蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№496 誰にもわからぬ

風。そしてあなたがねむる数万の夜へわたしはシーツをかける  笹井宏之

 

 

 

今日のレッスンで、ある生徒さんが膵臓癌であると伺った。地元企業で長く続けているクラスで、お世話役の方から伝えられた。なにかちょっとしたことがあればすぐに通院して、毎日体操してくれる真面目な方だったのに。

そのことを伺って帰宅すると、乳がんの生徒さんから、今日主治医から余命について話があったとの報告があった。

 

 

なぜ、ひとが、ひとに対して、どこかの誰かの亡くなった理由を集めた数字をもとに、あなたの命はあと10年ですよって言えるんだろうか。言っていいんだろうか。

「この数字は、すごく曖昧で、何の参考にもならないかもしれないですが、まあこういう見方も、この世にはあることはあります。でも僕は、命って、絶対にそんな単純なもんじゃないと思ってますから」って、言ってくれないんだろう。

 

どんなに怖いだろう。心細いだろう。
人が、言葉で誰かをそんなふうに追いつめたり傷付けたりすることが、なぜ許されているんだろう。
だって、叩いたらいけないですよね。目の前のひとを、いきなり。
暴力をふるえば、犯罪でしょう。なぜ言葉は、こぶしより人の存在に刺さるのに、取り締まられないのかな。


わからないものをわからないままにしておくことが、なぜダメなんだろう。
私だって、明日この世から離れて、絶対者ブラフマンとの合一を果たすかもしれない。
もう一度、愛おしいあの人に触れたいとどんなに願っても、それをすることなく現身から離れるかもしれない。

だれにもわからない。

病気があろうがなかろうが、そんなことは人間の目では見通せないのに、みんなが信じればそれが本当のようになってしまうことがある。

でも私たちはみんな、余命不明。
あたりまえでないからこそ、この一瞬が美しいと思える。
すべてが不思議であると思える。

自分で信じると決めたものを信じればいい。
世のなかのひとに頭がおかしいと思われても、真実に照らし合わせて、この世に確かなことなど何もないという立ち位置に立脚して、1日1日を大事に生きていく。

 

人はいかにも、思はば思へ、狂人とも云へ。
我心に、仏道に順じたらばなし、仏法にあらずば行ぜずして、
一期をもすごさば、世間の人はいかに思うとも、苦しかるべからず。 
正法眼蔵随聞記 三ノ十)