蓮は泥中より発す

心身一如に生きるヨーガ教師の日記

№101 熱に差がある

4月27日分として

このところ「二日に一度、まとめて投稿」のリズムになっている。
単に面倒だという訳でもなく、1日では思考の流れにまとまりが付かないように感じ、2日の期間があると「なるほど、そういうことね」というオチが付いて文章にしやすいように感じる。

さて、米子での瞑想講座第13回講義を行った。
実を言うと昨年の開講以来、講座のネーミングに関してもカリキュラムに関しても正に七転八倒の苦悩をし続けた、しばらく仕事もあまりできなくなっていたのだが、先日の学会参加直後、突然「落ち着いた」のだった。すっきりしたところで、ちゃんと仕事も増やしていかねば。

私はヨーガを行じて来たが、ヨーガが目的であったことは一度も無い。
「ヨーがしよう!」と思ったことは一度もない訳で、これは師匠もマハラジもそうだったんじゃないかなと勝手に思っている。

人の悩み苦しみに寄り添わんとして、人から人へと途切れることなく伝え続けられたヨーガ。その伝統の中からお釈迦様のような方を生み出し、イギリスの植民地としてあるなかでヨーロッパの体操文化に影響を与え、その大きな流れの中に様々な亜流を含んで続いてきた懐の深い実践法、それがヨーガだと思う。

昨今のマインドフルネスの流行に、ヨーガを行じる者として(そしてナンチャッテ・ヨーガ教師兼セラピストとして)物申したいことはごまんとある訳で、実際、加藤先生のゼミナールでマインドフルネスが取り上げられた時にはギャンギャン吠えたものだが、あれから少しの時間が経ち、ちょっと考えが変わってきた。
学会で心ある医師の方々の研究に触れたことも大きいと思う。

先日も書いたように思うけれども、ヨーガってハードルが高い。
恐る恐る門に参じてきた者に「覚悟はあるのか?!」と問うてきた文化だと思うし、死ぬまで続けること、卑近な目的のために使わないこと、人生をヨーガに捧げることを要求するような傾向があったと思う。
永平寺での修行を許される(物理的に、門から入れてもらう)前に、何度も覚悟を問われて問答を繰り返すそうで、その動画も先日見てみたけれども、それに近いようなものがヨーガの世界にはある。これは否定できない。なんたって、私も、オウム真理教風に言うと「ホーリー・ネーム」となるものを頂いているし。

既にヨーガに洗脳されているので、ヒマラヤの行者さまと師匠が選び抜いて下さった聖名を拝受した時も震えるほど感動した。「この名前の意味を一生かけて考え抜け」とのお言葉に「よし!一生かけて意味を理解してやるぞ!」とタパス(情熱)を燃やしたものだが、「ヨガって効くらしい」という動機で教室に来た人からすれば、それって相当引くだろうな…

専門家として熱は絶対に必要だ。
私の周囲にも、暑苦しい情熱で燃え立つような人が溢れている(類は友を呼ぶ)。でも初心者の方に対する思いやりって必要。そこがマインドフルネスのすごいところだと思う。

熱の差を考えて、断熱材も必要だと理解した平成最後の春。