蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№62 目には見えぬからだ

昨日は、午後から慌ただしくいくつかの予定が入ったため、更新をしていなかったことを失念していました。この投稿は3月19日分のつもりで書いています。

18日は、月に一度の陰陽五行論の講義日で、車で片道1時間かけて出雲市に出かけてきました。
中国を発祥とするこの学問は、インド哲学と根っこは同じながら、存在を構成する5元素から「空」が消え「金性」が含まれるなど、世界観の違いがあります。この学問に関しては、学理部分についてはまだあまり理解していないため、簡潔に説明することは難しいのですが、思想を基礎として受講生の問いに応えられる師のお言葉に多くを教えられます。

人は自分一人の人生しか生きることができないため、他の方のお話を伺うことで他者の人生を経験させて頂くことが、この(肉体にとっては一度きりの)生を豊かにするために大切であるということはヨーガでも教わりますが、全く、もしくはほとんど存じ上げない方のお悩みや人生などについてお聞きすることができるのは非常に貴重な機会であり、師と、同じ場で学ぶ他者との問答には、自分にとっての気付きが多く含まれています。

これはこれまで受けてきたゼミナールや研究会などでも感じてきたことでしたが、偶然取り上げられたテーマが、自分にとって非常にホットな案件と被り、胸に刺さったり小さな悟りを得たり、ということは頻繁に起こるものですね。
言葉は目に見えぬ「思い」から生じ、その思いは肉体より力の強いものですから、同じ課題を抱えるものの何かを含んでしまうのでしょうか。

昨日は鍼灸治療の日でもあったのですが、漢方では身体を層構造で捉えることはないようで、先生は微細体(=肉体の目では捉えることのできない、気の部分)の概念を非常に面白がってくださいました。鍼を置くのは肉体にですが、それが作用するのは微細体に対してなのではないかなあと思います。

ヨーガも当然、見える体から、見えない体に対するアプローチですね。
人は見えるものだけでできている訳でないからこそ、ヨーガ(調気法・瞑想を含む)が目に見えない部分の変化を引き起こすのです。
こういうことを、広くお伝えしていかねばならないんだなあと改めて思ったものでした。