蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№214 愛は受け取れているのか

昨日は早朝から夜までハードなスケジュールだったが、心は豊かに満ち足りて帰ってきた。

帰宅後は改めてこの度の展示会の図録や、2016年に開催された楽家の「茶碗のなかの宇宙」展の図録を見返した。娘たちも、乳児の頃から稽古場に出入りさせて頂き、お道具を拝見する機会に恵まれてきたので、先生から頂戴したお菓子(中村藤吉本店・生茶ゼリー)を味わいながら、一緒にあれこれと語り合った。
猶有斎宗匠が水指に描かれた、「鶴亀」の絵がとても素敵だ。

ちなみに今回の高島屋でのお好みもの展、図録が2400円ほどで販売されている。
入場こそ無料だが錚々たるお道具ばかり。すべて千家十職さんの新作。そして家元の好みもの。そしてここに展示されているものは、いずれ個人所有となり、目にすることも叶わなくなる。京都に住んでいたら毎日行きたい。

さて、今朝、最近なかなかお会いできていなかった某先生からお電話を頂戴した。
弟子の私としては、ご無礼続きであることが情けなく、「先生はご立腹ではないか」と思っていたのだが、先生は純粋に私のことを案じて下さっていて、「ああ、元気で良かった!」とお優しい言葉を掛けて下さった。
そこでハッとした。

どうやら私は、「人は自分に怒っている」という無意識の思い込みがある。

実は掛かってくる電話も苦手だ。
「あー、なんかしちゃったのかな…」と、取る前から叱られる前提でビクビクしてしまう。トラウマがあるのだ。
他にも、「人は自分のことなど気にかけていない」という思い込みもあるような気がする。

実は先月の講座で、「幼少期の誤った思い込みを修正する」というワークを行った。
非常に簡単なものなのだが、継続するとなると難しい。講座生のうち、ご希望の方々とグループを作り、毎日のワーク継続をお互いでサポートしている。
実際にこのワークを行ってみると、皆さんも様々な変化を体感されておられようだし、私自身は夢を覚えておけるようになり、過去の嫌な思い出がふわりと浮かんできたり、こうして自分のことを意識化しやすくなったりという変化を感じている。

「知足」を感じられるようになったのも、ここ最近の変化だ。
不足を感じて生きているつもりはなかったのだが、自分を減点法で厳しく見ていたことに思い至った。
修行会に出た時など、一時的に良い状態を経験することは誰でもあると思うが、それが一瞬の幻に過ぎなかったことが今になってよく分かる。

そこで思う。
自分は、人からの愛情を受け取れていなかったのではないか。

内心に怖さを抱いて生きてきたのは無意識のことで、そういうプログラミングはたぶん幼少期にできたものなのだろうが、それを何とかする(癒す)こともできる。
修行大好きで、人に勧めると「そんなの無理~」と言われるようなことをやることで解放や平安を求めてきたのだが、実はそんなに難しいことは必要じゃなかった。

毎日少しずつの努力を積み重ねることを、ヨーガでは「タパス」という。
努力でもあり、情熱とも訳される。
実は努力って情熱そのもので、悪い自分を何とかするためのものじゃなかった。

そんなにビクビクするなよ、こんなに思われてるじゃないの、と、自分に言ってやることにしたい。



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昨日伺った、楽美術館