蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№98 40年ぶり

4月24日分

なんと10数年ぶりに「銀河鉄道999 劇場版」を2作とも見てしまった。
1979年公開、今年で40周年だというではないか… 
初めて見たあの頃、そんなに子供だったとは。
あの頃大好きで、のめり込むように見ていたけれど、まったく分かってなかったんだなあと感じた。

改めて見てみると戦争のトラウマが随所に感じられ、V・D・コーク博士の「日本の高度成長を、戦争でトラウマを受けた人達が成し遂げた」という言葉を思い出した。
AIについては詳しくないが、知識がある方が見るとどのような感想を持たれるものか、興味がある。伺ってみたい。

人から生命エネルギーを抽出してカプセル化し、機械化人間もそれを服用することで生きて(動いて)いるという。あらゆるものには、自由度こそ違えど「プラーナ」という生命力が宿っているのだとヨーガでは考えているが、命というものについて改めて考えさせられる概念だと思う。

自由度が異なるということは、例えば今この文章を書いているノートパソコンは、色々と賢く働いてくれるが、私が電源を切れば意識を失ってしまう程度の自由度。背後で並んで寝ている猫たちは、気分に応じて気ままに出かけて行ってしまう高い自由度を持つが、ゴハンを食べるには私たちの足元にすり寄ってお願いをせねばならない。

ではワタシはどうだろうか。好きに本を読み生きているように見えるが、自由だろうか。というようなことを言い出すと哲学的な悩みが生じて大変なので、心が影に支配されず十分に伸びやかならば、教え通りに生きることも出来る(はずだ)ので、高い自由度を持つと言ってよいかと思う。

自由度が低ければ、生命エネルギーは少ないのか。
そんなことないのだ。単に自由度が低いだけなのだ。
自由度が低いからといって、生命力まで低かろうなどど思ってはいけない。
潜在的にはすべて同じように大きな力を授かっているのだと思う。

映画では人間からのみ生命エネルギーを抽出していた。
アウシュビッツガス室を思わせる光景だが、抽出される前の人間は気を失っているだけで、助け出されれた後は無事に地球に戻る汽車に乗車できていたのが救いだ。
せめて意識もない、動かない物から抽出できる技術があれば良かったろうになあ。

命を抜かれてカプセルにならなくても、人や物に力を与える生き方ができるだろうか。今のままで役に立つには、どういう生き方をすればいいのだろうか。
様々に思いを働かせた秀逸なアニメだった。