蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№141 夢でも見なければ

サイコパスって、実際に身近にいるんだと知った。
規夫先生がブログにも書いておられたが、私はこの年になってもまだ世の中を分かっていない若輩者なのだと改めて思う。

鮮烈な驚きと共に、何かの間違いというか、悪い夢でも見たような気持ちになってしまいそうだったのだが、先生のブログで読んだことが心にかかっていたため助けられた。

心にこだわりを持ち、厄介な癖になってしまうと、膿が滲み出るだろう。
どんなに心を浄化しても、過去の膿がどんどん出てくるのだと、ヨーガの世界では言うものなのに、上から新しく溜めて行ったらどうなることやら。

ヨーガの世界観では、この世を支える力(絶対者ブラーフマン)が個の中にもあり(アートマン)、それを善なるものと考えているのだと思ってきたが、そもそもこの世界観は非二元なのであるから、善とか悪とか分類できるようなものではない訳だ。

異なる世界観では、プルシャとプラクリティ、陰陽からこの世界が成り立つという二元論もある。

今日の私は非二元と二元論のあいだでとても混乱しているのだが、自らの中にある混乱に気付かないままのほほんとしているよりも、今日の在り様の方がいいかなと思ってみる。

悪意に満ちた空気に晒されて、清浄なままでいられるものがあるだろうか。

誰の中にも、混沌とした豊かな中身がある。
それが外部からの刺激によって性質を変えるという事もあるだろうが、規夫先生が書いておられることはそんな長閑なことではないはず。
曖昧な在り様をしている長閑な生きものが、サイコパスのようなものに感化されるという事はあるだろう。正に今、そのような事例を目にしているのだと思っている。

今、私がお仕えしている方は「性悪説」を採用しておられる。
私は逆に「性善説」を採用してきたのだが、のんびり田舎でヨーガの先生をして、しかも一般的なクラスでもなく、療法として間口を狭めてやってきたので、自分の見方が揺さぶられるきっかけも無かったのかな、とここ数日は考えている。
成長にはダイナミクスが大事だと、規夫先生に言われ続けてきたのに、狭い範囲に収縮してしまっていたのだな。

頭の中で考えていることも、心のなかで思うことも、外に滲み出るだろう。
頭の上には大きなフキダシが付いていて、たぶん見る人が見れば人の中身なんてまる見えなのだ。

数名の師匠とのお付き合いを通じて、そう信じるに至り、できるだけ中身と外に出たフキダシに齟齬が無いように生きたいと思ってきて、仲間と言える人はそのような人たちなのだったが、この10年私が生きてきた世界は成長に心を寄せる特異な人たちの世界だったのかもしれないと今になって思い至る。そのことに関する自覚がなく、現実世界と乖離が生じていたのかもしれない。だから、ヨーガの道で闇の中に迷い込むことになったのだ。

十牛図のように、とはいえないけれども、今は市場に行ってみている時なのかもしれない。
いま、ここで、これまでの自分の修行が試されることになる。
何が見えていなかったのかも。

そういえば数日前、子を産もうとしている夢を見た。
いったい何が、自分の中から生まれ出てこようとしているのか。
何かを生み出すには、苦しみを伴う。
生み出した先に何かがあるはずだと、夢でも見なければとても乗り越えられない。

 

 

規夫先生のブログはこちら
http://norio001.integraljapan.net/