蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№700 フライング誕生会

6月23日
昨夜、フライング誕生日祝いをして頂いた。
大変な金額のウィスキーを入手して頂きそれをみんなで賞味するという、誕生日にかこつけた会だったのだが、その大変な金額のウィスキーは私がいつでも飲んでよし!というお許しつきである。なんとまあ贅沢な…

20時開店のバーMarujinのドアを20時ちょうどくらいに開けると、カウンターにずらりと並んだ皆様が一斉に「あ、ようやく来た」という顔で私を迎えてくださる。20時開店のはずなのに皆さん19時から飲んでいたらしい。参加メンバーはウィスキーを買って下さった病理医H先生の仲良しさん達である。

はじめてお目にかかるお二方含めた5名様とマスターにお祝い頂き、まずはショートカクテルで乾杯。私はお気に入りのホワイトレディで。その後みんなの「早く開けろー」という声を受けてマスターが封を切って下さった。

国産ウィスキーは現在全国的に在庫がなく価格が高騰しており、十ン万もしたということを初めてお目にかかる方があっさり私にばらしてくれて、思わず引き付けを起こしそうになった。えらいこっちゃ…。そのはじめての方(不動産関係)は人当たりの良いお言葉の達者な方で、「いやー、今日は素敵な美女(=私のことらしい)と一緒にウィスキーが飲めるからと聞いて喜んで来たよ~」と、お連れの女性と共ににこにこ笑っておられる。キッカケはなんであれ、みんなで一緒に美味しいお酒が飲めるならそれでOKじゃないか!

こんな高価なものを賞味させて頂いて申し訳ないので何かお礼をと思っていたが、「カラオケを一緒に歌ってくれたらそれでいい」とのことで、皆さん一緒に数メートル離れたスナックへ行った。バーに来たのにスナックへ出張するとは生まれて初めての体験である。

石川さゆり松田聖子どっちがいいですか?とH先生にお尋ねすると「聖子ちゃん」と即答され、“Sweet Memories”を歌ってみた。それを受けてH先生が「じゃあ僕も!」と裏声で「青い珊瑚礁」を歌ってくれたのだが…この方、60代である。60代男性が裏声で歌う聖子ちゃんを聴いたのも人生はじめて。遅れて参加して下さったM社長も歌って下さったが、この方は大学で声楽を修められたプロのソプラノ歌手である。もうみんな「ナニコレ…」と絶句。次はM社長とさしで飲んで、アカペラで「ラ・トラヴィアータ」のヴィオレッタのアリアを歌ってもらいたい。

 

昨夜はいちおう主賓なので、東京出張中のようなキレイげなカッコウをして9cmヒールのサンダルでキメて見た。米子で一番エロい男、と私が思っているMarujinのマスターにも「おかあさん、今日どうしました?!カッコいいですね」と言われてちょっとうれしい。しかし「ネックレスが足りない」などとツッコまれて、ガッカリである。

深夜、M社長と別れて一人でふらふら歩いて帰宅途中、見知らぬ酔っ払ったおっさんに、マスターから頂いた誕生日プレゼントをぶらぶらぶら下げていた手を掴まれそうになってほんとにビビった。人生これまで生きてきて、逆セクハラ!と後輩男子に叫ばれたことはあっても、痴漢などにも遭ったことが無い私。こんなことは生まれて初めてである。

ん十万もするウィスキーを「おかあさんのためにキープ」と言われたのも初めて。60代男性が裏声で「青い珊瑚礁」を歌うのを見るのも初めて。カラオケつきスナックでマジで歌うオペラ歌手を見るのも初めて。おっさんに腕を掴まれそうになるのも初めてである。いったい私の人生はどげな案配になってきているのであろうか?刺激的過ぎてクラクラする。


昨日に引き続き、今日もフライング誕生会。本日の主賓はJK剣士。
米子で最高の寿司屋さんといえば“せいじ”。大事なお客様が県外からお見えになればここにお連れする絶対間違いのない店である。今日はJK剣士人生初・回らない寿司体験で、至福の時間となった。

おにいちゃんがなくなったとき、この“せいじ”の若大将が下さったメッセージが強く胸を打った。今この瞬間の衝撃をそのままに、一切の虚飾を排してただ吐露して下さったそのお言葉を、私は今も忘れられない。亡くなってから8カ月、この店でおにいちゃんを偲ばなければと思いつつどうしても来ることができなかった。
まだお酒も飲めないJK剣士をここに連れてくるのは「バカもーん、まだ早い!」と言われそうだが、JK剣士がそばにいてくれたからなんとかここで若大将と平静に言葉を交わすことができた。お祝いに、と言って大変珍しいまぐろの喉肉を頂戴した。いつもながらお心のこもった丁寧なおもてなしで、和んだ。

色んなはじめてがある。暦年齢なんてただの記号みたいなものに過ぎず、やっぱり一瞬一瞬が初めてで、それを日々新鮮に受け止めて生きたいと思う。

 

 

 

№699 森のこぐま?

掌のぬくみ伝ふるブランデー飲みほせば君になだるる潮みちくる  玉井清弘

 

 

 

 

6月22日
起床後も引きつづき歩行時に痛みがあったのだが、だんだん和らいできた。なんで?
どうにかいつもの掃除はできるくらいに落ち着いた。

JK剣士は今日から期末試験。「試験ねえ」などとぶつくさ言いながら出かけていくその背中に、「レッツエンジョイ、エグザミネーション!」と声をかけるといかにも胡散臭そうな顔でハハを見返し無言で去って行った。だってハハはJK剣士にはゼッタイに「ガンバッテ」とは言わないことにしているので、「気をつけて」とか「楽しんで」とか「イヤなら帰ってきていいよ」くらいしか言えることがないのだが、LAでふらふらしてきたので出席日数が厳しいJK剣士に3つ目の言葉はもうかけられない。それでこんなことを言ってみたが、ここに文字で書いてみると確かに胡散臭い。なにがレッツエンジョイだ。

 

試験中、お昼に帰宅するJK剣士の昼食を調えておかねばならない。本日は鶏むね肉を使用したタンドリーチキン風蒸し鶏をご所望である。ハハのすべての料理がそうであるように、このメニューも「~風」という曖昧なワードが付されているとおり単にカレー味の肉でしかない。前回の出張前(JK剣士の帰宅直後)に、なぜかわからないけれど大量の蒸し鶏を作って食べてたがったJK剣士。なかでもダントツにカレー味が美味しかったそうで、ようやくハハのカレー味料理の素晴らしさに開眼したらしい。いいことである。


カレー味の鶏むね肉を仕込んだ後、近所の蕎麦屋さんに向かう。かつてN文化センターで満員御礼のクラスをもっていたとき(そんなこともあったんだよ)に、通ってきてくれていた料理の先生にその後もずっと飲み友達として可愛がって頂いている。
思い返せば昨年の5月、二人ともいい加減飲み会がしたくなって立派なキッチンがある先生のお家に飲みに行ったはいいが、色々おつかい(パンとかオードブルとか)をしていかねばならなかったのでウッカリ自転車で行ってしまった。帰り道、めちゃくちゃ酔ってるくせに自転車に跨ろうとして派手に転んだ。その時の名誉?の負傷はいまも左ひじにのこっているが、ようやく傷跡が薄くなってきてちょっとうれしい。

こんな感じの「女性と飲んだときの武勇伝」が私にはけっこうあるなあ。翌朝起きたら手が血まみれだったとか、朝4時に目が覚めたら人の家のバルコニーに寝てたとか。不思議と男性と飲んだらこういうことはないんだよな。前職でそのリスクを叩き込まれているからだろうね。飲みの席での醜態が悪評となって、去っていかねばならなかった人を見てきたからなあ。

そう、そのY先生に“蕎麦屋で昼呑み”に誘われたのだが、足が痛くて歩いていけないから私は水でご相伴だった。まあしょうがない。先生が今日飲んでおられたのは山根酒造の「山滴る」。これが美味しくってさ~!と、味にうるさい先生が仰るので悔しくてたまらない私。いいもん、また来るもん!ひとりで呑んでやる~


先生はちょっと米子には珍しい人種で、色々やってきたけど最後は米子でね、という方である。経済的な自立の程度も半端ないし、生きていくのに一切お金の不安はない。世界中何十か国も旅して各地に友人がいて、本も2冊出されている。退屈するのが一番コワい、と笑いながら私のようなものにときどき美味しいものをご馳走して下さる。N文化センターで教えていたとき、なにゆえ先生が私に個人的にお声をかけてこられたのかはわからない。センターでの指導を人に譲ったあとも、私がなにか新しいことに挑戦しようとするたび「やっときなさい」と背を押してくれた。安売りするな、しかし金を追うな、人に可愛がってもらえ、甘え上手になれなど、先生の言葉はいつも心にある。

この度のJK剣士の渡米のことも大変喜んで下さって、なんでもやっとけ、どこでもいっとけ!と言ってくれる。わかる方にはわかると思うが、米子のようなところでこんな人はほんとに珍しい。でも幸いなことに私やこどもたちの周囲には、お茶の先生やこのY先生がいてくださるので、萎縮しそうになるところを「なんだこのやろう!」と抵抗し、弾けて生きることを助けてもらった。これがどんなにすごいことか、都会の人にはわかりにくいと思う。ほんとうにありがたい。Y先生も退屈なんてきっとしないので、文句言いながらいつまでも私と遊んで欲しい。いつか一緒に海外に行きたいなあ。

 

 

さてさて。JK剣士が「森の子りすじゃないやろ、森のヤギやろ。いや、こぐまか」と言って私をいじめてくるのである。今朝も起きてきて「おはよー、森のこぐま」とか言ったかと思うと、「ママなら森のシロクマがいいかもな」と言われた。当然みなさまご存じのとおり、シロクマ=ホッキョクグマは世界最大にして最強の肉食獣であり、子りすとはかけ離れすぎたイメージ。断固却下である旨を伝えると「じゃあ、海のライオン」と言われた。とにかく声が大きいということを強調したいらしい。今日はこれからフライング・バースデイで、バーMarujinにて山崎の18年!(18年だよ?!)を頂くのだが、そこでは私のことをシロクマとかライオンとか言う人はいないはずである。今日のところはきっと。子りすらしく小さな可愛らしい声で「かんぱーい」と言ってこよう。

 

 

 

№698 ただそれだけ

ねむらないただ一本の樹となってあなたのワンピースに実を落とす  笹井宏之

 

 

 

6月21日
昨日午後、米子に帰還致しました。JK剣士も元気、あんちゃん(猫)も元気、ういちゃん(猫)も元気。でも、ぶーびすかす(植物)が渇いて死にそうになっていた。

長女ぶーちーはお花の名前がついている。「古くは蓮の花を指した言葉で、美女の形容としても多用された表現である。」Wikiさんより。夏に咲きほこるアオイ科フヨウ属の落葉低木は「木芙蓉」、蓮は「水芙蓉」というらしい。へー。「木芙蓉の」なかまには「酔芙蓉」というのもある。朝は清らかな白い花弁が、夕になるにつれピンク色に染まっていく様を酔いに例えた。酔って赤くなるなんてハハのようではないか~。

ハイビスカスもアオイ目アオイ科の下位分類フヨウ属で同じなかま。なので我が家ではハイビスカスは”ぶーびすかす”と呼ばれる。買っては枯らしでいま何代目かわからないが今回の鉢は立派に越冬して、いくつもつぼみをつけてくれてた。ちゃんと咲いてほしいから水をあげて欲しかったなぁ。でもうちで留守番しているひとたちはぜんぜんそういうタイプじゃないからまあしょうがないし、昨日気付いてたっぷり水をあげたら今朝は復活していたのでよしとしよう。

 

 

足痛い。
朝一番でC治療院で診てもらったのだが、受付でアーユルヴェーダの先輩に「階段から落ちた」と話したら「ぷぷっ!」って感じで笑われた。案の定院長先生には「意識化が足りないからこんなことに」と言われた。足首を触って開口一番「うん、骨折はしてない」。うん、それはさすがに私もわかる。折れてたらこんなんじゃ済まない。なんといっても(人の助けを借りつつも)横浜から大崎経由で自力で帰ってきたんだから、まあいいとこ打撲である。

しかし打ちどころが悪かったらしい。じっとしておけばなんともないが、ふらふらして回ると痛くなることに先程気付いた。ふらふら教徒のクセにふらふらできなくなる日が来るなんて…。

今日は柔道整復と鍼灸の治療をはしごして「楽になった~」と調子に乗り、米子のナンチャッテ高島屋まで足を伸ばして美術部で茶道具を入手する相談をし、真夏向きの服を購入し、お隣の高橋商店で大きなカットスイカを買ってふらふら~と帰ってきた。歩くと痛いもん~とイイワケしながらスイカを食べたりキュウリに味噌マヨネーズをつけて食べ、本(娯楽系短編小説)を読みつつだらだら(痛くなくてもこんな感じ)。

でもJK剣士が帰ってきたとき、買っておくように言われていた鶏ムネ肉を買い忘れていたことにはたと気付いたので、そこからまた買い物に。帰宅して食事を作り、廊下の掃除などをしていたらだーんだん足が痛くなってきて、今は歩くのも難しい感じ。これでまた夜中にトイレに行きたくなって、また滑って階段落ちたら… おっといけない、こんな妄想したらダメ。


病気やケガには象徴的な意味合いがあるとされ、ときに私もクライエントさんの症状をそういう角度から理解してみようとする。昨晩そんなことについて書いてある本をひっぱり出してみると、足のケガは「前へ踏み出すことに罪悪感がある」という意味をもつとある。こういうものは鵜吞みにするものではなく、これを読んでどう思うかが大事なのだが、いや正直いって「確かに~」って感じがある。

 


今年の12月、私はいったいどこにいて何をしているんだろうか?さっぱり想像できない。想像できるのはクライエントさん達とハグして、大口開けて笑い合っていることだけである。あそこでなにを、どこでどんな風に、ということがすべてぼやーッとしていて、それをリアルに想像しようとしても嘘っぽくなる。もともと私はイメージ力が強い方で、夢でも内的なワークでも心的なイメージは映画のようにリアルに見える。色も音も風が頬を撫でる感覚も、いわゆる「ふつう」の生活と寸分違わない。ところがどっこい「こんなふうになればいいな~」というイメージはここのところサッパリできない。

マスターマリコに遠隔でIHヒーリングをしてもらったとき、自分の内的エネルギーがどんな感覚と結びついて強く発露するのかを確認させてもらったが、具体的に想像をしているつもりでもそれはウソっぽくてぜんぜん力が湧かない。ところが、感覚的・感情的なものを想起すると、すぐに強いエネルギーがカラダに漲るのだった。だから夢も憧れも到達したい目標も、体のなかに満ち溢れるなにかをよすがにするのがいちばんよくて、現象的なものを今の制限ある自分で想像してもほとんど意味ないんだろう。

きっと、いや間違いなく、最も素晴らしい夢が叶うとき、それは私の想像を遥かに超えていて、前からでも横からでもなく、通常考えうる視界の範囲外から突然やってくる。だから私の表現で言うと、ボンヤリしていたら右斜め後ろから後頭部(やや右)にガーン!となにかがぶつかって、思わず前に数歩よろよろ~っと足を踏み出してしまうような感じなのだ。思考停止して、衝撃があって、なにが起きたかわかんないが、前いたところとは違う。そういうことなんじゃないかと。

そしてそのとき私は何をしているかというと、ああ、なるほど、と思って大笑いしているかシビれるように喜んでいるはずなので、この最後の部分だけをいつも感じ抜くようにしている。神は細部に宿るので、逆に言うと細部は神にお任せしてその時やれって言われたことを “Om” (=応諾「はい、わかりました。絶対者ブラフマンが仰ることに決して否やは申しません。」)するだけでいいってことじゃないかな。

ここは神聖な場所だから、どちらかを選ばず、結果に執着しないこと。ただ喜んでいればそれでOK。だから足は痛いけど存在的にはなんくるナイサー。あなたとこうして愛しあえて私はしあわせで、しあわせな私の持ち物である脚が痛んでいる。ただそれだけ。私以外には誰も、私を不幸にすることはできないからね。だからだいじょうぶ。

 

 

 

 

 

 

 

№697 大好きな人にフォーカス

朝霧のおほに相見し人ゆえに命死ぬべく恋ひ渡るかも  笠女郎(万葉集

 

 

 

 

6月20日
みなさま、ごきげんよう。新幹線はいま新横浜を出たところ。
予定通りであれば昨日も横浜周辺にいて、本日11時頃新横浜を出るのぞみに乗るはずだったが、色々あって昨日都内に戻った。


長女ぶーちーにとって便利な大崎・五反田周辺が私のシマであるが、結局今学期もオンライン授業になったからあんまり意味ない。昨日は大崎を宿泊場所にチョイスしたがそのワケは、ふだん使っている宿より断然駅からの距離が近く、新幹線に乗る品川駅にもちょっと近いから。だってまだ足が痛いんだもん…。

いつもと同じ調子だったら、ゲートシティの成城石井に行って黒トリュフ風味のナッツを大人買いしたのに、そんなの「めんどくさい」と思う程度には足が痛い。じっと座っておけばどうってことないが、踵に体重を預けると痛いので歩くのがめんどう。「もしや」と思ってスーツケースから9cmヒールのサンダルをひっぱり出して履いてみたが、これはけっこうよかった。でもこのオシャレサンダルはケガしたときの補助具ではなく、素敵な男性にエスコートされて歩く類のものであるからしてなんだか負けた気がする。なので結局ぺったんこのバレエシューズでよろよろと帰路に就いた。

そういえばこのオシャレサンダル①(これからおろす予定の②と③があるからね)は、おしゃれなサンダルというものがそういうものであるとおり、足をホールドする部分が極限まで少ない。そしてヒールが9㎝とかなり高めである。けっこう足場が不安定で、うっかり斜めになっているところに気付かず足を預けてしまうとふらつくか、コケる。だから要エスコートなのである。都内で私と遊んで下さる紳士&私より若くて逞しい女子のみなさん、よろしくどうぞ。いや、そんな女子いないか…。

先日、某LAWSONの出入り口でマジでコケた(そういえば今回コケてばっかりだ)。その出入り口は裏口で通りに面していなかったし、ご一緒している人がいてくれたので、みんなの前でコケるという恥ずかしい目にも遭わずにすんだし、一人でコケるという哀しい目にも遭わずにすんだ。実にさいわいなことであった。絶対者に感謝である。

コケたとき手に持っていたものが缶ビールだったので、とっさに「がーん!こんなにふりまわしちゃったら開けたときビールがこぼれちゃうよう(涙)」と考えた。自分のこういうところはちょっとどうかと思う。もしここでひとりぼっちだったら、次にはいい歳してコケたとう事実に打ちのめされて森の子りすが発動し、その場でしくしく泣いてしまったであろう。絶対者の、緻密にして完璧なお仕事の故にその時はそばに人がいてくださって「だいじょうぶ?!」と言ってくださったので、森の子りすマインドは即座に癒され「だいじょうぶ~」と返すことができた。

ここでやっぱりつい酔っ払い根性で「ビールが…」と言ってしまったが、「ビールなんてどうでもいいよ!」と言ってくださったあなたはもしかしてあれですか、白馬の王子様ですか?こんな高貴な人間存在を前にしてポッと頬が赤くなりそうな(ならないんだけど)森の子りす。こういう場面ではお相手が男性であっても女性であっても惚れてしまいそうになるではないか。やはり人間たるもの、リアルな人間に癒されるのがいちばんである。私も今後とも斯様な仕事がしたいものである。
そしてやっぱりビールは開けた瞬間こぼれました。あーあ。


昨日は大崎のエクセルシオールでチェックインまで仕事をしていた。ほんとうだったら規夫師匠との大事な聖地・大崎のスタバで仕事したいのだが、私のチョイ古めのパソコンはすぐにおなかがペコペコになるし、聖地・大崎のスタバの電源がある席は通路沿いの「がっかりシート」なので、残念ながら大崎でパソコン作業をするときはエクセルシオールである。

でもあれだよね、あんまり言いたくないけどさ、カプチーノ。門脇師匠のトリプルショット飲みたい。カフェでも美味しいコーヒー飲みたい。せめてジュースでも飲んでゴマかせればいいんだろうけど、私は果糖をウッカリ摂取しないように気をつけているのでミルク入りの飲料で諦めてしまう。きっとこのミルクも加工乳だったりするんだろうなあ。早く本社に出社して命の洗濯をしなければ。

 

 

さて。
先週の話だが、あるクライエントさんのお悩み相談のなかで「妬みとはなんだろう」というテーマが現れた。

皆さんはどう思われますか?
他のクライエントさんにも同じ問いをぶつけてみたところ「卑しい心だと思う」とのご回答だった。別の方からは「大昔から生き延びていくために必要な能力、でも根源はわからない」というご意見もあった。私の思うところを述べてみると、人間の感情というのは、言い古された言葉かもしれないが「愛か愛以外」の二択しかないので、自分のなかに価値あるものが見いだせないという恐れの一種だろうと考えている。

他の人のなかに自らの優れた点を見、それを自分の美徳として引き受けて見ることができないので妬みという思考、そして感情として感じられる。だから妬みもゴールデンシャドウの一種なんじゃないか、というのが私の考え。

できれば(そんなものがあるとするならば)「いい」妬みを自分の発奮材料にして、最終的にはそういう小さい自我は殺していくのがいいだろうと思い、もし私のクライエントさんが「妬む側」だったら断固としてそういう導きを行うだろうと思う。しかし幸いなことに私のクライエントさんは皆様「妬まれる側」におられてそのお心を哀しませているから、そういう場合はそのお相手のことをいかに愛をもって見つめるか、場合によっては寄り添うかということについて共に考えぬきたい。

でもこれは、攻撃などに無防備に身を晒してOKなどとあまっちょろいことを言っているわけではなく、ヤバい攻撃性で態度や言葉で妬みを表出するひとからはダッシュで逃げて森に隠れ、葉っぱに擬態して遠くからその方の心の平安をお祈りする作戦をとりたい。

まあでもいい大人が攻撃性を態度に出すのはちょっとね… Yogaは人格を洗練させるためにあるものだから、こういう方と直接ご縁頂くことは今後もないだろうなあと思う(こだまみたいなものは聴こえてくるが)。洗練されたイジワルというものは、云われた当人にとってはほめ言葉にしか聴こえないものなのだよ。その域を目指してはいかが?

きっと私もいろんなひとから嫌われてんだろうなー、と思う。この世の2割の人は私のことが大嫌いで、残り6割はわたしのことなんてどうでもいい。この世はそういうルールで回ってて、それで何の問題もない。
でも2割の人は私のことを大好きでいてくれる。Yogaを行じるというのは意識の焦点をどこにあわせるかを選択するということでもあるので、自分の存在の内奥で絶対者と結びついて平和に生きていられることを寿ぎ、この2割の人への愛だけに意識を向けて生きていればほぼ間違いなくハッピーである。ときどきコケてもなんくるないサー!

 

 

 

 

№696 カギはじぶんだ

指からめあふとき風の峪は見ゆ 膝のちからを抜いてごらんよ  大辻隆弘

 

 

 

6月19日
皆様ごきげんよう。いつもふらふらしている私はセンター北駅から聖地大崎のスタバ、じゃなくてエクセルシオールに移動しておとなしく座っております。

致しの体験ハウスというところに2泊してみた。サウナ(熱くないやつ)のなかに数時間転がって大汗をかいたので、たぶん体内に蓄積されたあれやこれやの毒素がすっかり抜けて、これでまた安心してサバとかサーモンとかどしどし食べられるはず。
何の作用かわからないが、体験ハウスのベッドの上に座っているとだーんだん眠たくなってくる…遠赤外線が発されているあたたかいベッドだから?ということでいつもふらふらしているのに、この二日はうとうとして過ごした。

昨日泊まったお部屋は三階にあって、屋根裏部屋みたいな感じ。斜めになった壁(屋根)に天窓がついていて、森の子りすからアルプスの少女ハイジになった気分。昨夜は雨が降り出したので、天窓を洗う雨の音がここちよかった。

ところが、である。夜半ふと目が覚めて、1階下にあるお手洗いに向かおうとしたとき事件は起こった。無垢材の床は滑りやすいので気をつけて、靴下とか履かない方がいいよと注意喚起されていてもちろん素足だったのだが、屋根裏部屋?から降りる急な階段で滑って落ちた…
左のお尻を階段にぶつけて、左踵を床に強打。今、左の踵に体重を預けられない状態で、脚を引き摺りながら歩いている。もしかして左のお尻に青あざができてるんじゃないの…?もしそんなのができてたらまたJK剣士に「大人のクセに恥ずかしい!!」と叱られるから、今朝シャワーを浴びたときも見て見ないフリをしておいた。明日帰って確認してもらって、場合によっては叱られることに。

昨年3月の自発ぎっくり腰事件を思い出す。自分で体操しているのにぎっくり腰を引き起こした例のアレ。今もO先生にSOSを発信するか否か激しく悩んでいる。去年も相当恥ずかしかったが、今回もかなり恥ずかしい。お誕生日は28歳で打ち止めしているとはいえ、私も立派なオトナである。階段でスベッてとか申し上げたら、ウケ狙いかそれとも老化か?とお悩みになるに違いない。老化じゃないです(きっと)、ウケも狙ってません、スベッただけです。月曜にC治療院予約しなくっちゃ。そしたらそこでも先生にきっと「Yoga教師のクセに意識化が足りないからこんなことになる。センセイ失格。」って呆れられちゃうな、とほほ。

 

 

足をひきずりながら大崎まで大冒険だ~、と思っていたら天から救いがやってきた。なんと!車でJR大崎駅まで送ってくださる方が現れたのである!そして無事エクセルシオールへ。いや、ほんとにありがたい。このご恩は来月必ず、親子丼と幻のビールでお返しさせて下さい。

 

 

さてさて、ぬくぬくしたベッドでごろごろしながらずっと本を読んでいた。読みながらウトウトしてしまうのでろくに読み進められていないのだが、咀嚼するのに時間が必要な情報である。

Yogaは体操じゃないのよ、智慧なのよ!とふだんから騒いでいる私。
でもYogaの智慧って、読み解いて理解して体得するのが結構難しい。私がアホだからか?いや、そんなことないと思うよ?だってC治療院のマッサージ師・M先生も同じくYoga仲間だけど、いつもふたりで「ヨーガ・スートラ(By パタンジャリ)って読んでるとけむに巻かれるよね~」とこぼしあってるから。これをもっと現代的に、説明できる部分は明確に説明して、Yogaの恩恵をみんなが受けられるようにしなきゃ!!と思うワケですよ。

 

今読んでる本は、そのヒントになる情報が含まれていて助けられる。Yogaはあまり肉体に興味がない。粗雑体はパワーが小さいから、もっと人間存在内奥のパワフルな部分に働きかけようとしている。でもなぜ、トラウマ記憶にいつまでも人は苦しめられるのか、ぐるぐる思考が止まないとなぜいけないのかを、Vedaやスートラ、バガヴァッド・ギーターから理解するのは前述のとおり至難の業。
そういう観点で、この本めっちゃわかりやすーい!

で、今これを読んでいるあなたに超ザックリ説明します。
すでに同じような本を読んでいたり、元々知識をお持ちの方で「なんか違う…」と思う方、勘弁してください、先に謝っておきます。付け焼刃でごめんね!


Yogaは人生を自動操縦で生きることを拒否する。
今ここでのすべての体験における主人(独尊位・カイヴァルヤ)たることを求めて人はYogaを行じる。ポーズを決めることも、その象徴的行為にならなきゃ意味がないのよ!

ところが人間、生まれたときに付与された肉体的環境(条件?)が脆弱すぎる。ピュアすぎるといってもいいか。新生児は1日のほとんどをデルタ波で過ごし、2歳くらいまでそんな感じ。どうりで2歳になったころ「なんかちがう!」という気にさせられるはずだ。1歳くらで次第にシータ波が出てきてこれが6歳くらいまで。そのあとはアルファ波域が加わり12歳くらいまで続く。その後はほとんどをベータ波で過ごすっていうから、「元服」の時期って脳波がオトナモードになるときってことなのね。

人は誰もがみんな、よろしいですか?みんなが、6歳までにトラウマを負うってコーク博士が言ってた。私たち皆がトラウマサバイバー。人をケアしたり指導するひとは、そのことを決して忘れちゃダメ。

なぜ6歳までに?その理由が脳波にある。
6歳までの脳波、シータ波・アルファ波というのは、大人でいうところのウトウトまどろみ、まったりリラックスしているときの脳波。この脳波域は非常に暗示にかかりやすい。幼児期の子供は当然ながら理解力・分析力が未発達なため、経験したことがそのままどんどん無意識に刷り込まれていく(被暗示性が高い)。そしてなんらかの経験から感情が動くとき、その感情の原因となったヒトやモノとその感情を条件付け、連想記憶を形成する。高い被暗示性がある=親の言ったテキトーなことが信念になってしまう、と言われると合点がいくだろうし、怖い。でもわたしたちみんながそうだった。

この、幼いころ無意識に刷り込まれ形成された記憶を再検証して、そこにまつわる感情・思考的意味付けを再評価・再認識するのがYogaの根幹となる取り組みである。これを瞑想(ただ座るだけが瞑想じゃないよ!聴聞、熟考、対話を含みます。)で行い、過去の浄化を行って深い悟りに到りたいのだ。

感情が動き、それに伴って思考が湧き上がる。思考や感情が湧き上がる時には対応する神経の反応があり、内分泌等の変化がある。いっつもイライラしているひとはコルチゾールのようなストレスホルモンやそれ対応の神経の働きに体が慣れきっていて、「いつもの状態が安心」だからこそつい容易にイライラモードに入っちゃうのかもしれない。「いつもの状態」が自分をハッピーにしていないなら、変えていかなければ。

あー、もう今日はずいぶん長くなったからこれでやめるけど、Yogaで恩恵を受けたかったらまずは意識化・客観視。慣れ親しんだ感情や思考による心身への悪影響を断固拒否!これゼッタイ必要。まずここからです。

目を閉じて「あなた」を感じて。すべての鍵を「あなた」がきっと握っている。ぜんぶがこれでいいとは言い切るつもりはまったくありません。しかし、鍵はあなたが握っている。それは確かだよ。

 

 

 

№695 もう書きたくない

逢いたいと思う気持ちをためている逢いたい思いに利子がつくほど  詠み人知らず

 

 

 

6月18日

昨日五反田を発って、センター北駅にやってきた。
その前夜某所で会食があったのだが、どこでなにをということはワケあってヒミツである。とても楽しい一夜だった。出向いた某所にはこれもまたワケあって深い思い入れがあるので、その場所と、昨夜集った方々と、そして交わされた対話によってとても充たされた思いになった。


ふだんここでバカな話を臆面もなく語っているので、「このことをブログに書かないでね」と言われることがたまにある。私がどれくらいおバカさんなのかわかっておいでの故ご心配になられるのであろう。こういう言葉は深く私を傷付ける。そこまで自分は弁えのない人間だと思われているんだと。でももしかして、弁えているつもりなのは自分ひとりでほんとうはとんでもない心得違いがあって、人にたくさんの不快な思いをさせてしまっているのかもしれない。

書いて、人目に晒すというのは怖いことで、かつて、この行為が怖くてたまらないからこそ公開される文章を書くことに抵抗があり、師匠にどんなに背を押されても何年も踏み出せなかったし、公開するようになっても名前を開示できなかったりした。

そして今日は久しぶりに、書くのはもうイヤだという気分になっている。でも嫌なことをやり続けなければ違う地平を見ることはできず、おまえはいつまでもバカなお前のままだよということで、師匠方が「書いて、見せる」ということを私に課したのだろうと思う。人は大体のところ何事もなければ、過去慣れ親しんだパターンに従ってぼんやりと日々を過ごし変わることが無いので、なにかが刺さって自分の一部が死んだように思えるのはしあわせなことだと思う。これでもう一歩、絶対者に近付けたんだと思っていることが大事かもしれない。


昨日の夕方から「癒し体験ハウス」なるところにやってきている。岩盤浴というものに入ったことは一度たりともなかったのだが、昨夜は「サウナ」と呼ばれるその施設で何時間も横になってある方と話をしていた。あたたかいその部屋でダラダラと汗を流し、心拍数がバクバクあがってきたら「水が足りない」と思ってごくごくと水を飲みながら、いろんなはなしをした。

人は過去に経験したことごとが楔のように自己存在に刺さってなかなか抜けない。Yogaではこれを、心素と我執が真我を覆い隠している、と表現する。


多くのひとがYogaを体操だと思っているが、この取り組みの最も大事なところは、Vedaの智慧を学び、二極の対立を超得した健やかな視点をもって、自らの過去を客観的に見つめ直すことにある。体操は、肉体に刻み込まれた過去にまつわる無意識的な感情と、それに伴う自動的な反応を無力化する目的があるし、瞑想は放っておくといつまでもグルグル回り続ける過去の反芻を止めるためだ。

 

ほんとうは私は誰なのか?を問うたときに、常に迷いなくアートマンでありブラフマンであると言えるか。今この瞬間突然肉体の死がやってきたとき、迷いなく神の名を口にできるか。いつも最も尊いものと結びついていられるか?そのためにYogaはあるし、私たちはYogaを選び、Yogaを行じる。愚かで有限な自我を一瞬一瞬に殺しながら、無辺なるものに近付いていきたいから。

バカは死んでも治らないらしいので、もし次また人間になれるチャンスがあればそこでの成長を期待したい。お前らには来世があるからな、と慧心師もいつも励ましてくれる。今生では救いがたいようだ。人間、この一生でそんなには成長できないらしいが、たとえほんの僅かでも今と違うように世界を見られたらいい。

これまでここで私が書いた言葉で傷付いた人がおられたのならば、心の底からお詫び申し上げます。ほんとうにごめんなさい。

 

 

№694 かえる愛

傘にうつくしいかたつむりをつけてきみと地球の朝を歩めり   雪舟えま

 

 

 

 

6月17日

「でも、アナクシマンドロスとかアナクシメネスとかエニペドクレスみたいな衝撃はなかった」


みなさま、ごきげんよう。お蔭さまでふらふらさせて頂いております。久々にあの子の登場ですよ。忘れてませんか?

実にめずらしくJK剣士からLINEがきた。世界史でなにやらさんが出てきたと。そのなにやらさんはどこの方?ギリシャの方?と訊ねると「そうそう、そのあたり」と。

21:48 JK剣士  万物の根源は無限なるものとか

21:48 JK剣士  空気とか

21:48 JK剣士  いった人たちですね

21:49 JK剣士  ピタゴラスみたいな人

ふーん。そしたらVedaと一緒やん。Yogaにかぶれている無知な私はそう思った。
なので「インド哲学と一緒ですやん」と返すと、ウパニシャッドも出てきたよ、というので「ウパニシャッド最高っす」と述べたら、冒頭のような返事が返ってきたわけです。

ハハはさー、高校2年から日本史選択だったからさ、そういうカタカナ名称ぜっんぜんわからへん。なんというかその空気感みたいなもんも全然理解できん。そして結末は…

 21:54 JK剣士 でもホメロスが1番だねやっぱ

21:56 Kayoko どのようにでございますか

21:56 JK剣士 いや

21:56 JK剣士 もっと俺のこと褒めろス!!

21:56 JK剣士 って使えるじゃん

 

ホメロスさんというのはそういう感じの方なんですね。ほうほう、勉強になりました。なるほどねー。そんで結局ダジャレなんだね。ふーん。もう何も言うことないですわ。

 

 

さて、行ってきましたよ!国立博物館鳥獣戯画展です。

数年前に京都の国博でも見せて頂き、今回が2回目になる。ほんとだったら今年のGWの目玉がこれで、他にも美術館をいろいろめぐるぞー!!と長女ぶーちーと二人で意気込んでいたのに、このとおりの状況ですべてがナシになってしまった。ところが6月の初めにぶーちーから「チケット取れるぞ!」という連絡が来て、けっこう苦労をして昨日朝一番のチケットをゲットしてくれたのだった。しかもぶーちーのおごりである。ありがとう!ぶーちー!

この先の説明はナンチャッテですので、詳しくご存知の方がおられても決してツッコんだりなさらないでください。
鳥獣戯画とはマンガチックなどうぶつたちの姿が描かれた、とっても楽しい巻物である。甲乙丙丁の4種類がありあの有名なうさぎやかえる、きつねや猫、ふくろうが登場するのは乙巻である。全部伸ばすと40mほどにもなるという大作。この度はこの乙巻を、なんと動く歩道に乗って見ることができる。せっかくこんな「動く歩道」まで設置したのに会期が短縮になっちゃって、担当の皆様方はめちゃめちゃ悔しかっただろう…。

その肝心の乙巻をまじまじと(動く歩道に運ばれながら)見ていると、これを描いた人はどれだけかえるが好きなんだ?と思った。もう他のなによりもかえる愛がすごい。紙からそのかえる愛が激しく放射されている気がする。ほかのどうぶつたちと比して表現の熱意が違うような。動く歩道が終わってふらふら~と次の展示に向かう短い通路で、長女ぶーちーと「このかえる愛っていったい…」と言い合っていた。

幼少時からかえるフォビアだった私。とにかくかえるが怖い。嫌いなんじゃなくてコワい。写真も写実的なイラストもムリ。生物の教科書にかえるの絵が描いてあったら紙を貼っていた。ペンで塗りつぶす?無理です、ペンの先からかえるエネルギーが伝わってきてコワいです。かえるの解剖があったらガッコウは休ませて下さい、と小学生の時から母にお願いしていて、私の母は超厳しい人だったのだが、どれくらい私のかえる恐怖が激しいかはわかっていたので「うん、よかよ」と言ってくれていた。幸いなことに解剖はなかった。高校に進学すると、我が母校・長崎の立山にあるH高校の生物室にたいへん珍しいアフリカツメガエルが複数飼われていることが判明した。そうと知っていればこの高校は断念したものを…。

ご存知ですか、このアフリカツメガエルは水にぷかぷか浮いて生存しているらしい。ちゃんと見たことはないので聞いたハナシである。生物室に入らねばならないときには目の焦点をわざとヘンな具合に調整にして、視界がぼや~っとするよう必死に努めた。「ここにはかえるはいない、いないのだ…」と自分に言い聞かせるのが精いっぱいで授業なんて耳に入るもんじゃないですよ。このアフリカツメガエルの存在ゆえに迷走神経の働きが狂い、高校時代の私の成績は惨憺たるものであった。アフリカツメガエルさえいなければ安心した環境で勉学に励めたはずで、今頃私は… 間違いなく今と同じようにふらふらしていたであろう。

かえるって変態するじゃないですか。変身ですらない、変態ですよ?!すごいポテンシャルですよね? あ、でもこの変態っていうのは、あなたのような方のことじゃなくってよ?オタマジャクシがかえるにすっかり姿を変えるって意味ですから、一緒にしないでね。だいぶ違うから。

変わることに対する恐怖がある場合、かえるフォビアになるって聞いた。
心身を病んで中野先生のところで数年かけて箱庭療法に取り組んだとき、目標はこの「かえるフォビア」克服だった。1年ほどでなんとかかえるの置物に触れて箱庭のなかに配置できるようになった時、ものすごく感動した。そこで近所の、ケーキ屋さんなのにやたらと雑貨を売っているリ〇ドーでかえるのぬいぐるみを買った。この子はケロッタちゃんと名付けられて、今も私の本棚のうえで常に寛いでいる。

鳥獣戯画展に戻ります。
かつてかえるフォビアだった私は、ここで長い歴史を生きてきたかえるさんオーラ&パワーに直撃されて、お腹が痛くなってしまった。これは間違いなくかえるさんのせいである。そしてずいぶん長いことトイレで座っているほかなかった。何とか回復して残りの模写的な巻物を見たが、やっぱりコピー品はオーラが劣るねぇ。残念ながらかえる愛が絶対的に足りない。コリャいかん。

そして上野駅たいめいけんでランチを食べて帰りました。
ぶーちーのお蔭でかえるの洗礼を受けられてよかった。これでさらに変態、じゃなくて変身できてしまう気がする。もっと美しく強引に、ペロッとハエを呑み込むように愛情深く!!かえるといえば薬局のあの方(ケ〇ヨン)しかムリだった私が、こんなにかえるのことを理解する日が来ようとは… やはり絶対者ブラフマンのお仕事は緻密にして愛情深い。

あ。今思い出したことが。
カヨってケロに似てる、これからカヨコのことケロコって呼ぼう、てな冗談を家族が言ったとき、マジでキレて大暴れして激しく泣いた。8歳くらいの頃。なつかしいわぁ。