蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№680 まぼろし

掘り下げてゆけばあなたは水脈で私の庭へ繋がっていた   笹井宏之

 

 

 

 

6月3日
今日は私にとって特別な日となった。

米子に滞在している間は、出張には持参出来ない本を読む。荷物になっちゃうから、もって行けないやつ。毎日ほんの少しずつしかめ読ないので何年越しもの読書になる。夜やすむ前に「正法眼蔵2」「コーラン1」「マイスターエックハルト説教集」、そして起床後には「奇跡のコース第二巻 学習者のためのワークブック」。

「今日という日は、レッスンをあなたが実感できる日です」とある。
そのとおりになった。

 


ここ最近ずっと心にかかっていることについて今朝もまた考えて、愛情を与えてくれる存在に対する依存から脱することなくして、わたしの解放は達成されないのではと悩んでいた。

Yogaが目指す境地は「隷属からの解放」であるからこそ、私はどんなものも依存したくない。その“なにか”があるからしあわせだ、と思うことはDukka(苦)そのものである。と、今朝まで思っていた。

ところが、今朝JK剣士を学校まで送って行く車のなかで、本日のページの冒頭部分の音読を頼んだら

「苦痛は間違ったものの見方です。それは自己欺瞞の証です」

ときた。聞いた瞬間「参ったな~!」と思って思わず笑いが出た。

無事JK剣士と防具を学校におろして家に戻り、門脇コーヒーを頂きながら残りの部分を読む。

「あなたに苦痛を与えるのはあなたの思いだけです。」
うん、まったくYogaの教えどおり。

「あなた以外の誰もあなたに影響を与えることはできません」
これも同じく。


ここ数日、以前(約1年前)の自分だったら絶対怒ってただろうな~という場面で、ぜーんぜんハラが立たないという経験をした。アレコレ言って差し上げた方がよかろうなあ、と思いながらその場に臨んだら、目の前の方のお話にすうーっと引き込まれていき「今は」これでよかろうもん、とも思った。


同時に、なるほどコーザル(元因)とはこういうことかと思えた。
元因、微細、粗雑という三つのカラダを明確に言語化できる気がした。(ホントにできるかどうかはわからへん)

なにも問題は無かろう、これで良し。
恐怖も葛藤もないと思えた心持ちのなかで、学校行事により昼過ぎに帰宅したJK剣士と一緒に、ひじきとえんどう豆の煮物とナスの炒め煮を食しながらアレコレ話をしていた。折よくJK剣士があちらから送った荷物が到着したので、それを開いてお土産を手にお土産話を聴きつつ対話していたら、「ほんとーにママは変わってるよな」としみじみ言われた。なにゆえ?

 

 

今日はあんまり長く文章を書けない気がする。
そもそもパソコンにもスマホにも触りたくなくて、朝からずっとクラシック音楽ラヴェルの「ラ・ヴァルス」などなど)を聴いたり、三絃を演奏したりしながら、至福の時を味わっていた。もう今日のブログムリやなーと思ったくらい。


すべてみなあるがままで尊い。その苦しみの、目に見える結果をなんとかしようとするのは愚かである。現象の世界をなんとかしたいのならば、より精妙で力の強い部分に働きかけなければならない。10数年Yogaの学びのなかで耳にタコができるほど聴かされてきた事々。

しかし今日このとき、私は御師様方に言われてきたことが「わかる」気がする。
なぜそう思えるかというと、私自身がしあわせで安全に守られていて、なんの不足もないように感じられるから。頭ではなく、体感としてリアルに。

だれもみな自分のペースでよい。教えは、準備ができたときに触れることができる。Yogaは、準備ができたときに師と出会える。

かつて私が拝受した瑜伽名は、直訳すると「隷属からの解放を好む女神」。なにものにもとらわれず生きたい。あるモノやヒトが好きでたまらん!というのはイヤだと思ってきたが、ある対象を好きでたまらないという経験を通じて今日の気付きが生じ得たと思う。解放はあらゆる路からやってくるから「こういうルートで頼みます」というのは単に自己中心的な思いだということだろう。どの道を通っても同じところに到り得るならば、愛情たっぷりな道の方がいいに決まっている。

今日のハナシはYogaネタパスの人には全然おもしろくなかったかも。ごめんね!でもこれ、すごく大事なハナシだから。うん。

 

 

 

苦痛は幻想である。喜びだけが真実である。苦痛は眠りにすぎず、喜びは覚醒である。苦痛は欺瞞であり、喜びだけが真実である。
“A Course in Miracles” Workbook for students Lesson190-10

  

 

A Course in Miracles

A Course in Miracles

Amazon

 

 

 

 

 

№679 教祖募集中

すこしずつ存在をしてゆきたいね なにかしら尊いものとして  笹井宏之

 

 

 

6月2日
昨日深夜、米子市朝日町の例のバーMarujinにて、隠れふらふら信者が米子に棲息していることが確認された。隠れキリシタンが生まれて初めてホンモノの神父様に出会ったような喜びのときが、バーMarujinに流れた。「わたしも信者です!」というカミングアウトに「なんと!ここにも!」と感動を隠せない私。

しかし重大な誤解が生じていたのでここで改めて皆さんにもお伝えしておきたい。

その隠れふらふら信者は私のことを「ふらふら教・教祖」と誤解しておいでなのだったが、それは違う。私は単にふらふら教錦町事務局の掃除のオバチャンである。
いつもかつも認定ヨーガ療法士の研修で慧心師から「おまえらみたいなアホなオバチャンは」という愛あふれる枕詞をつけて呼びかけられ、かつ導かれているので「オバチャン」というコトバを聴くと、心はスワミ・ヨーゲシバラナンダ大師のお写真が飾られたヨーガ・ニケタン本部二階の部屋に飛ぶ。私はこの場所で、2007年からずっーとアホなオバチャンとして正統なYoga教育を授かってきている。

オバチャンであるとは、Yogaを使って人様を導き、揺るぎない平安の境地に至らせることと同義である。なので私は至福の毎日のなかで、日々お手製のアクリルたわしを用いて便器の奥まで手を突っ込んで磨き、サンドペーパーで水垢と闘う単なる掃除のオバチャンである。断じて教祖にあらず。

では教祖様はいったいどこにおいでになるのであろうか?
ということで、教祖募集してます。「われこそは!」と思うふらふら自慢の方のご連絡をお待ちしています。まずは事務局(担当:ツボイ)へお電話ください。面接はバーMarujinにて。日曜定休です。


さてさて昨日私なりの「至福倍増体験」をし、こらえきれずにマスターマリコにLINEしてしまった。そうしたらマスターマリコが「LINE見てめっちゃしあわせなエネルギーになりましたー」と言ってくれたので私もうれしい。デジタル機器を用いて靈氣をガンガン使えることもわかったので、許可を頂いている人にはLINEやMessengerの画面を通じて靈氣を送っている。自家発電できるその日まで!僭越ながら私がお手伝いさせて頂きます。教祖になりたくはないが靈氣は欲しい人もご連絡ください。勝手に送ったらいけんそうです。エネハラ(エネルギー・ハラスメント。Mさんの造語)になるからね。


昨夜の会合、いえすみませんただの飲み会は、マスターマリコが昨年繋いでくださった三人の女子で行われた。会場は、しげにいちゃんが大大大好き!だったきっちんピノキオ。飲食関係に強いM社長が予約して下さったのだが、シェフのピノさんが私の顔を見るなり「あ!!ツボイさんだったのか!ごめーん、今日ワインが揃ってないんだよ!」と謝ってくる。

確かにここで、私は浴びて浴びて浴びまくるほどワインを飲ませてもらった。しかしそれはすべてしげにいちゃんが選んだものであって、私はただそれを、私にできる限りの「旨い!」というコトバを駆使して堪能させてもらっただけである。ピノさんのお言葉を伺って、ここにもしげにいちゃんの遺産がのこされているとしみじみ感じた。そして今朝それを奥さんにもお伝えして、しんみりした。奥さんが泣いておられないといいと思う。おそばにいてそのおからだを抱いてさしあげたい。

しげにいちゃんは、ある時私を「妹認定」してくれた瞬間があったらしい。亡くなってから奥さんに伺って涙が出そうになった。でもそれ以外にも「美味しい」というエネルギーで私たちは繋がっていたなと思う。

美味しいものを頂くと、私は背筋に電気が走る。みんなそうだよね? 
電気(たぶんPrana)に打たれシビれて言葉を失い、その後「…んまっ!」というのを聴くのが、しげにいちゃんは楽しいと思ってくれていたのかもしれない。もしそうだったらうれしい。ご相伴させて頂いてこのひとと食事をすると、“うれしいな、楽しいな”と思ってもらえるひとで私は在りたい。飲食を共にするというのも間違いなく愛の行為だと思うから。


さてバーMarujinタイムの後半はこの三人の貸切となって、マスターも一緒に大騒ぎであった。マスターWもまた「バーMarujin教」を作ろうと画策している。悩める男女が集うバーの在りようを深くお考えの故であろう。人に言えない秘密の悩みを聴き、寄り添い、どうすればモテる男(女)になれるかを優しく教えてくれる。ふらふら教よりずっと地球にやさしい。そしてこの「バーMarujin教」の教祖はうちと違って既に有為な人材が確保されており、なんとそれが我が家の長女ぶーちーだというではないか!ハハの与り知らぬところで教祖が内定しているとは。やるな、ぶーちー。


しかしバーって面白い空間だなぁ。かくいう私も誰にも言えないことをアレコレマスターには話していて、「お母さん、困ります。やめてください」といつも拒否られているのだが構わず話している。ここで明かされたヒミツはゼッタイにどこにも漏れないからね。人間そういう場所が必要だと思うワケ。

だから私もそっち(カウンターの内側)に入ってみたくなって「ねえ、月に3回だけバイトさせてよ。時給600円でいいから」と言ったら、M社長&マスターWに「それ、鳥取県最低賃金以下だから」とご注意を受けてしまった。世の中の常識と隔絶して生きているので無知ですみません…

では800円から交渉開始っていうことでどうかな?!
もし採用されたらみんな来てね!

 

 

№678 スイカで悟った

もうそろそろ私が屋根であることに気づいて傘をたたんでほしい  笹井宏之

 

 

 

 

6月1日
皆様こんにちは、今日も元気にフラフラしてますか?私は週末の(私的には異常な)忙しさから脱して、無事にフラフラモードに戻ることができた。ふー、ヤレヤレ。元来ナマケモノなんで働きすぎるとどうもいけませんわ。

今朝、夜明け前に起きたら少し肌寒かった。暖をとるため、足元でノビノビしていたういろ(猫)をむりやりつかまえて二度寝に入ったら変な夢を見てしまい、次にJK剣士の目覚ましで目が強制的に覚まされた時にはカラダがガチガチに固くなっていた。


なんだか大きな商業施設で飲み会をしている。来ていると思っていた大好きなヒトが来てなくて、「もういいもん、ぐすん」とかいいながらワイングラス片手に帰ろうとエスカレーターに乗っていたら、ふと気付くと全然知らない女性の車の後部座席に座っている。あれ?「あなた誰ですか」と聞かれてもそれ私が訊きたいんだけど。ともあれ駅近くで降ろすからそこから宿に行きなよと言われ、降りたはいいが「スーツケースがない!」と騒ぎになる。そもそもの初めからワイングラスしか持ってなかったのであって、スーツケースなんて無いはずなのに泣きの涙。諦めて一歩を踏み出そうとしたら、後ろからJK剣士がやってきて(いったいどこから?)「ねえねえバドミントンしたい」という。訳もわかんない場所にきて、スーツケースもないのにそんなことできません!と言っているのに「バドミントン、バドミントン!」と騒ぐ、

という支離滅裂な夢だった。ああ疲れた。シャワーを浴びてさっぱりしてきたJK剣士に「バドミントン、バドミントンってうるさいよ」というと、「バドミントンいいよな。やりたい」と何も聞かずに返してきた。さてはおぬし、ほんとにハハの夢に入り込んでいたのでは…

 

 

昨日「パワーかフォースか 改訂版」を読了し、「ギーターサール」をざっと読み返して、なんやわからんがとってもしあわせな気持ちになった。「あー、このこと前から知ってた」というそんな心持ちである。「このことってなに」と聞き返されたらもぐもぐと口ごもって逃げてしまうかも。

昼食後にスイカ(小玉)を食べながら動画でも見ようとYouTubeを渉猟していたら、目に飛び込んできたのは道元禅師の伝記映画だった。スイカボリビア産の岩塩をかけて食しながら、「わしは阿育王山広利寺の飯炊き(典座)じゃ」という老師と若き道元禅師のやりとりを見ていた。老師が難しい顔をして考え込む道元禅師の眉間のしわを笑いながら指でひらき、「弁道とは“徧界かつて蔵(かく)さず”。この世のありとあらゆるできごとは昔からそのままの姿で何も隠すところがないではないか」と語るシーンの、「昔からそのままの姿で」というコトバになんや知らんがもうめちゃめちゃジーンときたのである。


今日、米子ナンチャッテ高島屋の隣にある高橋商店にスイカなどなど野菜果物を求めに行ったとき、「べつにYogaじゃなくていいんだよね」と強く思った。でも私はYogaが大好きである。ナマケモノなのでなるべく効率よく最大限の効果をゲットしたい場合、目的にズバリ寄り添うのがいちばん早道。

その点伝統的ヨーガは文字による資料(Veda 聖典ほか)がいっぱいことあるので、アホな私に変わってアルジュナくんがクリシュナ神に叱られたりしてくれていて、「そうかそうか、そういうロジックで思考展開して、そういう発言したらクリシュナ神に叱られちゃうわけや」と知ることができる。こういうのを伝統的なYogaではシュラバナ・マナナという。要するにあるネタに触れて、ふんふんと考えるというただそれだけのことなのであるが、これがあるとないとでは大違いですよね?!

Yogaの目指すところは「とらわれのない開放的な状態、すなわち平安と至福の境地」、ここに至るためには「お前の心の働きを止めちゃうことしかないんだわ」という。そのためにアレしてコレしてと実に丁寧に方法論を提示してくれてて、しかも布団よりはるかに小さいマットの上で健康づくりやトラウマケアやアンチエイジングまでできるんならもう他になんにも要らへん。

でも、私はYogaを教えたいわけではないからね。「あー、楽ちん」というところに一緒に行かか!というただそれだけであると、スイカを食べながら思った。
これってもしかしてさとりかな?! 

 

 

 

№677 こっちだよー

すべてのいきものにとっての夜も、ヨーギはそのなかで目覚めている。
バガヴァッド・ギーター2-69

 

 

 

 

5月31日
愛するオタクが今日を節目に新しい一歩を踏み出すこととなった。最後にご挨拶に行った、これまでずっといた場所で、長い旅の途中で求めてきた美味しいものを人に配ったという。楽しいことばかりではなかったしつらいこともたくさんだったのに、もう二度と来ないかもしれないところで、もう二度と会いたいとは思わないかもしれないひとたちに美味しいものをさしあげて、きれいにそこから羽ばたいた。素晴らしいなと思った。さすが茶人だな、とも思った。

 


2004年7月に一度翻訳出版された本の改訂版を、今日すべて読み終えた。それはちょうどJK剣士が生まれた頃に出た本で、あの当時の自分を思うと夢のよう。なにを求めて、なにに価値を置いていたかということをふりかえって思い出してみると、バカバカしくてかわいくて、微笑ましくなる。だから2004年の出版時にこんな本を手にとった訳がない。

そのあと1年もせずに想定していたすべてが(それがたとえどんなにバカバカしい夢でも)崩れ去ってしまうなんて思っていなかった。でもその、今の自分からするとサッパリ魅力のない夢たちが潰えてしまったからこそ、数年後にこの本を手にとって、そして今またその改訂版を読み終えた。

初めて読んだとき受け入れがたくて、ひどく抵抗感を覚えた。だからその本は処分してしまっていて手元に残っていない。でもいま改めて触れてみると「わかる」と思えた。「やっぱり」とも思えて、あれやこれやの経典や聖典に書いてあることは要するにそういうことなんだなあ、と(今の私に許される浅い理解で)思った。

この本を書いた人はもう亡くなってしまったそうだけれど、この方がある特異な体験をして人生がすっかり変わってしまった、と思ったとき、バガヴァッド・ギーターを改めて手にとったらスラスラと読めて理解できた、とあとがきにあった。なので私も「もしかして」と欲を出して、手元にある数冊のバガヴァッド・ギーターのなかのお気に入りの二冊をひっぱり出してきて読んでみた。ふんふん、そうだな、これも前よりはしみいるようになってきているような?、と思ったのも単なる妄想だったろうか。


このバガヴァッド・ギーターのなかには当然「ヨーガ」ということばがたくさん使われているのだけれど、このことばの用いられ方がふだんみんなが使っているようではないので、お風呂につかりながらこの本を読んで(水没させることはなかったのでよかった)、「うんうんそうだよ、ヨーガするっていうのはこういうことだから」と考えていた。


2-48 汝がヨーガの境地に到達して
2-50 ヨーガに不動の人は…
5-8 最高の真理を知り、ヨーガに合一した者は…
6-3 彼がヨーガに安住したとき…
6-23 苦悩の緊縛からの解放がヨーガと言われる
6-53 三昧の境地になれば、おまえはヨーガを完成するだろう
9-22 私を信愛するひとは常にヨーガに合一している


と、いうことでヨーガはDoするもんでなく、至るべき状態である。なのでうっかり「昨日ヨーガしてさあ」などというワケにはならない。「えええ!ヨーガできたの?!いいなぁぁぁ」と言われてしまってハナシがややこしくなるかもしれない。

なにしろ「ヨーギ―の心の状態は、無風、静謐の場所で、揺らめくことなく燃え続ける灯明とおなじと言われる(6-19)」のだから。体操だけしたって、なかなかそんなことにはねえ。


でもこの数か月、美味しいものを一緒に食べながら、もしくはzoomでアホな画面を共有してゲラゲラ笑いながら、そして時にマジメに語りながら過ごした愛するオタクとの時間は、今日間違いなく私たちふたりをほんの一瞬、不動のヨーガの境地に連れて行ってくれた気がした。

  

自分に足りないものを数え上げていたあの頃の私、あの頃のオタク。なにかが手に入れば、いまここに「ある」と思いこんでいる「問題」は解決する、と信じてた。ところがどっこいトンデモハップン。オタクはミッドシップツーシータ(いわゆる軽トラ)でなまはげに会いに行っただけ、私はこの2カ月主には東京でフラフラしていただけである。別に苦行も修行もしていない。毎日おいしいものを食べて夜は死んだように眠っていたオタクと、素敵な紳士に「フラフラしとけばいいんだよ」とお墨付きをもらって毎晩ビールを飲んでグダグダしていた私。

ただ、探しものをしなくなっただけ。
あ、いましあわせだ、と思えただけ。

ずいぶん時間がかかったが、今のこれって自由の境地じゃない?とオタクと語り合い、この解放感と愛でみんなを包んじゃいたいね!という合意に至った。

 

愛するオタクのボディは豊満なので、きっとたくさんの人を包み込める。
私も体格はいい方だがなにより声がデカい(と、いつもJK剣士にいじめられている)から、惑う誰かに「おーい、こっちだよー」といえば届くかもしれない。

国営企業で「号令調整」なる”大声で叫ぶ練習”をしたのは、実は魂で世界に向けて叫ぶためだったのかなあ。ヨーガ(の状態は)おもしろいよー、一緒に遊ぼうよー、と叫ぶのか、あなたのその悩みはマーヤー(迷妄)ですよーと叫ぶのか。楽しかったらなんでもいいような気がする。


と、今日はヨーガのはなしばっかりで「ちぇっ!つまんない!」とご立腹の人がおられるかも… いやもう、この三日ほどヨーガヨガヨガ…ってかんじでめずらしく忙しくて、アタマがヨガヨガしちゃって。こんなことじゃフラフラ教徒として恥ずかしい。明日からまたフラフラしてくだらない話します。今日はごめん、許して。

 

 

 

№676 尊敬する仲間

この心は あなたへの愛でいっぱいなのよ
あなたは知らないのよ、私がどんな愛の犠牲を払ったかなんて
あなたから軽蔑されるとわかっていても、そうするしかなかったのよ
でもいつかは知るわ、どれほどあなたを愛していたか
私は死んでもあなたを愛し続けるわ

“La Traviata” 第二幕 第二場より

 

 

5月30日
連日の低空飛行の原因はオペラのせいだとJK剣士に言われてしまった。なんだと?!

ふと思い立ってボロディンイーゴリ公」とヴェルディラ・トラヴィアータ」のCDを交互に延々流し続けていたのだが、JK剣士が話しかけてくるたびに「会話に音楽が合ってない!」とツッコミを入れられる。そんなこと言っても仕様がない、聴きたいんだから。

イーゴリ公」の方はともかく「ラ・トラヴィアータ」は救いがないね…
しかし「道を踏み外した女」ってひどくない?なんで?アルフレードみたいなお坊ちゃまに心ほだされて、命まで落とすことになっちゃったから?それなら道を踏み外させた男の方が悪いじゃないのと思うけれど、すべて事は皆、自分を因とするのだから、こんなボンボンに惚れられてしまったヴィオレッタ、貴女は道を踏み外したことになるのか。

お気に入りは第二幕第二場、パリのフローラの屋敷で行われる舞踏会の場面である。会いたくない人と出くわしちゃったヴィオレッタが “Mio,Dio!” ああどうしよう、神様!と嘆き、だんだんと不穏な空気が増していくあのシーン。極めつけは札束を投げつけられたヴィオレッタがショックのあまり気を失い(女に札束を投げつけて侮辱するとは、お前はなんてダメな男なんだ、アルフレード!)、その場のみんなに総スカンを食ってようやく「ああやらかしてしまった…」と後悔するところ。

わりあい長いこの部分を繰り返し聴いて「あぁ”Mio,Dio”!」とか嘆息していると、JK剣士が「そんなん聴いてるから気分下がる」とか言いおる。それはちょっとどうなのよ、と思っていたが当たらずとも遠からずだったかもしれない。ではどうしたらよいのだろうか?暗いオペラ1に対して、底抜けに明るいノリノリの曲(ってなに?)9くらいの割合で、心身の低調化を防ぎつつヴィオレッタの歌声に耳を澄まさなければならないのだろうか。なんか面倒だな。

 

 

さて、昨日に引き続き今日も結構忙しい。米子にいるときはガンガンにリアルな用事をぶっこんでしまうので、週末はやたらと忙しい。朝イチでK山家へ伺い一級整備士の息子さんにオイルとワイパーのゴム(正式名称なんていうの?)を交換してもらった。その後急ぎ松江へ向かい、本社でツボイブレンドを入手。なんとこれまでマジックで手書きされていたのに、“Tsuboi Blend”と立派なシールが貼ってあるではないか!「ちゃんとシール作ってあげたからね」と門脇師匠のありがたきお言葉。うれしい、どんどん飲みましょう!でも今のところ闇ルートでしか購入できません、ごめんね。


師匠からアレコレ面白いお話を伺っていたら次の予定が迫ってきた。本日はモカ・イルガチェフ、今シーズン初の水出し、そして最後はエスプレッソをガッ!とあおって出発。

半年ぶりに認定ヨーガ療法士仲間のY先生とお会いした。同じ講座で学び、当地で私が最も尊敬しご信頼申し上げる先生である。それなのにお忙しくてほとんど指導をされない。実にモッタイナイ。そんなのヨーガ療法の大損害だよ。

ご自身の人生にもご本業(看護・介護関係)にもYogaの智慧を存分に活用しておられ、口癖は「Yogaってほんとスゴイわ」。わたしたちがYogaの専門家教育を受け始めてからもう10年以上の時が経ったが、彼女はご自分のフィールドにYogaを活用し、私はYoga指導に携わり、時間と経験を通じてよりこの伝承された智慧の広さ・深さに打たれるようになった。前はここまでとは理解できていなかった。こちらの器が小さいもんだから、ほんのちょっとしか受け取れなかったのである。ということは、多少は成長させてもらったのかな。前よりずっと人生はシンプルに、そして豊かになっていると感じる。

ヨーガ療法はどこへ向かうのか?指導技術はいかに上げるのか?人の成長に関するYoga的な捉え方に不足している観点について。来年の米子大会(2022年5月、ヨーガ療法学会研究総会が米子で開催される)での担当について。Yoga療法的アセスメントの進化について。お金と絶対者ブラフマン、人が自らに内在させるエネルギーとシンクロニシティについて… あとはJK剣士の元担任・Mティーチャー(英語の先生、日本人)がキノコを好きなことについて。彼女のお嬢さまはJK剣士が通うガッコウの卒業生なのだ。

でねY先生が、今日会った瞬間に「ん?ちょっとツボイさん、オサレ度が上がっとらせん?」と言ってくれたのである!なんとまあ。Yoga療法の先生はほめるときにもグサッと刺さることを言う人種で、決しておべんちゃらは言わんからね。ちょっとテレちゃった、えへへ。うれしいな。こんなことならもうちょっと気合いれて、東京にいるときみたいにハイヒール履いとけばよかったな。


はてさてJK剣士ですが、今年もインハイはなさそう。全中(全国中学校剣道大会)は中止が決まっているらしい。選手のみなさんはどれほど意気消沈しているだろうか。
前日カントクとお話ししたとき「俺なら絶対グレてた。だからお前がやりたいことをやるために、好きな道へ進め」と言われたそうだ。カントクがそんなことを言うなんて、とJK剣士も驚いていた。

大会という場が失われたということは、真剣に競技に向き合ってきた子供たちにとって底知れないほどダメージが大きかった。闘って実力のすべてを搾り出す場が与えられないんじゃ、もう別の道に活路を見いだすしかない。ということで、次なるチャレンジの場について検討を進めている。

今度はアメリカには行かない。マスターマリコもいない、日本語も通じないところへ行く、と言っている。そうでないとダメだとハハも思ってた。
次にJK剣士が飛び立ったら、ハハもライフスタイルの更なる改変に向けて調整を行わねば。ぼんやりしている場合じゃないねえ。

 

 

 

 

№675 おのろけ

呼吸する色の不思議を見ていたら「火よ」と貴方は教えてくれる  穂村弘

 

 

 

 

5月29日

いつもフラフラしている私だが、今日は朝から四件もの用が詰まっていて珍しく忙しかった。「生きてるー!」という感じがした。

低空飛行のまま仕事をしてはならないので、セッション等の前には「カッ!」と気合を入れて元気を出していく。この気合はかつて某国営企業で求められていた薄っぺらい気合でなく(これで免疫力を上げて風邪も、たぶん今ならコロナもかからずにいるように求められるのだが、残念ながら免疫力ってそういうもんじゃない)、「あー、いまここに絶対者ブラフマンが、ほら」と思うと眉間や頭のてっぺんやらがスーッとして風が吹き抜けるような感じがし「もうなんにも要らない」という至福感に充たされるので、これで準備完了である。

こういう状態で仕事をすると、そもそものハナシ仕事をしてるのは私じゃないよなあということがひしひしと感じられる。私というのはいわばストローのようなものであって、なにものでもない。

ストローの褒められるべき機能は中身が空っぽである点にある。変なものが詰まっていたら事故が起きるか、大騒ぎになる。

先日、数年ぶりに渋谷の東急ハンズに行ったのだが、そこで売っていたストローのあまりの賢さに衝撃を受けてしまった。このストローで自分のために絶対者ブラフマンを吸い込もうと思ったわけでなく、毎晩浄化法としてのパックをいそいそと行なうときの水分補給用にストローを求めに行ったのだが、そこで出会ったのはシリコン製でなおかつ真ん中から「パカッ!」と開いて洗うことができるという賢すぎるストローなのだった。ストローを洗うためにわざわざ専用のブラシを買う時代はもう過去になったらしい。かつて、JK剣士が稽古中に使用するストロー付き水筒(スクイズボトル)付属の曲がったストローがカビないように、米子市内をストロー専用ブラシを探して流離ったことが夢のようである。Amazonで買えばよかったのに、ねえ。


さて、しつこいが、よいストローは空っぽである。
自分が仕事を通じていったいなにをしているのか最近分からなくなってきて、今日の月1の講座で「最近なんのために自分がおるのかわからへん」と(先生のクセに)言ってみたら、ベテラン生徒のせっちゃんに叱られ「そんなこと言わんでがんばんなさい」と叱咤激励されてしまった。付き合いが長い上、交わしてきた対話が深すぎる故に、どっちがどっちかわからん状態ながらせっちゃんには感謝である。

そもそも教え教えられるというのは双方向なのであって、どっちがどっちに座っているかは「たまたま」だと思う。前回(前生?)ではせっちゃんが私のセンセイだった可能性も大。今は一応こちらがセンセイと言う態になっているから、ど真ん中の(いわゆる専門)ネタに関してはここにいる誰よりも勉強はしており、空っぽのストローを通過させる暑苦しいエネルギー量も私の方が多いのであろうが、それはそれだけのことで、だからといって大した違いではないような気がしてならない。


低空飛行だということを昨日のブログにも書いたからか、テレパシーも通じる大好きな方が気遣ってお電話を下さった。お声を聴けば即座に元気が出るのはいつもしみじみ不思議だ。実のところ昨日はアレコレ思うところがあって無駄に悩み、いつも猫が昼寝をしている中庭に面した日当たりのいい廊下でふて腐れて寝転がりながら、クマーラジーヴァの本を読んでいたのだった。天気が良いので猫は外で寝ていたのだが、私の横を通過するとき「なにやってんだか、まったく」という顔つきで通りすぎていった。

そんなグダグダした1日を過ごして未だ完全浮上はしていないのだが、人の声というものはなんと力を与えてくれるものであろうか。聴く、見る、触れる、ということが人を癒すパワーは絶大なものがある。ハグや、愛し合うことができればもっとだろう。まあでもそんな贅沢なことはなかなか甘受できないので、今日も一介のストローとなって皆さんと一緒にいろんなかたち(ポーズということではなく)のYogaをさせて頂いた。これをとてつもなく贅沢なことと思う。

吹けば飛ぶような小さなわたしがどんな気分であろうとも、わたしのなかのゆるぎないものは常にそこにいてちゃんと私に仕事をさせてくれる。
これが生きているということであり、至福ということかな。

 

そしてこれは生きているかぎりけっして奪われない至福であり、私はこの至福のなかでグダグダしている。これも、絶対者ブラフマンとけっしてわかれることのない私の惚気である。よろしゅうおあがり、ね。

 

 

 

 

 

№674 泥から生まれる

神様になって上から聴いている気持ちになれる 音量1で  伊舎堂仁

 

 

 

5月28日
今日からJK剣士はガッコウに復活である。
監督兼担任と話をさせて頂いたそうだが、なんでも今年もまたインハイは中止になる可能性があるらしい。これで「来年のためにがんばれ」なんて言えない。彼女(そしてほかの多くの選手)の剣道人生にコロナという災難が降りかかり、目指していた道は闇のなかになったということでもういいんじゃないかという気がしてきた。
そしたらJK剣士はどこに行くんだろう?ハハも一緒にどこかに行くのか?まだ確かな道は見えていない。


ハハは今日もいつも通りフラフラしていたが1年半ぶりに突然クマーラジーヴァ(鳩摩羅什)に関する本が読みたくなり、半日ずっと読書をしていた。昨日Yogaの大先輩と微妙な話をしたせいか気分は下降線、今日も先程まで超低空飛行だったのだがクマラジーヴァの人生に癒された。最後は思わず泣いてしまっていた。日本では彼に関する書籍がほとんどないのが哀しい。なんと私は1年半前までぜーんぜん知らなかった。世界史の時間にいねむりばかりしていたからだろうか。

長女ぶーちーがご縁頂いている学校が、クマーラジーヴァが漢訳した経典とのかかわりが深いとのことで現代語訳を手にとったのがそもそもの出会い。
सद्धर्मपुण्डरीक सूत्र, Saddharma Puṇḍarīka Sūtra、正しい教えである白い蓮の花の経典は、聖徳太子の時代に日本に渡ってきたという。

他の誰にもなしえなかった膨大な経典翻訳を「臭泥の中に蓮花を生じるが如し」と晩年に語っているという。「破戒」ということと向き合い、苦しんだのであろうクマーラジーヴァの生涯に心奪われる。

私は20代の後半からしばらく、わけあって自分のことが大嫌いになった。死んでもいいがなかなかやりきれないなかで生きていた。そのとき、ある場所のあるお寺の掲示板で「蓮は泥中から発し…」という言葉に出会い、泥のなかからしか生まれ出ないものがあるのだという教えに深く慰められた。私にとっては自分から生まれた二人の子供は、この美しい蓮の花そのものであり、こんな汚泥のような私から生まれ出てきてくれてありがとうと思った。以降自分のなかで、この「蓮」というものがとても重要な象徴になったのはみなさまご存じのとおり。

 

 

先程までO先生(in静岡)と一緒にポリヴェーガル理論の勉強会をしていた。Onlineってしみじみ便利で感無量である… 私が先日研究総会で勉強したことをシェアさせて頂いたのだが、「生理学的状態の調節運動であるYoga」だけどその調節は結果でしかないので、望む結果に至るためになにをどんな風にお教えするのが大事か、という話をいろんな角度から議論していた。この「いろんな角度」があまりにもいろいろすぎて、それぞれの専門分野のお仲間にこの会話を聞かれたら異端児もしくはバカ扱いされちゃうんじゃないかと思ったりする(でもどれも重要、かつ効果的な観点であることに間違いない)。

「神経受容 Neuro Ceotion」という働きを通じて私たちは周囲が安全かどうかを見極めつつ生きているわけだが、そもそもこの「受容」をきめているものはなーんだ?、ということがめちゃくちゃ大事なわけですよね。となると、ただ体操だけしたってしょうがないし、私の現在の仕事の6-8割は「お話しするだけ=ダルシャナ」で行われていることもこれで神経的には説明がつくなあ。

やっぱり世界をどうとらえるか、ここをどんなところだと思っているかに尽きると思うので、そこをなんとかしていくために、人はいろんな方法を考えてきたのだと思う。


21時10分の電車でご自宅に帰らないといけないO先生を20時45分まで引き留めて、あれこれ話を聴いて頂いた。お蔭さまで元気出てきたからこうしてブログを書いている。
ちゃんと電車乗れたかな、ちゃんとお家に帰れたかな、ご飯食べれたかな?
ありがとね!O先生!