないのだと、迷いなく思っていたい。