蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№58 心が澄んでいる時間

神戸で朝を迎えました。
この宿は、東からの朝の光が室内に入り、その明るさで自然に目が覚めました。
生きものにとって、とても有難い環境です。

光、空気、思い…どれほどの見えないものが私たちを生かしてくれているでしょうか。
昨日はヨーガについて1時間の講演をさせて頂きましたが、多くの方が思っておられるように、ヨーガは形ある肉体を何とかしようとしているのではなく、肉体という手掛かりを通じて、見えないものとの交歓をしているのだと思っています。

ここ数日、すべての物事が、「自分が何を見ずに生きているのか」を突き付けているように思え、これは私の修行が次の段階へ進むことを示してくれているのか、もしくは私のこれまでの取り組みがすべて間違っていたことを示すものなのか、両極の間を木の葉のように心が舞っています。
こういう時に、自分がインド哲学に触れてきたことがどれほどありがたいことだったのかに気付かされ、人は口に入れるものだけで生きているわけではないと改めて知らされるのです。

朝4~6時の間を、ブラフマ・ムフールタといいます。
魂が最も澄んでいる時間です。
瞑想や行はこの時間にするのが最適だと言われます。
この明け方に目覚めて、昨夜の夢の余韻に浸ったり、長く懸念であったことに示唆が与えられたりすることがあります。
1日を過ごすことで、人の中には外界からの刺激だけでなく、その刺激に対して自分が抱く雑多な印象が積み重なり、心が汚れていくため、夜は瞑想に適さないとも教わりました。

自分に嘘をつくと強烈なしっぺ返しがやってきます。
自分に嘘をつかず生きるには、この時間に自分の中に表われ出るものを丁寧にみていくしかありません。それをシャドウワークといいます。
最近、そのことを怠っていたことを、師の一人が教えてくださいました。

学びを受けるのに「面受」が大事であるのは、学びのどの段階までなのでしょうか。
ほとんどお会いすることのない、それでも内面で強く繋がっている何人もの師の、声や印象を思い返しながら生きています。
いつか肉体を持った師とお別れする日が必ずやってきます。
私の方が先に、この世からいなくなるかもしれません。
仏教では師弟の縁は親よりも深いと考えるそうですが、その言葉に深く頷く朝となりました。