蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№703 教える・教わる

汝に照らされて見つける吾のうすあおい卵の殻のようなもの  小林久美子

 

 

 

6月27日、だけど昨日のぶん
すみません、昨日サボりました。ごめんなさい。どうしても書けなくて。
階段から足を踏み外して1週間が経った。全体重をかけて床に激突した踵の痛みはなかなか引かない。足のケガの経験豊富なJK剣士に今の思いをぶつけてみた。
「足のケガって大変だね?!」

そりゃそうだよ、とJK剣士。しかも彼女たちの場合、ケガして痛くても「歩けとるやん!」とカントクに言われて稽古は普通どおりにやるわけなので、まったくもって頭が下がる。母さんそんなの絶対ムリ。

でも痛いのは痛いだけ。ジャスト痛み。だてにYogaをやってるワケじゃないので、「そこに存在してる痛み」はべつにそれで全然いいんだけど、ふだんに比べて可動域が狭くなっているから全体的な体の使い方に違和感が生じてくる。昨晩はオンラインレッスンの指導を行いながら、自分のカラダの動きを確認&調整したら、これが大変な疲労感を生む。すごく微細な動きなのに終わったらもう疲労困憊である。その場から起き上がれなくて気を失ったように横たわっていた。

しかも。しかもである。昨晩給湯器の調子が悪くて、夜遅い時間のレッスン前に入浴しようとしたらお湯が出ない。更に。私は昨日、月に二回行うヘナ染の真っ最中だった。アーユルヴェーダにおけるヘナの使用目的は心身を浄化することである。結果的に髪も染まるが、YogaにおけるAsanaとヘナ仕様における髪染めは「おまけ的効能」として同じ位置にある。かなり役に立つおまけで実に素晴らしい。

何時間もヘナをつけたまんまにしておく人がいるらしいが、私のアーユルヴェーダ・マスターSちゃんからのご指導によると、そんなに長時間つけておくものでないとのこと。せいぜい1時間、それ以上置いといたら体が冷えちゃう=除去しようとしたものが増えちゃう。なので教えどおり1時間経過後洗髪しようとしたのに、お湯が出らんじゃないの!

1時間で流せと言われているものを流せない。お風呂入れない。レッスンなのに頭にタオル巻いてる(オンラインでよかった)。足痛い。動いたら微細レベルで疲労困憊。もうオンラインレッスン後は抜け殻である。明日の朝もオンラインセッション。さすがにこちらは頭にタオルを巻いたままではちょっとムリ…。もしかしてもしかしたら水で頭を洗わないといけないのか。押し寄せる徒労感。しかし腹は立たないね。「あー…」と思うだけ。どうして?なんで?とも思わない。「あーお湯でない」、それだけ。

給湯器のご機嫌は朝には直っていた。お湯が出て頭が洗えるってなんてしあわせなんだろう!ありがとう給湯器、ありがとうお湯。

 

 

昨日は月1の講座日だった。2018年からやっているのだがなんだかんだで続いている。初めの頃は「これでもかぁ!!」という分量の資料を準備していたのだが、今になってようやく思う。問題はテキストや知識じゃないんだ。

じぶんのなかで日々ユラユラと立ち上がる問いのようなものに関するヒントは、生きていれば外の世界からやってくる。生徒さんの発する何気ない言葉や問いが、自分のなかの問いにズバリ答えるようなものであることは頻繁にあり、ごく親しい人や生徒さんとはテレパシーでやり取りをしているのだとしみじみ思う。あたまのなかで考えていることは自分ひとりの個人的なものであるという考えを、私は採用しない。すべて「ばれてる」なあ~と思っていつも笑ってしまう。「かよちゃん(もしくはツボイ先生)が〇〇なんじゃないかと思って」と誰かに言われて「なんでわかったの?!」と思うが、きっと頭の上にフキダシが出ているんだろう。

 

大量の資料を調えても、伝えたいことはひとつである。たったひとつの大事ななにかを、角度を変えてしっかり理解したいだけ。となると受け取り手の器の問題になる。目新しい考えを採用しても、アタマの中身が変わらなければなんにもならない。頭の中身が変わっているかどうかは言動でわかる。だから結局はやり取りを通じて「いま、どうしてそういう言葉になったの?」ということを問い、お互いハッとするしかない。

でもすこしずつ、確かに私たちは変わってきている。なぜそれが言い切れるかというと、「え?」と一瞬戸惑う場面でハラが立ったりしないから。怖くなりそうな場面で不安じゃないから。生きていること、今こうして息をしていることが実はすごいことなんだと、うすうす気づいているから。

教えることと教わることは表裏であり、優れた弟子であることは優れた指導者であることに通ずる、とずっと言われてきた。人になにかを教えることを生業とするという誓いを立ててその地平に立ったときに、茶の師から授けられた言葉である。「人にものを教えようとするあなたは、よき生徒でありなさい」と。

師弟の縁は親子より深いと言われていて、真剣に学ぼうとすると互いの醜いところは自ずと見えてくる。しかし決して手を放さずに教わろうとするとき、自分がまた教えるものであろうとするときの覚悟や救いが見えてくるような気がした。Yogaでもお茶でも歴代の先生方を深く敬うけれど、生きるなかで様々なことがありながらも「教える」ということを堪えてやり抜いた方々への敬意なのだろうと思っている。