蓮は泥中より発す

心身一如に生きるヨーガ教師の日記

№707 JK剣士便り

あの夏の言葉よりなほ無防備にさらす咽喉(のみど)にいま触れてみよ  今野寿美

 

 


6月30日
先日サボった分を書いておきます。

なんと、JK剣士が勉学に励んでいる。カントクM先生は社会の教師が本職(副職?)なので、剣道部員は社会の成績はいい。副顧問のI先生は理科の先生なので寝ることはできないが成績ははかばかしくない。まあ人間誰しも向き不向きがあるもんだ。

JK剣士の成績表はすごくおもしろくて、国語・社会・美術・体育がぶっちぎりで、他はそっと目を逸らすのがよい感じである。わざわざご苦労さんなことに円グラフみたいなものを添付して見せてくださるのだが、非常にいびつな大陸で不思議ないきものだけが棲息していそうな形になっている。

そんなJK剣士が勉強をしている。英検の勉強である。受ける気はサラサラない。なんといっても受けたってお金と時間のムダなので受けないが、JK剣士が目指す次なる大地にはすごーく簡単な英検の級程度の英語力が必要だからである。何級かあえて書かない方がいいくらいの級である。


どこに行こうとしているかまだハッキリとは言えないが、とにかく南の方である。防具を装着したら蒸されて死んでしまうような暑い島らしい。なので防具は持って行かずに、竹刀と木刀だけ持って行こうとしている。「光」と大きく刺繍された竹刀袋とともに。
11月には新人戦がある。それも含めてこれからどうするか、JK剣士が自分の人生の岐路に立って(想像するに断崖絶壁みたいなところ)あの丸っこい可愛い顔と逞しいボディに風を受けている、そんな感じ。

9月にははっきりすると思う。どっちに転んでも、これからもJK剣士をあたたかく見守ってやってください。

 

 で、大阪に遊びに来ていて、これからふらふらするので今日はこれで。ごきげんよう

№706 祝20周年、祝永遠の28歳

あの夏の数限りなきそしてまたたつたひとつの表情をせよ  小野茂

 

 

 

6月30日
Happy Birthday!バーMarujin!おめでとう20周年!
ということで梅田にいます。ほんとだったら例年この日の夜はバーMarujinのカウンターで、お店の誕生日と森の子りす・永遠の28歳をお祝いしている。ところが残念ながら今年はこうして関西に出張っているため、子りすバースデイはフライングで祝ってもらい、お店の誕生祝いに関してはお花屋さんFさんに依頼しておいた。Fさんのお花屋さんは夜間の配達をしておられないということなので、個人的にお願いをして「花をもっていって、一杯飲んできてくれ!」というオーダー済み。どうぞよろしくお願いしまーす。


昨日のことについて書く前に、足の話をしておこう。先日(日曜日)、鍼の先生が特別に診てくださった。ほんとなら日曜はお休みだから。受傷部位である踵と胃腸に関連する部位が被っているため、どっちがどっちでどうなっているのかさっぱり私にはわからんが胃腸の状態が最悪になっていた。私は疲労やストレスが胃腸に出る。胃と膵臓。そして宿命的にも水多めの私は不調も水関連で出る。即ち体内の水分代謝がうまくいかなくなり、便秘になって汗が噴き出るのである。

踵のケガと体内の不調のどっちが優先かと言うと、それは内臓の方でしょう!これを放っておくとドミノ倒しのように次の臓器がヤラれるから。ということで、こういう不調が現れているときの対処方法を今回も迷いなく採用した私。下半身と足首周辺を徹底的に温めました。翌朝、胃腸症状は落ち着いていた=汗は噴き出なくなっていた。あー、ヤレヤレこれでほっと一安心、と思ったら猛烈に足が痛くなっていた。昨日まで一応普通に歩けていたのに歩けない。常に片脚が爪先立ちというどうにも面倒な状況となり、明日から出張でものすごく忙しい1日なのに家のなかをうろつくだけで一苦労である。

その日は柔道整復師Y先生(ラージャ・ヨーガの大先輩)の診察の日だったのだが、特になんにも言われない。昨日の鍼の先生の見立てでも問題の患部は着々と問題なく治癒へと向かっているとのことだった。例の、患部にズバリ鍼を刺す治療もしてもらった。やっぱり初めは猛烈に痛かったが、意識を飛ばして(痛いと感じているのは私じゃないもんね、単にからだだもんね、だから私は関係ないもんね)微細な鍼の動きに身を委ねていると、リアルにどんどん感覚が変わっていく。痛みが一点に収束していくのである。鍼を持つ先生の手に伝わる感触も軽くなるとのこと。

Y先生の方も「この部位の骨折だと俗称・博打骨折といってすごく恥ずかしいから、骨折してなくてほんとによかったねぇ」というワケのわからない慰めをくれて、他に特に役に立ちそうなアドバイスなどは一切ない。受傷から1週間も過ぎ「いいかげん自分のPranaで治したらどうなんや、おまえはそれでもYogaセラピストなんか?」という圧をひしひしと感じる。


でも痛いんだもん。なので私はとうとう、いちばんやさしいあの人に連絡をした。
たすけてO先生!!

で、わかったことが。どうやら温めたらいけなかったのである。「冷やしなさい、シップでよい。場合によってはレントゲンを撮りなさい。ヒビが入っている可能性もある。」というお言葉を頂戴したのだが、翌朝はずいぶん楽になっていた。そして(ふつうの)病院には行かずに甲子園に行ったという次第。ごめんなさいO先生、こんな悪い患者で。こんど会えたら足診てね!また何かあったら助けてね!


そう、昨日は阪神電車甲子園駅すぐそばの星乃珈琲店にいた。
なかなか教室再開にならない御影クラスの生徒さん・Sちゃんさんが連絡をくれて、「私、コロナコワくないねん」と仰るので、「そういうことなら」といそいそと会いに行ってきたのだ。

不死身の人・Sちゃんさん。数年おきに「もう無理かも!」と周囲の人を悲嘆の淵に陥れながら不死鳥のように復活する。ひとつめ・フォークリフトに轢かれる。ふたつめ・大動脈が裂ける。みっつめ・バスに跳ねられる。実にすごい。私の周囲ではなかなかこんな方はいない。

Sちゃんさんは私に会う前日、京都某所にて占い?鑑定?を受けたそうだ。そこでは「あなたは何があっても守られる。ご先祖様じゃないものがついてる。85歳まで元気いっぱい。それ以降はふつうの人と同じように弱るかも。」という旨のお話しがあったそうだが、それを聞いた私は全面的にその説を採用した。

でもね。そんなら轢かれたりする前に守ってくれたらええやん?って皆さん思ったでしょ。私も思った。

Sちゃんさんを守ってくれてる何かとは、かつての自分らしいよ。前世の。その人(かつてのSちゃんさん)は大事に大事に育てられた薄命の美女?だったらしい。だから経験を欲してるんだって。経験、ってこんなに過酷なやつじゃなくてもいいような気がするが、命をかけた大経験をこそ欲しているんだろう。まったく持って男前やないか。気に入った。いっぱい痛い目に遭ってきたがすべてを自らが欲していた、なんてなんだか実にYoga的で勇気が出る。

ということは私が日々こんな風に森の子りす的人生をささやかに送るのも、前世で森のデンジャラスないきものだったなにかがそうさせているのかもね。生き物としての生が毎回森の子りす的だなんてさすがの私も言わない。一度はハエだったこともあるしね。

とにかくおめでとう、20歳のバーMarujinと森の子りす・永遠の28歳。

 

 

 

№705 それ、不採用

6月29日
ここ二日ほどやたらと忙しく、まるでふつうの人のような生活をしていた。おかげでふらふら不足でもう大変である。

今、新幹線のなか。静岡には止まらないのぞみ20号。先程岡山駅伯備線特急やくも号から乗り換えたところである。先月はゴーストタウンのようだった岡山駅の新幹線ホームも人がけっこういるし、お土産屋さんもちゃんと開いていた。例の大会のためなのかいつのまにか海の日も日付変更になっているし、もう「なにそれ?」って感じである。19日は休みだから、というつもりでいろいろ調整してたのに平日になってるやんか!もう~

これから会うひとになにかおみやげを、と思ってふらふら~と新幹線のりばの“おみやげ街道”に入った。牡蠣のオイル漬けとかかまどパイ(香川のお菓子)とか、備前焼のグッズなどを手にとってあれこれ悩んだが、瀬戸内銘菓・母恵夢、季節限定レモン味と蒜山の山ぶどう?で作ったとかいうグラッパである。いつかどこかでグラッパを誰かと飲んだような…あれはいったいどこだったのかなあ。グラッパに手を出すからには既に相当酔っ払っていたのだろうし、覚えていないくらい酔っていたということはよほど気心の置けない方とのお酒だったのか、それとも美女だったのか。心当たりのある方はお声がけ下さい。「僕だよ(もしく、私よ)」と。私を飲ませて潰すひとといったら、あの人かあの人のどっちかだよなあ。

 

 

さて、今回9日間しか家にいなかったので、その間にいろいろ用事をぶっこんだら大変なことになっていた。ほとんどハラ時計で動いている私なのに、たまにこういうことがあるとふらふらしている人間存在がちょっとはピシッ!とするような気がするが、たぶん気のせいだろう。なんだか西明石でナニゴトかがあったとかで、新幹線がチョッピリ遅れているそうな。その遅れ、2分。2分…?もうええやんか、それくらい。なんくるナイサー2分くらい、と思わないひともきっとおいでになるのであろうが、この2分の遅れにご立腹なさる方とは一緒にお酒飲みたくないなあ。

「ええ大人が怒るのもうやめようや」という話が各クラスで頻発した。とは言え生きていればムカつくこともたくさんあるのは認める。Yogaクラスに参加するひとはどちらかというとワリ食ってババ引いて「とほほ…」と嘆くタイプの方が多いようなので、人にはひどい目に遭わされている率が高いようだ。それでもどっこい自分で選んでるという立場を採用しているわけだから(=ツボイのクラスに来るということは!)、あきらめてこころ清らかに生きていって欲しいものである。

昨日伺ったのは「なぜかほかの人の仕事の不備にいつも気付いてしまってしりぬぐいをする羽目になり、ババを引いたと感じている」Sさんのおはなし。いちおうふんふんと聞いてから、「私、いろいろと気付いてしまうんです、ほほほ」と言って超越しとれとアドバイスした。私は真剣に話しているのだが、ほほほとか言って見せたところで皆様がゲラゲラ笑いだすのでこっちもつられて笑いだし、Asanaのまえにハラがつりそうである。

蓮という花は泥のなかで育つ。泥のなかでしか育たたない。良かれと思って(見た目がきれいだからといって)清水で育てると枯れてしまうそうだ。ドロドロした汚泥のなかを這いずり回って、それでもなお清らかな花を咲かせたいと願うのがYogaを行じる心だろう。


あともうひとつ今日書いておきたいのは、肉体の経年劣化のようなものを嘆くこころは要らんやつである。月に数時間のクラスでそれをなんとかしようとして救われるのは、はじめて1年くらいまでの初心者のかただけ。もう何年ものつき合いになる生徒さんが「膝が痛い」とか言っちゃった日には!!!、という説教がこの前の日曜の晩にあった。

クラスは意識化の質を高めるためにある。クラスで磨いた意識化力をつかって日常動作のなかのからだの使い方をより精妙なものに進化させて、経年劣化なんてなんぼのもんじゃい!という次元に達したい。「年とった=膝痛い」などというロジックを私は採用しない。「膝痛い=運動不足」というのも同様である。カラダなんて思うとおりにしてしまいたい。そのために、一瞬も途切れることのないYogaの境地に安らいでいよう。

 

って、なんだかカッコいいけど、自分は足が痛くて文句言っている森の子りす。次はそのネタで。

 

№704 じぶんがわるい

別のわれどこか遠くで泣いておりちりちりと胸が痛い真夜中  干場しおり

 

 

 

 

6月27日 今日のぶん
すごく忙しい一日。朝からオンラインセッション、いつもながら刺激的な対話をさせてもらえる。

自己とは?自我とは?意識とは?
「私」とはなんなのか?そしてこの自分はいったいなにものなのか。
恐怖とはなに?お金がないと怖いのはなぜ?
Yogaが教える煩悩のひとつ・生命欲への執着とは? 

深い。
そしていつも「昨日」の私の体験とシンクロする問いを投げかけられる。不思議だ。

アホな私にはちゃんと「次回(来世っていってもいい)」という保険があるので、今生どんなことになってもぜんぜん平気だ。でもできれば今回とことんやっときたい。そうでないと今回から次回までのインターバルで(というようなものがあるとすればだけれど)、絶対者と不可分なことが明確に体感できる「私」が安心安全な境地で振り返りを行いつつ、「あー!もう!なんであそこでもっと攻めんかったんかな?!何回やってもこれ!この臆病者めー!バカ、私!」と地団駄踏むような気がするので、今生はとことんやるぞー。

で、ちゃんと現世で立派に生きて人を圧倒しているのに「私とは?」と問える方を私は尊敬する。慧心師から聞かされたハナシで私も「うんうん」と頷けるのは、Yogaの世界にはなんというか…修行崩れ?みたいな人がいっぱいいるということ。現世的=一般社会通念上お話にならんやつがほんなこてぎょうさんおるんです。これマジなハナシです。これだけの一大産業なのに、こんだけダメなやつが集まってる業界って他にないんじゃないでしょうか。

なのでスワミ・ヨーゲシバラナンダ大師さまも、世のなかでちゃんと仕事や役目をはたしていない人は決して弟子としなかったそうである。「ちゃんと社会で働いて、自分で自分を養えるようにしてからもう一度おいで」と諭してお返しになられたそうだ。

ダメってどんなん?と思われるでしょう。時間や約束守れんとか、そういうレベル。お前こどもか?いや、こどもも約束は守れるよ?って言いたくなるような。さすがに認定ヨーガ療法士クラスになるとそういう人はいない。そもそも時間が守れんとか宿題出せんとか言う人は、3年間毎月毎月勉強に通えないから。問題はわりあい簡単になれる「インストラクター」ってひとたちよね。「Yogaあるある」でよく先輩や同輩と話してる。

が、しかし。どんな先生に当たるかは自分が決めている。自分に相応しい先生が現れる。自分に相応しい弟子に巡り合う。だからやっぱり文句を言う筋合いはなくて、どんな自称「先生」がおってもただ「あらまぁ」って感じである。修行して人間としての器を磨く&大きくし、優れた師や先達に出会って愛いっぱいの人生を生きたーい!


さて忙しい1日の続きは、車で40分走って松江のCAFFE VITAへ出勤。長女ぶーちーのコーヒーを東京へ発送するついでに、自分の出張用荷物もここから送ってもらう。他にもVITAモカマタリ信者への豆発送やお中元の手配も。門脇師匠としげにいちゃんの話をして、泣かされた。

その後、近所のカレー屋さんSpiceにて全部乗せランチターリ×チーズナン+レモンライスを食しながらランチセッション。転職をして逞しく日焼けした豊満な男子とチーズナンを分け合って食べながら、今月のテーマとなった「嫉妬とは何だろうか」ということについて二人であれこれ考える。

こういう対話をしていると、毎日「生きる」っていう以上の修行ってないんだなと思える。「今がこうじゃなかったらいいのによう」という愚痴はそのまま言葉通りで、愚か者が使っちゃう恥ずかしいセリフなんだろう。「今ここで」これでいいんじゃん、と言えるようになるためには、いったいどうしたらいいんだろう?ということを真剣に語り合うのはいつもながら本当に実り多いし、こちらが多くを教えられる。

慌てて松江から帰って、JK剣士の今後の相談。また海外に行きたいと思ってるJK剣士。いっちゃえ!と煽っているハハをはじめとする周辺の大人。フリーズする父。根性はかなり必要だが、お金と英語力はあんまり要らないところへ行こうと画策している。はてさてどうなることやら。

その後、ヨレヨレの私を哀れんだ鍼の先生が治療をして下さった。昨夜ヘナをつけたまま寝るしかなかったわけだが、「内臓がすごく冷えてるけど、いったいなにしたの?!」と驚かれた。もともと疲労やストレスが消化器系に出るわたしは、ヘナつけたまま×お風呂入れない×足痛い、という三重苦で粗雑体がヨレヨレになってしまい、心臓あたりやその裏側が締め付けられるような心地がする。私のストレスセンサーはここあたりにあるらしい。アーユルヴェーダ・マスターSちゃんの教えどおり、ヘナは1時間で切り上げないとダメということが身に沁みてわかった。

でもさ、昨日のことは私のせいじゃないよね?いやそれともすべて私のせいか?
人のせい、自分以外の何かのせいにして生きたら隷属の人生だって云うもんね。私は、たとえ何にであっても(家庭でも家族でも土地でも金でも仕事でもこの世でも)縛り付けられるのはまっぴらごめんである。

ということは給湯器は悪くなくて、全部私が悪い。それなら粗雑体も自分で治せるはずだ。がんばれ私、泣くな森の子りす!

 

 

 

№703 教える・教わる

汝に照らされて見つける吾のうすあおい卵の殻のようなもの  小林久美子

 

 

 

6月27日、だけど昨日のぶん
すみません、昨日サボりました。ごめんなさい。どうしても書けなくて。
階段から足を踏み外して1週間が経った。全体重をかけて床に激突した踵の痛みはなかなか引かない。足のケガの経験豊富なJK剣士に今の思いをぶつけてみた。
「足のケガって大変だね?!」

そりゃそうだよ、とJK剣士。しかも彼女たちの場合、ケガして痛くても「歩けとるやん!」とカントクに言われて稽古は普通どおりにやるわけなので、まったくもって頭が下がる。母さんそんなの絶対ムリ。

でも痛いのは痛いだけ。ジャスト痛み。だてにYogaをやってるワケじゃないので、「そこに存在してる痛み」はべつにそれで全然いいんだけど、ふだんに比べて可動域が狭くなっているから全体的な体の使い方に違和感が生じてくる。昨晩はオンラインレッスンの指導を行いながら、自分のカラダの動きを確認&調整したら、これが大変な疲労感を生む。すごく微細な動きなのに終わったらもう疲労困憊である。その場から起き上がれなくて気を失ったように横たわっていた。

しかも。しかもである。昨晩給湯器の調子が悪くて、夜遅い時間のレッスン前に入浴しようとしたらお湯が出ない。更に。私は昨日、月に二回行うヘナ染の真っ最中だった。アーユルヴェーダにおけるヘナの使用目的は心身を浄化することである。結果的に髪も染まるが、YogaにおけるAsanaとヘナ仕様における髪染めは「おまけ的効能」として同じ位置にある。かなり役に立つおまけで実に素晴らしい。

何時間もヘナをつけたまんまにしておく人がいるらしいが、私のアーユルヴェーダ・マスターSちゃんからのご指導によると、そんなに長時間つけておくものでないとのこと。せいぜい1時間、それ以上置いといたら体が冷えちゃう=除去しようとしたものが増えちゃう。なので教えどおり1時間経過後洗髪しようとしたのに、お湯が出らんじゃないの!

1時間で流せと言われているものを流せない。お風呂入れない。レッスンなのに頭にタオル巻いてる(オンラインでよかった)。足痛い。動いたら微細レベルで疲労困憊。もうオンラインレッスン後は抜け殻である。明日の朝もオンラインセッション。さすがにこちらは頭にタオルを巻いたままではちょっとムリ…。もしかしてもしかしたら水で頭を洗わないといけないのか。押し寄せる徒労感。しかし腹は立たないね。「あー…」と思うだけ。どうして?なんで?とも思わない。「あーお湯でない」、それだけ。

給湯器のご機嫌は朝には直っていた。お湯が出て頭が洗えるってなんてしあわせなんだろう!ありがとう給湯器、ありがとうお湯。

 

 

昨日は月1の講座日だった。2018年からやっているのだがなんだかんだで続いている。初めの頃は「これでもかぁ!!」という分量の資料を準備していたのだが、今になってようやく思う。問題はテキストや知識じゃないんだ。

じぶんのなかで日々ユラユラと立ち上がる問いのようなものに関するヒントは、生きていれば外の世界からやってくる。生徒さんの発する何気ない言葉や問いが、自分のなかの問いにズバリ答えるようなものであることは頻繁にあり、ごく親しい人や生徒さんとはテレパシーでやり取りをしているのだとしみじみ思う。あたまのなかで考えていることは自分ひとりの個人的なものであるという考えを、私は採用しない。すべて「ばれてる」なあ~と思っていつも笑ってしまう。「かよちゃん(もしくはツボイ先生)が〇〇なんじゃないかと思って」と誰かに言われて「なんでわかったの?!」と思うが、きっと頭の上にフキダシが出ているんだろう。

 

大量の資料を調えても、伝えたいことはひとつである。たったひとつの大事ななにかを、角度を変えてしっかり理解したいだけ。となると受け取り手の器の問題になる。目新しい考えを採用しても、アタマの中身が変わらなければなんにもならない。頭の中身が変わっているかどうかは言動でわかる。だから結局はやり取りを通じて「いま、どうしてそういう言葉になったの?」ということを問い、お互いハッとするしかない。

でもすこしずつ、確かに私たちは変わってきている。なぜそれが言い切れるかというと、「え?」と一瞬戸惑う場面でハラが立ったりしないから。怖くなりそうな場面で不安じゃないから。生きていること、今こうして息をしていることが実はすごいことなんだと、うすうす気づいているから。

教えることと教わることは表裏であり、優れた弟子であることは優れた指導者であることに通ずる、とずっと言われてきた。人になにかを教えることを生業とするという誓いを立ててその地平に立ったときに、茶の師から授けられた言葉である。「人にものを教えようとするあなたは、よき生徒でありなさい」と。

師弟の縁は親子より深いと言われていて、真剣に学ぼうとすると互いの醜いところは自ずと見えてくる。しかし決して手を放さずに教わろうとするとき、自分がまた教えるものであろうとするときの覚悟や救いが見えてくるような気がした。Yogaでもお茶でも歴代の先生方を深く敬うけれど、生きるなかで様々なことがありながらも「教える」ということを堪えてやり抜いた方々への敬意なのだろうと思っている。

 

 

 

 

 

 

 

№702 じょうずでなくてもいい

魂がいつかかたちを成すとして あなたははっさくになりなさい  笹井宏之

 

 

 

 

6月25日
たいがいふらふらして生きているが、今日は休養日である。休養したいがケガの回復途上にあるので、治療を受けに行ってきた。

昨夜はなんぶ町でのリアルレッスン(純粋に体操だけをするという前提のクラス)だったのだが、3週間ぶりにリアルに会って皆さんの近況を伺い、それに対してアレコレ反応してみんなで大笑いし、一緒になって体操していたら案の定一番自分が気持ちよくなった。

踵に痛みが存在するのと、どうやらまだ多少炎症している様子でからだを動かす気分になれないため、朝の攻め系Asanaはおさぼり中である。しかし皆さんと一緒にセラピー的Yogaをやっていたらだんだん気持ちよくなるわ、痛みをかばって歩くためにこわばっている左足の筋肉はどんどん柔らかくなってくるわ、最後のシャーバアーサナでは自分の意識が飛んでいた。フッと目を開けたときには終了時間を5分過ぎていたが、ここにそんなことを問題視するひとは誰ひとりいない。めちゃめちゃ立派な(平成天皇皇后両陛下がお食事をお取りになった)ホールなのに使用料は無料。延長料なんていうものも存在しない。「いやー、Yogaってマジで気持ちいいわー」と皆さんで言い合いながら帰路に就いた。


そういえば、昨日昼間にあったせっちゃんとのセッションでも、夜のレッスンのK山さんの発言も「いや、ほんっとに腹って立たなくなるなあ」としみじみ感慨にふけっていたのだが、Yogaや瞑想をやったり人に勧めたりしながら、自分は怒ったり人に嫌味を言っちゃったりしている人がいるとのウワサやグチを耳にする度に「ハラが立つようじゃYogaや瞑想は機能してることにはならんやろ」と思う。

ずいぶん長い歴史のあるYogaだけれども、役に立つ=苦しみを軽くしてくれるから連綿と途切れることなく続いているはずなんである。仲間うちで「ハラ立つわー」と口でいうことはあるが、「それのどこがハラが立っとる顔なん?」とツッコミたくなるくらいで、ハラの立て方がわからなくなっているんじゃないかと思う。「ハラが立たない」水平的な方策を身につけているわけではなく、「ハラが立つ」事象を複数抱え込んでも特に問題ない器の拡大という垂直的な変容が起きたんだ!、と妄想でもいいから思っていたい。

「体操なんて」という言いかたをよくする私だが、体操は必須である。体操(Asanaじゃなくてもいいけど、その肝要なところを押さえている実践)を軽んじたり、実践を怠っている人に起こるのが、感覚器官の制御力が高まらないことである。

なぜ体操をしたらハラが立たなくなったり、そもそも性格が変わったりするの?ということはさいわいなことに現代ではなんとかかんとか「なるほどねー!」という説明が可能だと思うが、ここでヨガヨガした話を展開したらひんしゅくを買うので、しない。

とにかく恩恵を受けたかったら身体的実践は必須で、押さえるべきポイントを押さえ、内的感覚(いわゆる意識ってやつ)を高め、淡々と毎日なにか必ず続けるしかない。「えー、めんどくさー」と思ったひとがいるに決まっているが、毎日数分でもやる実践は自分を裏切らない。たまに数時間がんばっても何も変わらないことはみんなもう嫌と言うほどわかっているだろうから、諦めて先人の智慧に従っていいんじゃないの?いいおとながなにかにハラ立てたり、誰かの悪口言ったり、正直恥ずかしいし体に悪いよ。それになにより、ボディが老けるよ?

昨日のクラスでは、Yogaを始める以前に80代だと言われた血管年齢が30代になったというはなし(ご本人の歴年齢は60代前半)や、健康年齢がだんだん長くなっているよというはなしを聴かせてもらって「いやー、Yogaはやっぱり手軽で便利でええなあ」と皆ご満悦だった。毎日腹も立たずに「なんくるナイサー」の精神で生き、ますます若返って魔女か魔法使いと呼ばれたいよね。

そう、足のケガ。今朝は柔道整復のY先生の施術を受けた。先生は鍼灸の施術もなさるので「踵に鍼打ってもいいけど、すごく痛いからなあ」といってなさらなかった。夕方、鍼灸専門の治療を受けに行ったのだが、こちらではズバリ「踵に鍼」の治療をして頂いた。痛みの客観視がかなりうまい私。痛みには強い。が、今日のは痛かった!

鍼治療の痛みというのは、鍼が刺された時はまったく痛くないのに、奥(患部に対応したツボ)がズーンと痛くなる。ただ鍼を差すだけではない私の先生。非常に微細な動きで鍼を揺らすと、踵の奥で生じている痛みの感覚に多彩な変化が生じる。なんとか呼吸を制御して痛みを逃し、堪える。今日はほんとに!痛かったのだが、終わったあとは明らかに差があるので驚く。鍼を人体に刺す、という侵襲的な治療だからこそここまでの変化が生まれるんだよなあ。こんな治療に比べるとAsanaなどぼんやりしすぎていて、私(森の子リス)と一緒である。ぼんやりした森の子リス的実践は、せめて毎日コツコツやる他ない。

帚木蓬生の小説「閉鎖病棟」に、毎朝モップで玄関を掃除してくれる入院患者さんの話が出てくる。でも患者さんなので、まんべんなくソツなく掃除をしたりはしなくて、ある一点のみを毎日毎日モップで拭いているのでそこだけが実に美しくなっている、という描写がある。

その部分を読んだとき、ものすごく感動した。たぶん20代の頃だったのだが、じょうずでなくてもいいのだと思った。その気付きにどれくらい救われたかわからない。

ここ何年もずっと朝起きたらする水回りの掃除のときに、今このときにすべてがキレイにならなくてもよいが、毎日こうすることをやめさえしなければいつかきっと磨かれて美しくなるのだと思って救われる。こうして今しているなにかは、誰に知られなくても構わない。私のなかの生命原理はいつも私のすることを見ているだろう。私がどんな素晴らしいことをしても褒め称えたりはしないし、愚かで間違ったことをしても私を罰したりはしない。

実践を通じて得られる気付きとは、こういうやすらぎであると思う。そうだ、だいじょうぶなんだ、ということ。そしてこの安心から、なにかが始まる。なにかが生まれる。

 

 

 

№701 ご加護があるから

一様に屈折をする声、言葉、ひかり わたしはゆめをみるみず  笹井宏之

 

 

 

 

 

6月24日
JK剣士が17歳になった。自分が17歳の頃のことを想うと、毎日が私なりに地獄だった。環境がどうとかいうことじゃなく、自分の本心は誰にも理解されないと思っている地獄。今、私は毎日JK剣士から「声がデカい」と注意を受けているが、あの頃一切の声を発せないような気がしていた。物影に隠れて黙って物を壊していた。誰かがこうして欲しいと思うとおりに生きる地獄。そこから抜け出す力を持てていないという地獄。自分が思うように自由に、人になんと言われても、という生き方を選び抜けるようになるまでにはそこから更に十数年を待たねばならなかった。

そう。
JK剣士が私のもとにやってきたとき、闇のなかにまっすぐ強い光がさしたと思った。

 

期末試験中のJK剣士はお昼には帰宅するので、午前中に「タルトがいい」というリクエストを受けてケーキを買い、「1」と「7」のロウソクも買い、帰宅を待った。おひるごはんをサッと済ませて歌を歌い、ろうそくの火を吹き消した。もしかして私の勘違いかもしれないが、娘たちは「ねえねえ、ママ」と言って大事な話をしてくれているように感じている。悩んでいるときに相談してくれているように思うし、道が開けないと思うときに助けを求めてきてくれているように思える。ふたりのお父さんは国に仕え国民に奉仕するひとなので、真っ当にふつうの人生を送りふつうの人がつらいと思うことをツラいと思い、ふつうの人が喜ぶことを喜ぶ。ところが私は自分の30代前半までのように人の意に添うように生きるくらいなら、死んだがマシと思っているイキモノなので、家のなかはいつもしっちゃかめっちゃかである。

 

この我が家のことをJK剣士が「うちがおらんくなったらこの家は解散だ」と評したが、マジでそんな感じになるのかもしれない。私は家庭も家族もどうでもいい。残念ながらまったく価値を見いだしていない。価値ある結びつきも信頼関係も、いざというとき身を擲って助けてくれるのも、親密な関係性構築に成功した他人である。私はそうであった。ただ子供は可愛いし、できることはなんでもしてやりたいし、現状でできんと思うことも「なんでできんとか決めつけるだ?!」と考え、やらせてしまいたいと思う。なんとかなるんだって。諦め委縮する姿を子供たちに見せたくないし、この世には怖気づいた自分以外に怖いものなんてないと教えてやりたい。いや、もう彼女たちは知っているかもしれない。ふたりとも実に立派に育った(当社比)。当時の母と比べてなんと素晴らしいことか。その調子でどんどんイケー!という感じ。

 

 

さて本日久々にお茶の師に出会うことができた。先生はご健康上の理由から、主治医にワクチン接種を止められたそうである。私としては良かったなあと思う。ご高齢でもあられるので、県外に出た者は後ひと月経たないと稽古場への出入りをお許しになっていないとのことである。当然、私はずっとお休みさせて頂いている。

本日まず、先生からお電話を頂戴した。先日JK剣士が米子帰還後2週間が経ったタイミングでご挨拶に上がり、7月から稽古(お花)復帰のお願いをしてきた。そのとき、かの名店・空也さんの当代さんが始められたという「空色」というお店のお菓子を持たせたのだが、あれが実に美味しかった、やはり老舗はさすがである、あなたのもってくるお菓子は素晴らしいとお褒めの言葉に預かったのである。てへ!うれしい~

そしてSちゃんが送ってくれた桃を少しお分けしようと伺い、私は東京から戻ってまだ1週間ほどしか経っていないのでお玄関に置いて帰ります、と申し上げていたものを、先生が出ておいでになってどうしても稽古場に上がんなさいと仰る。当地では病原菌のような私だが師がそこまで言ってくださるのでほんとうに久々に上がらせて頂いた。

稽古場にあったのは弥勒菩薩像だった。
なんとお道具類をお納めの場所からひょっこり現れたそうである。

そうか、こんなものがあったのかと先生も驚かれたとか。手にとってご覧、と言って頂いたが茶道具のように扱えるものでもないので、像のおみ足にそっと手を触れ、しばし見つめていた。「ご加護があるから安心なさい」という先生のお言葉を頂き、7月の稽古に備えての広間のしつらえを拝見し(蓮月さんの短冊!)、ほっこりした気持ちで帰路に就いた。

 

 

昨日このブログが700回となった。嬉しいかと言われるとそうでもなく、自分の日常を切り売りするように書くことが辛いと思えて、書きたくなくなったりもする。それでもこうして書き始めるとあっという間に2,000字近くの分量になってしまい、これが700日書き連ねたことのまずは成果かと思ったりした。こうやってこのことを書きながら、加藤先生のことを考えている。先生は変わらずお元気にしておいでかなあ。