蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№59 夢を見ていることに気付く

早朝ふと目が覚めたので、そのまま支度をして帰途につきました。
私が去った後、神戸では激しい雷雨になったそうです。

昨夜見た夢を記録しようと思い、目覚めた時に夢を覚えていなくては、と思いながら休んだところ、夢を記録している夢を見ました。
何て単純なんだと微笑ましく思い、同時に自分の心の長閑さに救われました。

ヨーガを修行していると、夢の内容を変えられるようになるよとお師匠様が言っておられました。「おやおや、このまま話が進むと嫌な展開になりそうだ」と思ったら、あらすじを変えてしまえばよいのだそうです。
なんだか人生でそのまま使えそうな気がしてきます。

ヨーガを始めたころ、繰り返し見ている夢がありました。
苦しく、怖い夢でした。2つのパターンがありました。
近頃は、自分がストレスを感じていると思い、顕在意識の状態でどんなに涙を流しても、夢の中でまで追い立てられることは無くなりました。

人が苦しむのは、意識が明らかな状態の中なのではないでしょうか。
からだが痛むのも、痛みを感じる自分が目覚めている時だけです。
夢を見て苦しいと思う時、あることを苦しいと感じる自分の判断がどこかで働いています。
ただ俯瞰するように自分の夢を観察することが、まだできないのかもしれません。

まだ私は、5層で成り立つ自分の深奥のすべてを明確に意識することはできませんが、確かに私が休んでいる時、そこは夢も生じない、「生まれたことも死ぬこともない」という場所なのに違いありません。

ヨーガ究極の目的は解脱です。
苦しみから解放された安心な境地に至ること。
「無我」「無私」といいそれがあたかも尊いことのように言われることがありますが、最後まで個としての私は無くならないと聴きます。
「悟った」と分かるためには、個我が無くてはならないと。
だから無私になるなと、お師匠様は仰いました。

どんなに好き勝手に生き、個我の喜びを追求しても、全体と調和し決して矩を超えない。
それが目指す生き方です。
悟りを求めることで、例えどんなに人に恩恵を与えることになったとしても、悟りを求める心はエゴイスティックなもの。
私は私のために苦しみから解放されたい。
いつか、我と他が一度たりとも分かたことのないものだったと気付くのだとしても、そもそもの動機は利己的なものであった、決してそこを忘れたくないと思っています。