蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№107 楽理の勉強からの連想

6月に受験予定のとある試験のために、共に受験する友人宅で勉強。
使用される用語にもなじみがないものが多いため、まずそこから慣れていかねばならない。過去問を最新のものから順に解いていき、現段階で求められる知識を探っていく。

これまで手軽に使える知識だけでやってきたことを、理論から自分で割り出していくのはとても難しい。「えーっと、なんでしたっけ?」と誰かに聞くだけだったが、先生や先輩方はこの知識を持った上でお答えくださっていたのだな。

集中して考え抜かないと理解し得たことがどこかに飛び去ってしまいそうで、友人宅を辞した後にも某カフェに場所を移して数年分の過去問に取り組んでみる。
さっぱりわからないことがある…。さてどうするか…。

こんなに勉強するのは、数年前にQCIヨーガ指導者任意認証試験Level2を受験して以来。しかしあちらの試験は、10数年培ってきた知識でほぼカバーできたので、足りないところを補うだけで良かった。

知識って、積み上げるものなのだなあとしみじみ思う。
フォボス的な傾向がある私は、過去の努力を評価しきれない傾向にあるが、数日前突然、今やっていることを、今のように行うためには、自分が順番に積み上げてきたアレコレがすべて必要だったのだと、初めて思えた。
そういえば22歳の頃から、人生ってなんでこんなに、大事な部分で思うに任せないことになるのかと思い、「知りたい」という欲求が生まれたのだった。そこから順番に知るべきことを知って、出会うべき人に出会って教えを受けてきたのだと思う。

あの若い頃に、ちょっとした絶望に出会ったお蔭で、今ここでこうしているのだと思うと有難い気がする。今振り返ると、あれしきで「絶望」と思っていたことに対しクスっと笑いが出てしまう(所詮、森の子リス的絶望)。
とは言え、当時の自分にとっては十分、人生に絶望するに足る事々だった。

内容がどんなものでも、個々の人の苦悩の強さは、受け止めるその人が感じる通りだから、傍のものが自分の尺度でどうこう言うことがあってはならないと思う。自分の物差しで他人にアレコレ物申す人は、「非暴力」の教えを身口意に亘って行ぜよというヨーガの戒律を胸に刻みこんで、自らが生きることに真摯に取り組んで欲しい。また自分も、固くその教えを守っていきたい。
救いがたい自分自身に取り組むことで、今生は精一杯だ。

当時の自分と同じように真剣に悩む若い人に、もっと出会っていけるといいなあ。