蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№839 本箱からヒマラヤ

今朝突然思い立って、本箱を探りました。

 

本棚、ではなく、本箱、です。

 

鳥取に転属が決まった過去のある日、胸までの高さの小ぶりの本棚を二つ買い求め「これ以上本は増やさない!」と心に決めて、買って読んでは売り、買って読んでは売りというサイクルを延々と繰り返してきました。BOOK OFFさん、その節は大変お世話になりました。

 

ある日、まだJKではなかった当時の未JK剣士に「もう本を売るのはおやめ」と言われたので、うん確かにそうだなと思って、読んで即売却のサイクルをストップしてみました。

 

それは、ガッカリ本を手に取って意気消沈することが減ってきたことの成果でもあり、これは売りたくないなあと思うアタリ本が増えていることの結果でもありました。

 

しかし、私は根本的にものを増やすのが嫌いです。
そして捨て魔です。この捨て魔遺伝子はこどもにも遺伝しています。

 

「ヒマラヤに持っていけないものは要らない」という主義で長らく生きてきましたので、本棚の追加購入などという策は一切検討しませんでした。

 

そこで私がとった戦略は、無印良品の超簡易なプラボックスに本を詰め込むというもの。実に安易です。

 

現在このボックスは3個にまで増殖し、しかも既存の本棚の上にさらに本が山を成しており、いい加減次の戦略に入ろうとしています。それはやっぱり売却なんですけどね、あはは。

 

ぐるっと回って元に戻ったわけでなく、外界から取り込む知識や情報を過大評価する自分のなかの”何か”から、心的に卒業したということなのだと思っています。

 

 

さて、今朝なぜ本箱を探ったかと言いますと、しげにいちゃんが呼んだからであります。

 

肉体の状態からお別れしてやがて3年ですが、御霊としてのしげにいちゃんは身軽になっていつも一緒にいてくれますね。南の島にも同行してくれてるらしいので、さすがだな!と思わされます。

 

私の場合は「おい、今のそのチョイスちょっと違うぞ」という場面で、胃のあたりにサインを送ってくれるという謎のテレパシーで対話をしております。

 

で、本箱です。

先週、ある方との会食の際に「聖典の読書会しようか」という案が浮かび、いいねと言ってくれる有志も数名集いまして、いつから始めるかの啓示をまっているところです。

 

その読書会では、「ヨーガ・スートラ/バガヴァッド・ギーター/ヨーガ・ヴァシシュタ」の三つの聖典を取り上げ、その教えとマイケル・タルボットの「投影された宇宙」を絡めて話しちゃおうと思っていまして、他にも色々仕込みをしようとワクワクウキウキしながら心算をしていたところ、そういえばしげにいちゃんの本棚から形見の品として貰い受けたヨーガ関連の本があったのを思い出したのでした。

本箱を探りますと、「ヒマラヤ聖者の生活探求」(昭和44年刊行)が、無事見つかりました。実を言うとまだ読んでなかったのですが、少し読み始めてものすごくびっくりしました。

 

全5巻のうち2巻を頂いていたので、急ぎ御用達の今井書店に出向きそこで4巻を入手、在庫のなかった3巻をAmazonに依頼したところです。

Yogaやってきたくせにマジで今さらなんなの私、というツッコミ以外ありませんが、ヨーガ療法どっぷりの間はひたすら聖典をそのまま読み込んできたので、許してもらえるのではないかと思います。

ということで、やっぱり大事なものもことも、探し回ったりしなくても向こうからやってきたり、お知らせしてもらえるものなんだなあとしみじみ感動しているところです。

 

 

 

 

№838 あ、そうか感覚

今は次の活動(世界?)に向けての準備中なので、まるで夏休みのような穏やかさのなかにいます。

 

ふりかえると、20年前にこの道に足を踏み入れてしまってから、ときどきこういう時間が生まれています。

 

足を踏み入れたのではなくて、いつかどこかで約束して既に見知っているところに還っていっているところなのかもしれません。

 

そう、夏休み。


決してジタバタせず、黙って次の何かがやってくるのを待てるようになりました。

 

以前はつらくてジタバタして、何かを勉強したくてたまらなくなっていました。不足感や焦りから、本を死ぬほど読んで、セミナーに出たりして救いを探し求めました。それも間違っていなかったと、今はわかります。それもすべてプロセスですから。

 

今日から、このBlogのサブタイトルを変えようと思います。
前回の変更は、前の加藤ゼミが終わったタイミングだったので、ちょうど三年前。

 

あの時も大変化の時でした。大事な人との別れがありました。でもその方とも完璧に和解しました。だんだんジタバタ度合いが減ってきているのは喜ばしいことと思います。見たり聞いたり読んだり、聞かせてもらったりしてきたものが、少しずつ自分の地肉になっていっているのを感じます。そして、ひとりでがんばらなくなっています。


もうひとつのよいニュースは、自分にようやく「観察者の視点」が確立されていることに気づけたことです。

 

私が私というとき、その私は自我です。

でもそれを高いところから見下ろし、包み込み見守っているのが本来の私です。

 

これを世界中の叡智の伝統において様々な言葉で表現しますが、それらはみな同じひとつのもののことを語っていて、私はそれを絶対者Brahmanと呼ぶ文化のなかで育つよう促されました。

 

私本来の私から決して離れることはできないのですが、それを忘れて遊ぶ方が楽しいに決まっています。決してその包み込み、守る力から私たちが見放されることはないのです。

 

ずーっと瞑想をしてきましたが、なぜそれが必要なのか、また、Asanaや調気がなぜ大事なのかも腹落ちしました。みんな何気なく使っている「いわゆるYoga」をやることは、目的でもなんでもありません。

 

苦悩と言われるあらゆる物事が「あ、そうか」と明らかになる感覚、私もこれをずっと求めてきました。

 

この「あ、そうか」という感覚にとって、肉体を浄化し調えること、エネルギーの使い方を本来の自分のしあわせに向け直すこと、調気でそのエネルギーの流れを調えること、そして瞑想をすることが、非常に効率のいい方法として、今にいる私たちへのギフトとして伝えられてきているのでした。

 

これはもう、「ありがとう」というしかないです。
Yogaという言葉は残念ながら現代では違う意味で使われていることが多いから、そろそろ違うパッケージが必要かもです。私にとっては、ということですが。

 

 

№837 助けを求め、助けられる

 

これまで、何人もの方の助けを受けてここまでやってきました。

 

こういう存在は人にとって必ず必要か?というと、決してそうではないと思うのですが、私の場合は三次元的にいわゆる「師匠的存在」が必要だったということです。


芸事もずっとやってきましたので、当然そちらの師もありますが、今日語るのは、

「生きることの探求
 =どうやったら人はしあわせになれるのか
 =不幸を克服できるのか
 =Mokshaに至れるのか」

という人間究極の課題についての師についてです。

 

そのことについて教え導いてくれた方々のお名前などは、このブログのサイドバーに記載していますので、ふむふむなるほどと思ってご覧ください。

 

さて、そのなかのお一人である加藤洋平さんが、この度3年ぶりに新しいゼミナールを始めてくれました。過去にもこういったゼミに参加させてもらってきたのですが、そのうちの「黒い本出版前ゼミ」で教わったことが、今も私のなかに楔のように打ち込まれていまして、どれだけそのことに助けられたかということをいつも思います。そしていつも人に話しています。

 

「黒い本出版前ゼミ」で教わったこのことは、Yogaの学びで与えられた「どうしてもつらいときは逃げてもいいんだよ」という教えと共に、ほんとうに人を救う救済の教えだと思っているのです。

 

それは一体どういうことかと言いますと、悩み苦しんだり、挫折したときに人に頼りなさいということです。しかもこのことを、「もし頼らずに自分ひとりで悩んだらどうなるか」ということをきちんと示してくださって、それが猛烈に衝撃的でした。

 

私たちはなんとか「成長」や「発達」をしたい、もっと良くなりたいという欲求を持って頑張っているのですが、誰もが必ず壁にぶつかります。スイスイ楽にできる学びも成長はあんまりないのです(あるにはあるのですが、ベクトルが違うといいますか)。

 

そして挫折したり苦しんだとき、ひとりで悩むとドツボにハマります。


成長したかったはずなのに、ひとりで落ち込むと発達するどころか、当たり前にできていたこともできなくなるという、負のスパイラルに陥るわけです。こうなるとなかなか浮上が難しくなります。かなり辛い状態です。私も身に覚えがあります。

 

だから、悩んだ時は誰かに「たすけてー!!」と言えることが大事なのです。

 

しかしここで肝要なのは、どんな方に助けてもらうかということだと思うのです。


例えば、誰かを恨んだり攻撃したりする方向性で援助してくれる人もこの世の中にはいると思いますが、この世のありようは鏡そのものですので、思ったこと・やったことはいずれ必ず我が身に跳ね返ってきます。これは決して批判などではありません。当然ですが私もやってきました。でもその結果、自分も誰も、しあわせにはできないのです。だから「そんなことしたらダメだよ、おやめ。」と叱ってくれる誰かを、とにかく自分にとって大事な人としておきたいと思います。

 

人間にはセンサーがついていますので、こういうネガティブ方向での対応をしますと、心は重苦しく、体は具合が悪くなります。本来の生命エネルギーの方向性とは、愛、喜び、静けさ、感謝ですから、どんなにつらく哀しい体験をしたとしても、一所懸命生きた結果であれば、そこには清々しさと解放感があるはずです。この経験は自分の人生でどうしても必要であると、私に天が命じたのだという確信と共に、その痛みや苦しみを我が身に引き受けて昇華していくことが(いつか必ず)できます。できるはずです。

 

ですから私たちは、人に助けを求めつつも、命の方向にしっかり沿う様な形でその苦しみを克服していく必要があるといえます。助けを求められた人も、命の方向に沿うように、人を導き支えるという役目があるということです。助けを求めるということ、助けるという双方向性を通じて、私たちは、命そのものを祝福していかねばならない。そう思います。

 

 

 

 

 

№836 「それ」の使い方

 

これまでずっと悩み考えてきたことがあります。

 

それはYogaの理論的側面、要するに聖典で語られていることともドンピシャのはずなのですが、抽象的だしそもそもYoga的表現がよくわからないということがあり、ケムに巻かれてきました。

 

しばらく前から書いていることですが、このことについて「なるほどそういうことか」という理解に近づいている感覚があります。「わかった」と以前書きましたが、わかった感が次第に深くなっていく感覚です。

 

そうそう、そういうことだよ〜と話してくれる人も周囲に現れて、なるほどやっぱりそうだったんだと思うことしきりです。

 

今朝も朝早く(3時)に、夢と共にそのことについての情報がドーン!とやってきて、要するにこういうことかな?とAちゃんに確認すると、「そんな感じだよ」と言って頂きましたので、今日この時点での私の気づきについて、ここで記録しておこうと思います。

 

こういうことは、すでに了解の上でうまく活用している方もおられる反面、さっぱりわからなくて(かつての私のように)悩んでいる方も多々あるかと思いますので、何かしらお役立てればさいわいです。

 

 

さて、私がずっとやってきた伝統的Yoga及びその応用法は、その実践に三つの柱があります。


1、Asnana :姿勢
2、Pranayama:調気
3、瞑想

 

この三つの柱は、ざっくりいうと「1と2」、そして「3」というグループに分けられる気がするのです。「1、2」で体を調え、呼吸をきちんと行うことで何が起こるかというと、生命エネルギー(Prana・氣)が増大します。

 

この、Prana、靈氣(単に氣とも)が本日の標題「それ」にあたるものです。私のお気に入りの表現は絶対者Brahmanですが「者」とついてても決して人じゃありません。なんでこういう日本語訳になったんだろう?

 

それ=生命としてのエネルギーが増大すると、それをどう使うかが決定的に重要になります。なぜってパワーが増しているからです。使い方を誤ると、人にも、そして何よりも自分自身に迷惑がかかる可能性大です。

 

そこでこの「迷惑行為」を断固防止するためになにが必要かと言いますと、この増大したエネルギーをどういうベクトルで用いるか、それを制御する感覚と、どの方向がいいのかという知識です。このための訓練が理論の学びであり、ダルシャナ(対話技法)、そして瞑想だと思うのです。

 

瞑想というのは、バラバラの心的エネルギーを一点集中させる練習から始まります。
思っていること(望むこと、といい換えてもいい)と、それを否定する思い(そんなこと言ってもどうせできっこないし的な)が点でバラバラだったり、喧嘩してしまうと、大変な葛藤が生まれ、せっかく強くなってきた生命エネルギーがおかしな方向に浪費されていきます。

 

また、自らの内的な思いの喧嘩の末に感情を抑圧してしまったりすると、内にこもってそれが肉体に凝ってしまいます。感情は体に宿ります。Asana(体操)の実践は、こういう観点からもとても重要です。そしてこれを日々やっていくことも、日々生きていろんなことを感じている私たちには大事なことです。

 

兎にも角にも、普段「なにをどんな風に思っているか」が決定的に大事なのです。

いつもなにげなく、いったいなにを思っているかに気付かないとヤバいよということになります。

 

しょっちゅう考えていることは、ちゃんとそのまま顕現します。
それならば意識的に何かに集中して、向かうべきところをはっきりしておきたいです。

とはいえなかなか難しいので、それを行うために人に頼ろうよ、ということを次回は書こうと思います。

 

 

№835 SCAJ2022の門脇師匠

最近ものすごく、物事が動いています。

 

ここしばらく止まっていた物事や人間関係が「なんでやねん?」というほどグイグイと動き、強い引きが来ている感じで、とても刺激的で楽しいです。

 

逆に、これまでやってきたことをお仕舞いにすると決めました。

 

こうすることで、新しい素晴らしい何かがまた自分の人生に舞い込む素地を作っていくことになります。転機には抵抗をしないで、すべてを信じ委ね進んでいくのがベストです。古いものにしがみつくとロクなことになりません。

 

問題だと思えていたものが無くなって、ホッと一安心したと思ったら、結局なにもかもを何かや誰かのせいにしていただけで、いちばん肝心な自分と向き合っていなかっただけということがあります。そういうこととは無縁な人生を歩んでいきたいものです。

すべてを我が身に引き受け、投影は必ず引き戻すことで、心の闇を自ら探求し光を当てていきます。自明のことですが、改めて自分自身に誓います。

 


さて先日、東京ビッグサイトで、SCAJ2022という変態ばかりが集まるイベントが開催されました。

 

人生初のビッグサイトでしたが、ここはオタクの聖地だそうで、出発前、愛するオタクに「オタクエネルギーを存分に味わってきてください」と言われましたが、その日はスーツ姿の人がとても多かったです。光景的にオタク感皆無でしたが、エネルギーの残滓のようなものは十分に感じとりました。


さて、この SCAJ2022 とはいったいなんなのか?!


一般社団法人 日本スペシャルティコーヒー協会(Specialty Coffee Association of Japan)が主催する、

SCAJ ワールド スペシャルティコーヒー カンファレンス アンド エキシビション 2022(SCAJ2022)
SCAJ World Specialty Coffee Conference and Exhibition 2022

で、あります。

外務省、東京都、東京観光財団が後援についています。すごいよね?

コーヒーの変態たちが世界各地から集うイベントで、もちろん我らが門脇師匠も3年ぶり?にここへ降臨されました。そしてなんと贅沢なことに、私は「ご招待」頂いてここへ出向いたのです!

 

今年、某企業さまからのご注文のお蔭で「自称CAFFE VITA営業本部長(公認)」に昇格したワタクシ、とうとう師匠からのご招待を受けるご身分になっちゃいました! 嬉しい〜!

 

いそいそとVITAに通い続け、多くの方の洗脳に手を染めて早15年、Yogaの専門職としての活動と、VITAに身を捧げた年数が全く同じだという不思議。

 

そして、東京で門脇師匠のカフェラテが飲めるなんて!
東京のどこを探しても、なかなかこんなに美味しいエスプレッソは飲めません。至福です。

 

このイベントは世界のコーヒーの、ありとあらゆる関係者が集うイベントですので、当然ありとあらゆるコーヒーが飲めます。

 

しかしワレワレは、門脇師匠のカフェラテと、門脇豆を使ったDAVIDEさんのエスプレッソと、お口直しにペリエを飲んだだけで、他のものはいっさい口にせず現地を後にしました。

 

だってですね、いつも「超フレッシュなコーヒー=焙煎してから間がない新鮮なコーヒー豆から抽出された液」を飲んでいるので、うっかり変なものを口にすると気持ちが悪くなってしまう可能性が高いからです。

 

皆様も、この無駄話をここまで読んでしまったからには「コーヒーは生鮮食品」であり、「いつ焼いたか?」に注目をせねばならないということを、ハラの底に叩き込んでください。抗酸化物質たるコーヒーは、フレッシュなものだけです。気をつけましょう。

 

 

 

 

№834 神の遊びとしての海老

 

最近なかなか自由に会えなくなってしまった友達がいるのですが、この方が今、相当な悩みの渦中にいるらしく、頂くメッセージがものすごく悲壮でほんとうに読んでて哀しくなります。

 

でもいつもここにも書くように、私たちは常に、いるべきときに、いるべきところにいて、するべき体験を過不足なく、している。それはここにやってくる前に自分で決めてきたこと、もしくは決めてきたことを果たさず怠惰な状態に堕していることに対し、揺さぶりをかけて目を覚まさせようとしているだけのことだそうなので、安心して悩んでもらいたいです。

 

先に述べたことも、生きていて何も怖いことはないのだということも、連綿と伝えられてきた叡智によって今を生きる私たちに伝えられているし、根本のところでは私たちはそれを既に知っています。

 

だから、悩んだり揉めたりするのも、究極的には魂の遊び、神の戯れ=リーラなのだから、そばでみている私も安心してそっと見守っていようと思います。

 

だいじょうぶ、だいじょうぶ。
苦しみは、そんなに長く続かない。すべては自分次第だから、心を強く、高く保っていれば、自ずと状況は整っていきます。本当はそのやり方もちゃんとわかっておいでの方だから、だいじょうぶです。

 

 

さて先日、東京駅・銀の鈴で出会ったO先生のところに、なんと超デカイ伊勢海老が問答無用で届けられていたことがわかりました。かなり驚かれたそうです。そりゃそうだろ!

 

まずは伊勢海老の生態について、受け売りの知識をここでご披露させて頂きます。情報提供はCAFFE VITAの門脇師匠(に関係するある方)であります。

 

伊勢海老というのは、海底を歩いて生活しているそうです。海老の移動とは、曲がった体の伸び縮みを使って後方に進むことでなされていると思っていましたが、伊勢海老は違うらしいです。確かにあの立派なボディの可動性はあまり高くなさそうで、しなり様がなさそう。

 

その、歩く伊勢海老は、台風などで海が荒れると逆巻く波にさらわれて、うっかり網に引っかかってしまうのだそうです。そりゃもうあちこち色んなものが飛び出てますからね。


そいうわけでうっかり(がっかり?)網にひっかかちゃった方々が、いったいなんの因果か門脇師匠の元に集ってくるわけです。実に不思議です。

 

そして心優しい門脇師匠が、私に「いる?」と訊いてくださったのですが、残念なことにその頃私は銀の鈴でO先生と出会っていましたので、受け取りに行くことが叶いませんでした。

 

伊勢海老→私→いない→O先生、という連想が即座になされて、何もご存じないO先生の元に立派な伊勢海老が届けられ、家族の皆々様が度肝を抜かれ、お父さんの隠された生態に疑義を抱いた…っていうのは嘘ですけど、たまげられたそうです。そりゃそうだろうなあ。

 

そしてそのことをVITAのカウンターで知らされた私は、O先生に一言「伊勢海老」とメッセージをしました。すると立派なお頭が3つ並んだ巨大な鍋の写真が送られてきました。「これ…」という一言と共に。

 

そのとき一緒にいた友人に、「実にわらしべ長者的やろ?」と言って自慢したのでした。

 

どこにいても、つながる人は繋がっちゃうというお話、のはずです。

 

 

№833 満たされた器

この世のすべての問題は、根本的には自己の否定から起こると言われています。

「私なんてどうせ」っていうアレです。

 

自分には価値がないという思いはとても破壊的で、連鎖的にいろんな課題・問題を引き起こすことになります、実は。Yogaを始めとする伝統的な世界観では、人間を層構造で捉えていることは既にご存知の通りですが、肉体や精神に不調が出ていても、その原因が肉体にはないと見立てます。

 

信念やものの考え方、世界をどのように見ているかや自らの過去に対してどのような解釈を与えているか、または単純にこれまで蓄積した知識が間違っていたということなどが関係していると考えます。

 

このことは水甕やピッチャーをたとえとして語られることが多いです。五蔵説でいうところの存在の中心・歓喜鞘の障害ということになります。

 

水を満たすための器なのに、ヒビが入っていたり、場合によっては穴が空いていたりすることで、満たし、満たされ続けることができないのです。この場合どういうことになるかというと、他者からの賞賛や評価を必要以上に求めることになります。人から埋めてもらわねばならないのです。

 

外界の事象を前に、自分の価値を損なわれたような怒りを覚えることもあります。人のことが気になったり、嫌いになったりすることもあるように思います。そもそも自分が満たされていないと感じているので、それを世界に投影してしまうわけです。

 

しかしこれはあくまでもイメージの話なのであって、本来ここにヒビが入って水漏れをしているような人は、この世には存在しないのです。いえ、存在し得ないといったほうが正しい。

 

生きているということは、常に満たされた器であるということ

今ここにいて呼吸をしているということが、そのまま溢れんばかりに満たされ続けていることの証になります。

 

このことに気づけることの解放感は途轍もないです。

一度、「あれ?もしかでもして」と思えたならば、それは自らの存在の根幹に関わることですから、現象の世界でも変化は次第に明らかになるでしょう。

 

もちろん初めからひとりで「よっしゃ、満たすぞ!」と思って取り組むのは、決してできないわけではないですがかなりつらいです。なので、糊やアロンアルファ的存在である誰かと出会って伴走してもらいながら、少しずつひび割れを補修していけばよいのです(私にとっての中野先生やレイキマスターまりこをはじめとする多くの方々のような)。

結局のところ、私がいろんな名称で行っている仕事も、すべてこのためだと思います。


 

少しひび割れが治まってきて、満たされる感覚が取り戻されてふと顔を上げると、ずっといろんな人がいつもそばにいてくれて、ちゃんと案じてくれたり待ってくれていたのがきっとわかります。自分にとっての仲間も友達もチームメイトも(名称はなんでもいいのですが)、ちゃんといてくれたこともわかります。

だからだいじょうぶです。

今いろいろ文句が言いたかったら、言っときゃいいのです。なんくるないサ〜

 


この世はなにか大きな力で維持されています。それをゼロポイント・エネルギーといってもダークマターといってもいいし、私の好みは当然Brahmanなわけですが、このエネルギーは愛そのものです。

 

愛って言われるとなんかなあ!

と思う人もいるのは承知してますが、要するに満たされて「あー、なんていうか?心地よい!」という感覚(エネルギー)に人が名前を付けただけだと思います。

 

靈氣もPranaも、愛です。呼吸で実際にやりとりしているのも、酸素とかCO2とかなどではなく、ほんとうは愛です。愛のないところなんてどこにも無いので、好きにやってりゃいいのです。

 

私の好きなあのコーヒーも愛だらけです。ゲットできなかった伊勢海老も愛の甲殻類です(数日前門脇師匠から、今取りに来るならあげるよと言われたけど、私は田端にいてもらえなかった...)。可愛い猫も愛の毛玉です。子供たちも、遠くにいる愛です。いったい何回前世で一緒だったんだ?と思うO先生も愛です。

皆さんの周りも愛だらけです。探して気づいて下さい。

 

だから私は、誰に嫌われようが何しようがまったくなんともありません。きっとそれも超越した視点から見ると愛だから、それでいいんです。

安心していて下さい。だいじょうぶです。