蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№166 誰かに話してみる

神戸で朝を迎えた。
定宿は、昨日突然エアコンが壊れてしまったとのことで、対応に大わらわでおられた。
いつも、スタッフのRちゃんや、オーナーの善さんと、あれこれお話させて頂くのを楽しみにしているのだが、それどころではなかった。来月を楽しみにしていよう。

明け方に色んなアイデアが溢れて、目が醒めてしまうことが時々あるのだが、昨日もそうだった。
もしかすると、このアイデアをすべて実行に移してみると良いのかもしれない。
起きた後の理性的な頭で再考などせずに。

昨日の文章にも書いたが、インプットに対してアウトプットが少ない場合の弊害について、改めて過去の経験などを思い出しながら再検証してみた。
確かに、人のご意見を聴かせて頂く事で、甚だ混乱し身動きが取れなくなることがこれまでもたくさんあった。

ヨーガ(=統合ですよ。=体操ではありませんよ。)でも、知ったこと、感じたことを自分の言葉で言語化することを重要視しているが、伺ったお話も、体操実習と同じように、「客観視、熟考、言語化」の道筋を辿らないと「わが智慧」とはならないようだ。

生徒さんのお話をじっくり伺うのが、私の主たる仕事だが(体操を教えるのは、手段であって目的ではありません。)、多くの人は、深い内心の思いについて耳を傾けてもらう経験がない。

今日はこれから御影での月1度のレッスンなのだが、度々会うことができない方々のお話を、全身を耳にしてしっかり伺って来ようと思う。

お話を徹底的に聞かせて頂くと、ご自身で解決策や変化のためのアイデアを思いつかれるのだ。私はそこにいて、ただ聞いているだけ。
その鮮やかな変化の様には、いつも心から驚かされる。

今日も新しい驚きを期待しつつ。