蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

楽しみの器

先日、「竜馬四重奏」の皆様が美保関にてライブをなさいまして、親しいお友達がチラシ等の作成に携わっておられたご縁で、私も拝聴させて頂きました。

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ホールではなく、伝統ある旅館でのライブで、演奏者の皆様との距離がとても近く、実に贅沢な時間を過ごさせて頂きました。

特に、鼓。
生の鼓の音を拝聴するのは、2015年に行われたご宗家の襲名演奏会以来。

リーダーの仁さんの、所作とお姿がとにかく美しい。

仁さんの発される力強いお声に、「声を発する人の体こそが楽器なのだ」と感じ、そのことを真似、また発展させる思いから、物としての楽器というが出来上がっていったのではないかとも思いました。

大きな演奏会では、奏者の方が遠いこともあり、目を閉じて拝聴することも多いのですが、今回は身近にての演奏で、全身、五感すべてで演奏を味わわせて頂きました。

以前、筝曲のお稽古は苦しい、ということを書きましたが、なぜ苦しいことを求めていくかというと、ちゃんと訳があります。
そのことを、この度、思い出させて頂きました。

私は、友人に無理やり演奏を聴かせてしまうという、悪い癖があります。
先日もやってしまいました。
(これまで「押しかけ演奏会」にご同席することとなってしまった皆様に、心からお詫びとお礼を申し上げます)
なぜそのような迷惑行為に及んでしまうかというと、ご宗家やお師匠様(更に言うと、宮城道雄先生)の筝曲にかける情熱を、少しでも皆様にも知って頂きたいという思いがあるからです。

公式の演奏会でも、押しかけ演奏でも、お客様にお辞儀しつつ、
「さあ、これから聴いて頂こう」と思うその一瞬、強い喜びが身内を貫きます。

「少しでも、この音が、誰かを幸せにできますように」
このために日々の稽古で苦しんでいるのであって、一番恩恵を受けているのは、間違いなく自分自身なのでした。

自分自身を、楽しみの器としていきたい。

仕事も日々の活動もすべて、この自分という楽器を通じて、人と共鳴し合うためにあるのでしょう。
心から楽しいことを追いかけていけば、それに伴う苦しみも必ず乗り越えられるはず。

どんな経験も恐れずに、生かされている喜びを響かせたいと願います。


本日は最後に、
私がお稽古させて頂いている「菊井筝楽社」をご紹介致します。

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