蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№89 再訪 スペースまほろば

4月15日(月)分

境港市でセッションをしておられる中野先生に会いに行く。

中野先生は「スペースまほろば」を主宰しておられ、私は自衛官時代の病んだころからお付き合いさせて頂いている。今年の夏で15年になろうかと思う。
ただここ2,3年ご無沙汰していた。先生はもっと会っていなかったような気がすると仰るが、こうしてまたセッションを再開したことが不思議で嬉しいと言って下さる。私もまったく同じ気持ちだ。

約3年間、クエストに出かけて経験を増やし、ようやく帰ってきた。そんな感覚。
なんでも先生に相談するような学びではないので、経験して痛みを感じ、悩んで勉強して考え抜いて、最後に対話して頂く。昨日もそんな機会で、とても豊かな時間だった。

私には有難いことにこういう存在の方(私にとっては「先生」)が数名いて、冒険して怪我をして学んできてことを、笑いながら面白そうに聴いて下さるのだ。私もそのご様子を見ながら「へへへ、私ってバカだな」と最後には笑えてしまう。そこでふっと存在が軽くなり、小さく収縮していたことに気付かされるのだ。

どの方も「先生と呼ぶな」と仰るが、まだ心理的に「〇〇さん」と呼べないくらい、自分がこの世のごっこ遊びに浸っていることが分かるので、相も変わらず「先生」と呼んでいる。

さて、昨日のセッションでは改めてシャドウワークの重要性が確認された。
ここのところ、自分にとっては意味のある夢を見て示唆を受けることが多いのだが、ここには書く気がしないでいる。そして忘れてしまう。ここ数日、此処にこうして文章を書くことも嫌でならなかったのだが、その理由もわかった。

物心ついた時から「ナチ」がやったことに興味があり、今でも読んだり見たりを繰り返しているのだが、なぜそんな動機が自分の中に生まれるのか不思議でならなかった。
その答えが、昨日は得られたように思う。

世界観が異なることで、価値を認める対象に相違が生まれる。大概の場合、自分の価値観に合わない人は攻撃対象になる。集団で夢を見て、その夢を大規模に人に強要したのがあの頃のドイツだと思う。もちろん、他に類似の例はたくさんある。

自分が現時点で、どんな夢を採用しているのか、いつも自覚していたい。
本を読んでも、その本を閉じた時には自分の世界観との違いを説明できるようになりたい。人の語る夢に没入したくない。自分もまた泡沫の夢を見ていることを、時々は思い出したい。そもそもヨーガはそのためのもの。

先週末から、ケン・ウィルバーの「ワン・テイスト」を読み返している。
初めて読んだのは中野先生のところへ行くようになった時。ご紹介頂いて読んだ。
15年前に読んだ時とは、まったく違う読書体験のように感じる。たくさん線や書き込みがあるので、当時も様々な事を思ったのだろうが、今とは感じ方が異なる訳で、こういう変化を遂げられる時間の過ごし方ができたことがとても嬉しい。

常に、少し前の自分の「夢中さ」を笑ってしまえると良い。
時には誰かの夢に乗っかるのもいい。面白くなくなったらやめればよい。
私は目を覚まして生きたい。真の意味で「ヨーガして」生きたい。いつも意識のどこかで、この移ろいゆく世界を愛おしく思っていたい。同時に、小さな夢の中で苦しんで涙を流していたい。

ここで書き連ねる文章は、私の「ワン・テイスト」なんだな。
やはりお勧めに従ってPDF化しておかねば。