蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№83 学びとは打撃である

 『人生が常に対立を伴って現れることに、不思議な感じを抱いたことがあるだろうか。なぜ、あなたが、価値あるものと見なすものは、必ず価値のないものとの対立の中で現れるのだろうか。あるいは、なぜ、すべての決定は、あれかこれかの対立の中で、行われるのだろう。

考えてみれば見るほど、このことは、つくづく奇妙なことに思えてくる。なぜなら、人間がその中で住んでいる自然は、対立の世界など知らないからである。』
「存在することのシンプルな感覚」 ケン・ウィルバー/松永太郎 訳 春秋社


この数週間、受けた打撃について考えすぎて疲れ果ててしまった。
相当にストレスホルモンを浪費してしまったような気がする。

ヨーガでは「不幸は最大の教師だ」と教わっっているけれど、確かにそうだ。
何かを「不幸」決めてしまっている、小さな私がそこにいるということ。

二極の対立の中で物事を決めようとしても、人の心のなかの戦いは常に泥沼の戦いであって、「こうだ!」などと決められたりはしないものだ。
だから「こだわりを捨てろ」といわれるけれど、それが簡単に出来れば修行はいらないな。
修行が大事になる瞬間がある。苦しい時も「小さな私」の死を常に続けること。
ほんの少しでも、修行の方法を知っていて本当に良かったと思う。


『片手の拍手はどんな音がするのか(隻手の音声)

通常の経験の構造とは、顔へのパンチのようなものである。通常の自己とは完全に打ちのめされた事故である。外側にある世界に打ちのめされているのだ。
主体と客体の隙間にこそ、人間すべての苦しみがあるのだ。

非二元の状態であると、そこに両手は無くなる。主体と客体は一つの手となる。
あなたはすべてとして、すべてのなかに解放される。あなたは宇宙であり、その味わいは無限である。

あるのは直接的な意識それ自体である。片手の拍手の音は、それである。』
(前掲書に同じ)