蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№63 他者に還る

昨夜は、東京から来てくれた友人を囲んだ会食でした。子供たちも一緒に、美味しい料理を頂きながら、大人同士は深く心の動く対話をさせて頂くことができました。

このような会に恵まれますと、その夜は言葉が頭のなかを巡り、巡る言葉を見ている私がそれに考察を加える感じで、肉体が休んでいるのをいいことに精神が遊びまわるような心地がします。そして明け方漸く、疲労困憊して意識が遠のくのです。
これは決して悪いことではないと思っています。
真剣に何かに向き合おうとするからこそ生じることだと思い、諦めています。
心的エネルギーが大きく動くと、燃え尽きたような(明日のジョーのような?)虚脱感の中で肉体と共に眠ります。

ここのところ、霧が晴れるように、現在の自らの課題の一部が見えてきたような心地がしています。その気付きの多くは、私の目を見てきちんと向き合って下さる方からもたらされました。関係性というのは育てゆくものであって、いったん壊れたようにみえることもありながら深まり、強くなっていきます。そういう方々にご縁頂いていたことに気付かされたことで、改めて体の芯から熱が湧き出てくるような、血が全身を巡るような安心感を得たものです。



この後の文章は、このブログをいつも気にかけて下さっている師のお一人を心に置きながら、今の気付きについて書き留めておきます。

この10何年かの私の取り組みは、一者を目指すものでした。その過程で、揺るぎない安心感を体感することができるようになりましたし、自分のような者にもここに生きていなくてはならない訳があるのだと確信することができました。
自分の心臓の中に確かに宿る一者を感じ、その確信は自信となった訳ですが、ふと今になって、一者を感じるために年月と実践が必要であり、師に助けられてこの状態に達することができたこと、また一者を求める動機を生じさせてくれた方たちとの縁があることに思い至りました。
正法眼蔵随聞記のなかに「憍心なけれど ありのままにふるまえば 傍らの人 これをいたむ」というような言葉がありますが、自分がありのままにふるまうことで人を苦しめることがあると気付いたのでした。
常に、修行を好み、一者を目指し上昇せんとする思いが強すぎるとのご指摘を数名の師から受けていながら、事此処に至るまで、そのことが引き起こす問題を理解できませんでした。
そして今、他者に還るための実践に取り組むことを「余儀なくされた」状態で始めようとしています。これまで私にとって、「他者に還る」ことが、以前の苦しい状態に戻ることのように感じられていたのが分かります。還るように見えて、それは違う道なのでしょうか、それとも同じ道であるのに私の感じ方が異なっているということなのでしょうか。
人の心に恐怖や暴力を生じさせる元を見つめながら、新しい道に踏み出してみます。