蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№139 神はどこにいるか

伯耆の国に霊峰大山がある。
その山の中に、灌漑用として作られた8個の池があるそうで、そのうちのひとつ大野池の傍へ毎日通っている。

この池には時折不思議な風が吹くそうで、この風の吹くとき、口で唱えた願い事が叶えられるという。また、この池は小石を投げ込まれるのを大変嫌うとも伝えられている。

元弘3年(1333)閏2月24日、隠岐を脱出した後醍醐天皇と幕府方の闘いがこの周辺で行われた際、天皇方の武将・大野某が敵に囲まれ、この池の近くで自害したものを、集落の人が五輪塔を立て供養したことに由来して、この池を大野池と呼ぶようになったという。後にこの五輪塔は、大山寺に移されて供養されたとのこと。

数日前、初めて、この池の周りを周回してみた。
歩き始めた地点からちょうど真反対に、小さな祠が祀られていたので般若心経を唱えさせてもらった。ほとんど人も通わぬようで、打ち捨てられたもの寂しげな雰囲気が漂う。こんなに近くにホテルがあるものを、誰も心を配っていなかったことが哀しい。

今、通っている仕事場には、割合立派な神棚が祀られている。私はよく分からないのだが、作法によると三種のお札をお祀りするのが正式のようで、ここにもちゃんと天照大神さんを始め三柱の神様がおいでになる。

ところが、この神棚が埃まみれだったのである。


今週末のゼミナールでは、宗教性について取り上げられることになるが、「狭い宗教」と「深い宗教」については私自身もずっと考え続けてきた。
何しろ救われたいので、藁にも縋るつもりで何にでも手を出したくなる時期があった訳で、こういうことは多くの方にあることだと思う。
ただ幸いなことに、出会った師やヨーガの専門教育を通じて、狭い宗教に対して嫌気がさしてきたため、自然と深い宗教に向かうこととなった。

数年前に大失敗をした。
「神社の奥に祀られている鏡には、あなたの顔が映る」という表現がウィルバーの著作にあったと記憶しているのだが、そのことをお話した後、大変なお叱りを受けたのだ。神に対して無礼であると。

「深い宗教」感に基づく発言に反発を食らった訳だが、どのような世界観であっても押し付けたり、傷つけたりすることは許されてはならない。当時、そして今もややその傾向が残っているが、自分が時間と努力を通じて漸く得た「今の視点」が素晴らしいものだという錯覚があり、そのことをお話した時の自分は悦に入っていたのだと思う。
狭い宗教を卒業した自分は偉いと。


話を神棚に戻す。
「深い宗教」感を理解するようになった私は、「狭い宗教」感を抑圧する如く、衝動的に家の神棚を撤去した。しかし今は、師匠を通じて頂いた毘沙門天さまのお札を祀って、毎朝ご挨拶をしている。同じ心で、勤め先の神棚に手を合わせ、毎日お礼を申し上げる。

私の中に「なにか大いなるもの」が宿り、こうして個の私という存在が在る。
同じ力はあらゆるものに宿っている。
この力に対する畏敬の表現のひとつが、神棚に手を合わせることだ。

神棚に手を合わせるように、目の前の人の中に確かにある、この「力」を敬うことができるか。

自我が邪魔をして、小さな自分に収縮してしまうことも当然あるけれども、1日のうちのどこかで必ず、広やかな心に戻り、個の中に宿る力を敬うために、神棚に手を合わせるという行為が役に立っているかもしれない。