蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№94 それしかできないのかも

6:29
これから、広島大会のお手伝いとして会場に向かう。
療法士会・広島の幹事長である のま先生には、ヨーガ教師になりたての時から可愛がって頂いている。私自身も、理想のヨーガ療法士の在り様を のま先生に見、求めていると思う。
症例発表の際に応援に駆けつけて下さったり、先輩との人間関係に悩んだ時にも相談に乗って貰ったりと、ご恩は限りない。小さい体で八面六臂のご活躍をしておられる のま先生を敬愛して各地から人が駆けつけておられるので、大してお手伝いさせて頂く事は残っていなかったようだが、同じ中四国に属する者としても今大会の成功に向けて微力ながらお手伝いさせて頂こうと思う。

来年は札幌、再来年は沖縄。開催地の療法士が協力して開催している私たちの学会も年々会を重ねていく。私たちの土地でもいつか開催されるだろうか。

昨夜はF先生と会食。「牡蠣が食べたい!」と仰るので何品も牡蠣料理を頂いたが、本日スタッフに名を連ねている私は生ガキはパスした。一度当たったことがあるのでね…

杯を交わしながら、ヨーガについて、療法士として、人としての悩みや思いなどを語り合う。この方とお話をさせて頂くと、考えが纏まり深まっていく。とても大切な存在だと思う。来年も楽しみにしている。年に一回というのが、深まるためには良い条件になっているかもしれない。

ヨーガを行じながら生きるなかで、人がどうあるべきかについて自分の考えを押し付けることなく、自分自身がヤマ・ニヤマに反する生き方をしていないかだけを問う。それでも、自分自身がこれまで生きてきた歴史と、その中で受けた打撃が自分を形作っている。苦しんだ過去の記憶が、人に自分を寄り添わせようとする。上手に生きることを目的としたくない。

私が私として生きることで、人にがっかりされることがある。それは哀しいことだが、人をがっかりさせないために人生を生きたくない。長く伝わる教えに反しないようには生きたいと思う。
生きる中で生起しては去っていくものに、一つひとつ真剣に向き合って生きたい。その中で誰かをがっかりさせることになっても、大きな器の中では意味があるのかもしれないと思う。私がこのように生きて来なかったら、私は人のトラウマなどに興味を持たなかっただろうと思うし、DARCのようなところで仕事をする喜びも得られなかったはずだ。

絶対などないことが分かりながら、ヨーガを良いものとしてお伝えするのは苦しいものだ。「私が救われたということだけは、間違いがないのです」としかいうことができないのだが、それでいいのかもしれないな。