蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№61 教えるということは

昨夜も夢を覚えていようという意識のなかで、夢を見ていました。
マンションの一室が火事になっています。
しかしその火事は決してその部屋以外には燃え移らぬようです。
周囲でその日の燃えるさまを見つめている人たちも、決して見ている自分たちが害されないと安心しているように見えます。

昨日は合奏、今朝はお稽古でした。
このところ決して溌溂としている訳ではないのですが、通奏低音のように、今のありのままの自分で愚かなりに生きていけばよいのだ、それしか道はないのだという声が聴こえてくるようです。
どんなに哀しくとも笑いはこみ上げ、どんなに幸せな気分の時も痛みは感じるものです。それを静かに見つめておられるかどうかは、これまでの修行にかかっているのでしょう。
楽器を弾いているときは、心が鎮まるよりも、何かを掻き立てられるような気がします。「琴線に触れる」とは正にこういうことを言うのでしょうか。

今年の初夏に、準師範の試験に挑戦することとなり、そのための準備にかかりっきりです。必要な許状をすべて取ることができるのかも不安でしたが、昨日漸く、受験に必要なお許しのすべてを申請し終えました。
曲を弾ければまあよし、という感じでこれまで何年も稽古を続けてきたのですが、準師範になるということは、いずれ弟子を取る可能性があるということであって、自分が弾けるかどうかと、正しく教えを相伝できるかどうかは全く別の話ですから、今は必死に、長い年月先達が継承し続けてきたものを、自分の中に確かな標として遺さなくてはなりません。「まだ何も始まっていない」と毎回仰るお師匠様は、私の後ろに、もしかしたら続くかもしれない筝曲の歴史を見ておられるのかもしれません。

優れた教えに出会い、救われたと思い、それを人にも伝えたいと思う中で、教えを生きる自分自身が生きる途上で悩み惑うことは当たり前なのに、教えるという行為は僭越なのではないかと考えこみます。
自分の悟り・気付きが更に深まるために、「教える」という抽象化・言語化の過程を必要とするのでしょうが、それにお付き合い下さる方が現にお出で下さることに、もったいなく信じられぬ心持がします。せめて自分が学び取り、信じる、最も優れたものをお渡しできるように、自分の言葉を磨いていかねばなりません。
いつか愚かでなくなる自分を探して、生きている訳ではなかろうと思います。
今できる限り、耳を澄ませて、自分に理解できることを学び取って生きたいものです。