蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

目を閉じてみる世界

f:id:Yoga_Lotus:20190308151507j:plain

キララ多岐から日本海を見ています。

昨日まで鹿児島に居ましたが、本日は朝から島根県出雲市に来ています。
今晩は大田市というところに滞在致します。
夜は大好きな温泉津温泉にも久々に行けそうですので、今からワクワクしています。
初になる元湯に行ってみようと思います。

今日は、久しぶりにレッスンを受けて下さるお二方に、改めて「目を瞑って自分の中を観る」ということについてお話申し上げ、実際に行って頂きました。

ヨーガというものを行じるときに、目を開けて行うことはやって来ませんでした。
誰もいないところで、ひとりで、目を閉じて、静かに、「私」というものの在り様を見つめる。それがヨーガだと思っています。
結果的に肉体にも呼吸にも色々と良いことがありますが、それはおまけなのでそれを目的にしては行いません。

人を生かす力は、歓喜鞘と呼ばれる人間内奥の場所に宿ります。
その力と一体であることを思い出すのか、またすべてのものに宿るその力を通じて「常にひとりではない」ことを思い出すのか、行じ終えた後に湧き上がる気持ちよさと力強さが、その力とのつながりを取り戻し得た証拠なのか、そこは「絶対こうだよ」と申し上げる訳にはいかないのですが、現時点の自分の知識・理解ではどうやらそのようだと、申し上げておきます。

ヨーガすると元気が出るけれど、肉体から元気が出る訳ではない。
そのことを知るには目を瞑るしかない。
目を瞑って見る世界を共有しようとすれば、言葉で表現するしかない。
人間が目の前の人の大事なものを理解しようとするとき、言葉が大事であるのと同じくらい、掴みがたい自分というものを理解するための取り組みをしていることが重要であると思っています。

その自分というものがなかなか分からない、ということは素晴らしいことなのか、それとも苦しみそのものなのか。
10年後にはどういう見解を持っているのか。今から楽しみにしています。