蓮は泥中より発す

心身一如に生きるヨーガ教師の日記

№644 Happyを探すちから

見たこともないのに思い出せそうなきみの泣き顔 躑躅の道に  大森静佳


 

4月27日
数日後にまた出発なので美容院に行ってきた。行きつけの店はマスターマリコビル(スカイ米子)にあり、このビルが誕生して以来その美容院にお世話になっている。思えばマスターマリコとはご縁が深いのだった。人と人の結びつきは実に深遠だ。

マイ専属スタイリスト・M本さんのお姉さんは剣道の猛者だった。JK剣士も幼少時からこの方にカットしてもらっているが、きっかけは剣道とは関係ない。とにかくこの二人はウマが合うようだ。昨年から公式戦がサッパリなのでカット回数が激減しているが、通常であれば公式戦や遠征のたびにここで気合を入れてもらっている。トップシーズンなどは「え、また行くの?」という感じで、いつかハゲになっちゃうんじゃないかと心配した。

これから向かう”場”に対する意気込みがM本さんとJK剣士のあいだで共有された結果として、そういうセメセメの髪型になっちゃったわけね…というヘアスタイルがなかなか見られないのは寂しいものである。全中のときなんてほとんど刈りあがってた。防具つけたら見えなくなるとはいえ。


実のところ(話に聞くところによると)M本さんもかつてマスターマリコを頼って?渡米なさったとのこと。マスターマリコがいなければこの店もないですよ、と仰る。そして時を経て今JK剣士がお世話になり、いつかきっと私も行くことになるだろう。そう遠くない将来。マスターマリコ、ほんとにすごいよな。オープンハートで。

いつでもオープンなドアをどんどんと叩いて「たのもー!」と入っていけるひとって、実はあんまりいない。Yogaでは色んな名言があるんだけど(いま、Yogaネタはべつにいいんだけどなーと思ったひと、我慢して聴いてください)これは名言だよ?

「至人は心を鏡のようにつかう」

すごくないですか?素晴らしいよね、実に。
鏡のように、という表現はよく聞くところだけどこの解釈が難しいんだよね。下手すると「こんな目に遭うのは私が悪いってか?!」みたいな罪悪感モリモリの捉えになるから。

だからこの言葉をよく理解するためには、世界を客観的に見る視点や、ものごとを二極に分けて見ない「ジャッジしない」姿勢が必要になる。もしかしてちょっと難しいですか?ここのところは私のレッスンを受けた方には「うんうん」と思ってもらえるところなので、それ以外の方は遠慮なくスルーしてください。

ああ、こういうものが写った。
ただそれだけでよくて、写るものを変えたいのならば厳に自分のアタマの中身を見つめていなくてはならない。

今日初めて髪を洗ってくれた新人の方が実に聞き上手で、めったにM本さん以外と口を利かない森の子リス的シャイガールの私が、「日記を使った内省はすごく大事なんだよ」などということを初対面の人に語っていた。自分にちょっと驚いた。自分が生きる世界(左象限)が少しずつ変わりつつある。

 

 

こんな私もたまにはSMAP(なつかしの)を聴くことがあるのだが、彼らの曲は色んな意味の“財”がふんだんに投入されているよね。私にとっては特に”コトバ“というものがとても重要な意味を持つので、歌詞を大事に聴いている。

20代そこそこのときは、毎朝「がんばりましょう」を絶叫(絶唱ですらない)しながら出勤していた。だって毎日つらかったんだもん。「どんなときもくじけずに、かっこわるい朝もがんばりましょう」って、若さには大事な感覚だなと思う。

今は多少大人(暦年齢でなくて中身のはなし)になっているから、もう少し違うものにフックが掛かる。クリスマスソングの「『ホントは愛してる』と 言えなくても よりそえば愛の灯がともる」というのもいい。でも「Happy Train」これがとにかくいい。

ここ最近、からまわって愚痴ふえてまずい。こんなときには僕のあのおまじないを、
とはじまるこの曲は、疲れて帰る電車のなかでHappyを探すというもの。

世界をどんな風に見るかの恐ろしいほどの自由を、私たちは担っている。この見方がどのように決まってしまうかは非常に繊細なはなしなので、信頼できる誰かと手をとり合って取り組むのがいい。そこにあったドアを勇気をもって開け、愛情あふれる誰かの胸に飛び込めたとき、世界がこんなに美しいところだったと初めて気付くだろう。


次の駅までに あの人を好きになろう

苦手だけど どっかしらネ いいところがあるから

また次の駅まで 今度はあの人のこと

気がつけば心が ほら軽いよ

 

 

 

№643 好きにさせよう

春芽吹く樹林の枝々くぐりゆきわれは愛する言い訳をせず   中城ふみ子

 

 

 

4月26日

先日こちらに乗せたエイリアンのごときトロピカルフィッシュが何者であるかが判明した。大阪南部に住むお屋形様から「それはイラブチャーであろう」と天の声が届き、JK剣士からも「鯛の仲間」という解説がきた。フッと意識が24歳頃の那覇・公設市場に飛ぶ…そういえば魚屋さんの氷の上にあげな感じの魚がぎょうさんおった気がする。

あの時私は、那覇基地第83航空隊に現地訓練に行っていた。国産輸送機C-1に乗って、よく覚えてないけど小牧(愛知)―防府(山口)―芦屋(福岡)-新田原(宮崎)―那覇、と移動した気がする。それは空を飛ぶバスみたいなもので、各駅停車なのである。民間の飛行機とは違い「うるさい・寒い・荷物は全部自分で運ぶ・トイレ使えない」という条件のもとに運ばれてゆく私。
そしてたぶん民間航空会社なら運行取りやめの天候でも飛ぶ。そりゃそうだよね。一度、防府(山口)~小牧(愛知)ですごく、ほんとうにすごく揺れて、乗り物酔いとは無縁の私も吐きそうになった。しかもその日、朝からまったく何も食べていなかった(前日飲み過ぎた)。一緒に搭乗したセンパイはすべて男性。「これに吐け!」といってナイロン袋を手渡してくれるが、センパイ(男性)が飲み過ぎて吐く世話はしても自分が介抱されるのはゼッタイにイヤ。なので必死に堪え抜き、小牧にランディングしたら吐き気が収まった。我ながらすごいと思う。ちなみに今も、民間航空機に搭乗しどんなに揺れても余裕のよっちゃんである。そもそも危なかったら離陸してないさー。そんなリスクは侵さないからビビる必要ないよ。

あーまた余談に走っちゃったよ…そう、公設市場にいたあの青い魚はイラブチャーだったのであろう。そしてJK剣士が三枚におろしたのもイラブチャー英語圏ではなんと呼ばれているのか?)で、きっと刺身で食べたんだろうというハナシでした。それだけ…

 

 

JK剣士の帰国日をいつにするか?

という熱い議論のようなものが本日展開されていたのだが、おりしもJK剣士はマスターマリコに連れられてハリウッド観光中。送られてきた写真はあの、例の、私ですら知ってるハリウッドスターの手形足型の刻み込まれた道の写真であるが、さすが躾の行き届いたJK剣士はずばりニコラス・ケイジのものをハハに送信してきた。「キャー!ニコ―!」とひとりで大騒ぎである。よかった。渡米させてほんとによかった…。

ニコの手形足型に比べれば些末なハナシではあるが、いつ帰って来るのか、どの便にするのかというのは一応ちゃんと考えないといけない問題である。なぜかというと、留年ギリギリの日程で組んであるから。天の采配により学校に感染者が出て予想外の臨時休校となり猶予は生まれたが、それもわずかなこと。来年留年しちゃったら二回目の二年生として試合なんて出れないし、スポーツ奨学生としてこの学校を選んだのにいったいなにやってんの?ということで、きっとJK剣士はJKをやめちゃうだろう。ハハとしてはJK剣士がJKどころか剣士ですらなくなってもともとのH(本名)のままでいっこうに構わんし、思うようにせいと考えてはいるが、そこまでして「今」この滞在を延ばすことがそんなに大事とも思えん。ハハはアホだけれども「ん?なんか違う」という感性には忠実だから。

なので留年はしない日程で帰り、インハイ予選の場には居ることにするということで決めた。帰国してその後どうしても「やめます」ということになっても、それはそれでよかろうと思う。先のことを今考えてもムダだからそもそも考えなくていい。ただ、渡米の経験をしたその瞳でもって、以前いた場に立って、改めて見て思うことをしてみなければ。

しかしハハは今回思ったことがある。ズバリ、「やっぱ好きにさせよう」。
長女ぶーちーにもJK剣士にも、である。だって自分がこんな感じで毎日毎日フラフラ~としているのに、子供たちにだけああだこうだ口を出す資格などそもそも私にはないのだから。

 

 

今日は朝から不思議な感覚が起きている。頭がおかしくなったと(いや、まえからおかしいけど)ご心配をおかけしたらいけないので詳細は書かないが、あまりにもビックリしたのでマスターマリコにはご相談した。そうすると即座にかくかくしかじかのことであろうというご回答があったので、なるほどーと思っているところである。
Yogaをまなぶなかでなんどかこのように「噂には聞いていたが」という体験を実際にさせてもらった。こういう経験をすると、人間存在というのは実にシンプルだなあと感動する。

ちなみに今日のレッスンで「腰って痛かったけど治るよねぇ」というハナシが、腰痛を治しちゃった人たちの会話として展開されていたが、毎回バカ話しかせず笑い過ぎてハラがよじれるこの公民館教室で「やっぱカラダが痛いのはアタマからきとるんだわ」という発言を聴くと魂消るのである。ええと、いったい私は、あなた方になにを教えさせてもらったでしょうか?と思ってしまうのだが、ハッキリ言って私は何もしておらず、これこそ絶対者のお仕事であったという、そういうことなんだろうね。

すべて真理につながるようになっているのかもしれない。
ただ個体により時間差はある。
それだけのことなんじゃないかと。

 

 

 

 

№642 すごく寂しい

過ぎゆきてふたたびかえらざるものを、なのはなばたけ なのはなの はな  村木道彦

 

 

 

4月25日

昨日は愛するオタク(敬称略)とランチセッションだった。このオタクはそもそも私の弟分(茶道)なんだけれども、弟っていうかときどきハハのような気持になるときがある。なのでよく叱ったりしている(そんなにたくさん食べるんじゃありません!)。
先日「4㎏体重が増えた」と聞かされたときは、目の前が真っ暗になってへなへなと倒れ込みそうになった。ダイエットしたいといいながら、アドバイスはさっぱり聴いてくれない。気分的には長女ぶーちー、JK剣士、その下にいる弟って感じだが年はけっこう上です。

須山先生の茶陶を拝見し終えたオタクと近所の今井書店で合流。珍しくジャケットにネクタイなんてしてるからビックリして、思わずハラ(前方に力強くせり出している)をたたいて「カッコいいなあ!」と声をかける。こういう行動は時と場合によってはセクハラに認定されるかもしれないがここでは問題ない。姉弟愛だから。お道具拝見のためにちゃんとした服装をしてきたというオタク。さすが茶人。私とは違う。

そしてランチのため萬龍軒へ。道すがらずっと先生の作品のはなし。お茶は好みがだいじで、それぞれの「好き」で空間を創り上げたり熱く語ったりする、そういうマニアックな対話である。あの茶碗がどうとか、僕の好きだったのはとか、あの桜の建水はどんな棚に合わせるか?とか、月の茶碗は夜咄にいいへんかなどと対話しながら席に着き、それぞれニラ炒め定食と酢豚定食を注文したあと突然「お、今日はバッチリメイクですね」って、今、初めて顔見たんかい?!

萬龍軒ランチの白ご飯を半分食べてもらうことにして(いつもならJK剣士の役割)、飯田橋の回鍋肉や神楽坂・五十番のネタで盛り上がる。ちなみにこれはランチセッションで、ちゃんと仕事です。
先日M社長が韓国料理店のお母さん(女将)にわたしのことをご紹介して下さったのだが、どんなYogaなのかという問いかけに「ほら、はなししたりさあ」という甚だ意味不明な感じで困惑の空気が流れた…正にそのとおりなのでお気の毒である。っていうか、私もうまく説明できん。なので自分の営業は捨てて、人様のエイギョウ活動ばかりしている。

さてお腹いっぱいになったら今井書店内のカフェに場所を移してデザートを頂く。ランチからはしごしてカフェに行くのもオタク・セッションのお約束である。でも今日はなかなか大事な、節目のセッションだった。

数か月前、悩みに悩んで「〇〇(←苗字)動きます」という決意を発したオタク。いよいよその決意が現実になる日がやってくる。たくさんの生徒さんの転機や節目の場面を見せてもらってきて、その都度とても感動する。この節目を迎えるために絶対者が私たち二人にYoga(ほぼダルシャナだけ)をさせたんじゃないかと思ったりする。


今日は月一の講座日だったが、今日の大事な学びは「思うことの精妙で強い力」をどう制御するかというものだった。無駄で役に立たない思考なら思考停止の方がなんぼか安全である。
人間の過去の記憶は感情となって肉体に宿る。とある出来事がトリガーとなって瞬間的に自分のなかに湧きあがる感情を客観視しつつ、その強大な力を抱き止めてジタバタせずにただそこにいるには体力と精神力がいる。そのためにはどうしても心身を調えることが必要。Yogaってうまくできとるやん、としみじみ思う。

 

外部からどーん!とぶつかってくる事象にも、こけずに踏みとどまって「痛いなあ」「ちょっと辛いわあ」と思いつつも、関わる人に意識を向けるのではなくただ内面に目を向けてそこにいる。物事が鎮まっていくのをじっと待つこと。これがとても大事だと感じている今日。

しかし時折フッとさみしくなる。そして私は今猛烈に寂しい。
なぜこうも寂しくなるものだろうか。わたしたちはつねに一緒にいていちどもわかれたことなどないから、寂しいはずがないのだと思い出したときの大きな喜びを感じたくて、こうして時折寂しくなるのだろうか?

それとも存在するということが、そもそも寂しいのだろうか?

 

 そう、そして、昨日は月命日だった。半年が経った。

 

 

 

№641 生きる力を増やそう

あなたとは遠くの場所を指す言葉ゆうぐれ赤い鳥居を渡る  松村正直

 

 

 

4月24日
昨晩は飲み過ぎた…。
M社長と差し向かいで参鶏湯を頂きながら、泡から赤ワインへと順調にビンは空になっていった挙句、Marujinにまで参戦してしまった。いくらなんでも飲み過ぎだって。飲み過ぎの証拠に「マスター、何か甘いものを、ロングで」という超弱気オーダーをしてしまった。でもさすがに今回はカルーアミルクは踏みとどまった。前回相当恥ずかしかったからね…

M社長といい某所のあの方といい、くいしんぼうの社長にまともにぶつかって行ったら気もカラダも弱い私は大変なことになってしまう。案の定昨晩(朝?)も4時まで床に転がっていたし、酔ってアイスを食べたみたいだし(夢の彼方の記憶なれど、テーブルにチョコがこびりついてた)、酔ってアイスを食べながら送ったメッセージの内容を朝7時に思い出せなくて焦った。とんでもない間抜けなメッセージを送っていたらどうしようとかガラにもなく思ったが、まあたとえそうであってもだいじょうぶなはずだ!

 

しかしこれだけ飲んでも絶好調。別に頭も痛くないし、プラーナーヤーマをしてシャワーを浴びて、大量のはちみつレモンを飲めば後はふつうどおりである。アルコールは鼻の穴と毛穴と尿から出ていくんだよ? 近頃、心身の調子がいい。しみじみ思う。

自分がお酒に弱いと思ったことはこの年になるまでついぞなかったのだが、最近よくご一緒するお二方にはとてもじゃないが敵わない。いったいどんな肝臓してるの。いったいどんな酵素出してるの。それって社長にしか出ない酵素なの?いいなあ社長って。
しかもこの方々との対話って、たまらなく楽しい。やっぱり肚が坐ってらっしゃるからかしら。そしてまた飲み過ぎて、〆チョコか〆アイスまで食べちゃって正体もなく眠りに落ちてしまう。懲りずに「またやろう」となって…エンドレス。

7月にマスターマリコが帰国されると聞いた。マスターマリコも社長である。M社長と三人で飲んで、私はマスターマリコビル(SKY米子)で気を失うっていうことになるんだろうな。飲めば飲むほどエネルギー的にはバカになるらしいから(バーバラ・ブレナンさんが言っておられました)、一歩ずつバカボンのパパに近付いて行っているんだと思っていよう。こんな酒飲みは優れたヒーラーとかにはなれないらしいが、たぶんそれは私の路線とはズレてる。我が人生に悔いなし。これでいいんじゃい、うん。

 

 

さて昨日、渡米以来初となるLINEによる長々としたやりとりがJK剣士との間に交わされた。感想を一言で述べると「なんとまあ、成長したなあ」、更にもう一つ付け加えると「マスターマリコの教育はすごい」、そしてありがたい。行かせてほんとによかった。

アメリカは住みやすいと言い、山陰にいるときの閉塞感を感じずに済んでいるようだ。「ママも来たらいい」と言う。理由は「マリコさんやママのような人が東京よりもいっぱいいるんだよ」と。これはあれよね、絶対にほめてくれてるのよね?ありがとう、JK剣士。でもママは自称森の子リスだからね?

自分で稼いで使う感覚を、マスターマリコはJK剣士に養わせようとしているらしい。渡米まで「欲しい、行きたい、やりたい……お金ちょうだい」だったのが、言うことが完全に変化した。具体的にここに書くことはしないが、彼女が自分のまえに立ち込めていると思っていた(思い込んでいた)暗雲が無いことに気付いたのだろうか。

生まれてこの方不幸だったことなんて一度もない、という。なになに、Veda聖典智慧を米国西海岸で体得しちゃったのか。でもそれはホントのことだから。
自分で作った妄想が、自分を救えるように生きよう。自分に力を与えてくれて、人と自分を同じように大事にできる妄想を採用しよう。

JK剣士はいつ帰って来るのか、留年なのか退学なのか、それともインハイ予選に出場するのか。もうハハはどの路線でもかまわない。いつも言うように、生きていてくれるだけでじゅうぶん。愛してるよ、大好きだよ。ぶーちーと同じように、ふたりともハハの宝物だよ。

 

 

大人のみなさんは、加齢がみじめで寂しいもんだっていう妄想も採用しないように。
「歳だから」っていうわかりやすい表現でなく、なんとはなしに加齢に暗い影が差しているような思い込みが言葉の端々に匂う人がたくさんいるけど、それいらんやつですよ。
先日の鍼灸治療でなぜかバイアグラの話になってさ、センセイが「飲むだけじゃなくて治療しないと治るわけないよね」っていう。「えー!やっぱりそれって治るんだ?!」と聞き返すと「治ります」って断言なさったよ。

だって精力減退ってイコール生きる力の低下だから、YogaでいうところのPranaが不足してること、漢方でいうと人の生命力を司る腎という働きがうまくいってないことに起因する症状に過ぎないから、元の腎の働きを本来の状態に戻せばいいんだからさ、っていうことだった。ちなみにこの腎の働きは、西洋医学的な「腎臓の働き」なんて言う狭い了見のはなしじゃないですからね。そこに腎臓の狭義の機能も含まれるけれど、それを含んで超えている生命の働きのことですからね。


人間の健康も病気もどこか一部分ってことはない。存在の一部だけが病むことはない。全部まとめて健やかな私のどこかがすこし不調和を起こしたりすることがあるのが、生きるということ。過去の記憶や無意識に保持している信念から精査して、心の健やかさを獲得し、生きるということを満喫していきたい。

せっかくここにきたんだから、ね。

 

№640 魚なのか?

ふかぶかとあげひばり容れ淡青の空は暗きまでの光の器  高野公彦

 

 

 

4月23日
本日は新しくVITA信者になるFさんをお連れして本社に出社。門脇師匠がお水を出してくださりながら、なんともおかしなことを仰る。

「うちは二杯目無料じゃないんですけど、いいっすか」
って、いったいなにごとですの?!

一先ずお約束のイルガチェフ、初心者のFさんはブラジルを頂きつつその意味不明なご発言の真意を伺う。なんと数日前に来店した推定70代後半の男性が「ここは二杯目は無料か?」と問うので「いいえ」と返すと、そこからその方が怒りだして大変な騒ぎになったそうだ。が、さすが門脇師匠はおもしろがってその方を煽りまくったそうである。師匠ったら、まあ…。

アメリカに5年間いたがコーヒーのお代わりは無料だったぞとか、俺は銀行に勤めていてエラかったんだぞとか、俺はアメリカンが好きなんだとか言っていたそうだが、ここにもしうちのリーダー(大企業のエラそうにしてる人が大嫌い)がいたらさぞや面白かっただろうなーと思って伺っていた。

その「昔」はきっとアメリカにスタバもなかった頃で、アメリカにはアメリカンコーヒーがないことはご存じないんだろう。ギンコーでエラかったからってそれがなんやねん、ということを師匠や奥さまとお話した。いやあ、どのお店にもヘンテコリンな人はおいでになるんだろうけれど、とんだ災難でございました。
そんなこんなで懲り懲りなさったこともあったのか、残念ながらGWはお休みなさるとのこと。まあ、私も山陰にいないし、当分困らないよう豆もどっさり買い込んだ。東京(ぶーちー)にも発送したし親子共々コーヒー難民になることはない。我々はだいじょうぶですから、ご安心なさってゆっくりお休みください!



さて、久々にJK剣士に関するニュースをお届けしよう。
各地のJK剣士ファンの皆様、きっとご心配、いやご立腹だったかもしれません。
「お前のハナシはもういいからJK剣士ネタを出せ!」と思っておられたことでしょう。でもだって(イイワケ)むこうからなんの便りもないからネタがなかったんだもん。

先日、京橋で謎の美女と南インド料理を食べたとき、近頃評判で入手困難なお菓子(AUDREYのスイーツ!)をゲットできたからと頂戴してしまったのだが、その際「JK剣士が帰って来るまで持つから、一緒に食べてね」とのお言葉があり、JK剣士の影響力大なることを知ってハハは魂消たのであった。やるな、JK剣士め…

さて、めっちゃキモイ写真がマスターマリコから送られてきた。これは魚?いやもしかするとエイリアン。トロピカルと表現したくはない青々したお頭が、シンクにひっくり返ってこちらを見ている。夢に出てきそう。それを三枚におろす寝ぐせだらけのJK剣士。魚のキモさにも驚くが、三枚おろしなんてことをやっているJK剣士にビックリ。家ではそんなこと絶対にせんやろ。まあそもそもおろさないかんような魚を買ってこんけれども。剣士なのだから、魚ぐらいおろせても当然である。うむ。

それでこの魚であろうものはいったいその後どうなったのだろうか?
刺身?フライ?宇宙との交信?


そして今朝は「スケートボード始めたい」というLINEが本人から来た。マスターマリコのおうちにあったもので遊んでみたらすごく楽しかったそうだ。とにかく身体能力の高いJK剣士。思わずハハは宙を舞っているJK剣士を妄想して「やるな!」と思い、それを「おおー!」と表現して返したら「どういう反応?」と冷たく返され、ちゃんと解説してもあっさりスルーされた。思春期真っ盛りのJKとのコミュニケーションは実に難しい。ハハのネホリハホリ聞き出す能力をもってしても、JK剣士とのやり取りは困難を極める。ハハの修行は続く…?いや、まあずっとこんな感じでいいや。

 

 

最近シャドウについて改めて考えてみている。光があれば影があって、自然に生じるその影は悪いものではないし、たぶんこの世に悪いものなどない。ある角度から見ると二極にわかれて見える気がするだけのこと。
すべてのものに対してと同じように、ただそれがそうであるようにしておければいいのだと思う。物語を妄想でつくりあげて話をでっちあげ、自分があたかも不幸であるかのように勘違いすることをせず、ただいつもすべてを静かに見ている視点を失わずにいること。

こんな影が自分のなかにまだ残っていたとは、と驚きつつ気付く瞬間もあり、それにおつきあいをさせてしまった方にはとても申し訳ないと思うけれど、きっとずっと以前から、その方と一緒にこの影を見つめると決めてきたのかもしれない。だから誰かに迷惑をかけたり寄りかからせてもらうじぶんのことも、責めずにいたい。一緒にわたしの影を見てくれてほんとうにありがとうと、その方に申し上げてそっと、そのあたたかい手を握りしめていたい。

 

 

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魚じゃないかもしれない。

 

№639 時間の不思議

寒天の闇わたりきてすれ違うたましひの芯光り合うまで  竹山広

 

 

 

4月22日
アサイチで柔道整復のセンセイ(Raja Yogaの大先輩)のところへ伺う。月に数度のメンテナンスだが行けば何かしら見つかる。今回は首がヘンだったのでひさびさにグキっと直された。このままひと月置くのは不安なので、来週もういちど施術を受けてから上京することに。

東京を出てから1週間が経つが、心優しいというか豪気な女子二人がお声がけ下さったので、明日は朝晩それぞれ別の方とデートの予定。おひるまには門脇師匠のところへFさんをお連れする。初CAFFE VITAなので洗脳、もとい布教活動である。いや、どっちもヤバいか。夜はM社長とワイン×参鶏湯。土曜の朝にはぷりっぷりのお肌になっているはずなのだが、オンラインセッションでもしかしてもしかすると「あれ、センセイ?いつにもましておきれいですね?」みたいなことには…ならないだろうかね。


さてさて昨日のことについて。
昨日は米子のナンチャッテ高島屋に出向いてきた。富山にアトリエを構えておられる須山昇華先生の茶陶展が3年ぶりに開催され、初日の昨日は先生にご挨拶に上がってきた。
お変わりなくお健やかな姿を拝し安心した。昨年大切な方をお亡くしになったのは私とおなじなので、こころよりお悔やみを申し上げた。高島屋が先生の単独の展示会を企画した最初のときから、お茶の師匠をはじめとして社中の多くの方が須山先生の作品の虜になった。

女性作家さんらしい柔らかく美しい作品には、金やプラチナが素材としてふんだんに用いられた繊細な美しさ。初めての展示会以来、波をモチーフにした作品が私のお気に入りで、この度も「月」そして「波と光」と題されたお茶碗でこれまでとは違った風情の波の姿を描いて見せてくださった。「どうぞお手にとって」と寛大なお声掛けを賜ったので遠慮なく手にとらせて頂き、掌で茶碗を包み込んで対話をするような気持ちで拝見した。

3年前と違うのは、マスターマリコのお蔭様で「氣」を感じられるようになったことだよね。エラそうな表現かもしれないが、先生の作品と掌を通じてお話させて頂いたような気持ちになった。お茶碗はしっかり手に包み込んで用いるお道具。こうして掌に抱いてみなければわからないことがたくさんあるような気がする。先生直々のご説明も頂き、実に贅沢な時間を過ごさせて頂いた。

他にはこの季節に合わせてか、桜をモチーフにした作品が多く出品されていた。枝垂れ桜を描いた建水と棗、澄みわたる青空のような青い地に桜花の舞う香合など魅力的な作品ばかり。
感染症対策のため、先生は初日から2日間しかおいでになれないとのことだったが、今週末には愛するオタク(お茶仲間)と一緒にもういちどこれらの作品を愛でに上がろうと思っている。

いやー、今こんな感じでぜんぜんお稽古ができてないけど(私がたびたび上京しているから鳥取ではビョウゲンキンみたいな者なので)、お茶を勉強してきてほんとによかったな。狂うほど好きな道具をお作りになる若い先生と、同じ時代を生きられてしあわせだなあ。好みの道具に出会えてうれしい。好きなお道具で大好きなひとに、お茶を差し上げられたらいい。こんなご時世だけど、その”とき”を心待ちにしてる。



ところで先日某所である方に「腕時計しないの?」とのお尋ねがあった。その方に時間を伺った直後のこと。その際には「あー確かに。ほんまやなあ」と思ったので、私の愛用の腕時計は文字盤が真っ赤なので、その日着ていた青い服には合わないからと申し上げたのだが… あとからつらつら考えるに最近ぜんぜん腕時計をしてない。更に言うと目覚まし時計もまずもって使わない。なんでやろなーと思っていたら、昨晩の洋平センセイとの読書会で「時間の概念変わってくるよね」とのお話があり「それやー!」と思った。

私はなにも自分が第二層(*インテグラル理論用語)にあるんちゃうか、などという大それた話をしているわけではありません。ただここ数年、時間との向き合い方がすっかり変わってしまっている。

先程の腕時計問題に関して言うと、はめるのは岡山駅でやくもに乗りかえるときくらい。レッスンをしていても時計はほとんど見ない。「だいたい今これくらいやろ」と思うとだいたいそうだから。朝も勝手に目が覚めるし「お、もう出かけなあかんのやない?」と思ったらちょうどいい頃合いだったりするから。こういうのをハラ時計っていうのであろうか。

時間って伸び縮みするでしょ?
これは瞑想をやっている方には肚落ちする感覚よね?

大好きな方とご一緒する時間は永遠。ほんとに。
昨日も須山先生を貸切にして語った時間は永遠のように長かったけど、たぶん誰にも迷惑かけてないし、計測できる時間的にはそんなに経ってなかった。今この一瞬こそが永遠で、あなたとわたしは二人で永遠に生きられる。そこにたぶん時計は必要なくて、うっかり時間を過ごしてしまったとしてそれもまたも絶対者のいたずらで、きっと必要なことだったんだと思える。

そもそも時間ってないらしいじゃないですか。私たちが思い込んでる過去~現在~未来っていう一方向に向かって流れる時間なんてないらしいよ。それは妄想なんだ。
二年前に母がなくなったときそんな本を読んでいた。母が逝ったと聞いた瞬間、過去に遡ってなにかが間違いなく浄化された。そしてまだ出会って何年にもならない方との関係性にも、今だけでないなにかがあるような気がしたりする。

私は今ここでこうしていながら、すべての時間を生きている。でも私がしあわせになるのは今この瞬間しかない。そして今この瞬間、私はあなたのことを疑いなく愛していて、とてもしあわせだ。今この瞬間しあわせだということは、たぶん未来永劫私たちはしあわせだろう。なぜなら私がそうするとこころに決めているから。

なにがあっても、あなたのことを大事に慈しむと決めているから。
いつどこにいても、どんなときにも。

 

  

 

時間は存在しない

時間は存在しない

 

 

№638 ふたり一緒に

映すものの意味もわからずいつの日か蒸発してゆくすべての水たまり   井辻朱美

 

 

 

4月21日
早暁目が覚めて水を飲みに立つと、我が家の飼い猫ういろが窓外から「あけておくれ」とせがむ。寝室に戻るとあとをついてきたがなにやら様子がおかしい。なんとまあびしょ濡れである。いったいなにがあったかしれないが、ともあれ濡れた被毛を拭いてやった。
ういろはエアコンの風が当たるところに座って自分の毛並みをひとしきり舐めたあと、本を読んでいた私のもとへ寄ってきたので準備していたバスタオル(猫用)に包んで抱いてやった。そしてそのまま二人で二度寝してしまった。目覚めたときには濡れた感覚も和らいでいたのか、つい、と立ってふとんの足元で寝そべり直した。ハハウエありがとう存じました、とでも言えば可愛いものをねえ。


さて昨日TVドラマ「和宮様御留」1991年版(斉藤由貴バージョン)も発見してしまい、早速視聴。高校生の時に見て衝撃を受け、そのまま有吉佐和子作品を読みふけるきっかけとなった作品だが、当時はまだ原作も読んではいなかったのでこんなに作り変えられているとは思ってもみなかった。久しぶりに会った昔の恋人は、かつての自分のバカさ加減を証明するような人だった気分である。えー、こんなひとだったの、夢中になってた私っていったいなんだったの…。

この衝撃度大な作品が、男女の恋愛ものにされちゃってるところがまずもってなんだかなあ。フキは身よりもない孤児だからこそ身代わりに抜擢されたんであって、こんなラブラブな恋人いたらムリに決まってるっしょ。勧行院さんもそこまで愚か者じゃあらしゃりまへんで。

1881年大竹しのぶバージョンが「おお!」と感心するくらい原作に忠実であったので、尚更ガッカリ気分。しかもこの古いバージョンにおける御所コトバがすごい。見ていると言葉が乗り移ってきて、だれかとお話したとき「御すこやかにあらしゃってごきげんようおめでとう」とか言いたくなっちゃう。今日からハハのことは「おたあさま」とお呼びなされってJK剣士に言ったら、完全にムシされるだろうな。

今日はいくつか用を済ませに外出した。私も籠ってばかりではないのだよ。でもこのことについては明日ゆっくり書くことにしよう。
そして夜は久々に洋平先生にお目にかかった(Zoomで)。

このBlogは洋平センセイ(inフローニンゲン)への狼煙の役割があるので、忘れないうちに思ったことを書いておきたい。ほんとうは直接お聴きしたかったが、夢でお返事頂ければと思います。

1.Raja Yogaの世界において「不幸と病気は偉大なる教師である」という言葉があります。
このふたつを通じた成長のことをPTG(Posttraumatic Growth:心的外傷後成長)というのだと理解していますが、これは相当に過酷な学びであり成長であると思います。
「発達必ずしも善ならず」ということを先生方は常に言ってくださいますが、インテグラル理論が普及しつつあるなかでそのことへの理解は不足しているように感じます。私自身はしんどい目に遭うのは今も昔も避けて通りたいタイプですが、ただ自分が今体験していることをジャッジせず、すべてを恩寵として味わう強さを身に付けたいものです。

2.何年にもわたり、洋平先生の下で断続的に学びを続けさせて頂いていることに深く感謝申し上げます。最近の自分は「A Course in Miracles」と「正法眼蔵」とVeda聖典に記載されている異なった表現が、あたまのなかでは繋がって同じ意味を帯びて理解できるように思い、同時にそこで得られた気付きが自分自身をより開放に導いてくれているように感じます。このことはたぶん(きっと)、先生の下でさせて頂いてきた学びの恩恵なのであろうと思います。
エリオット・ジャックスの時間の概念は重要な示唆であり、資料を探して読んでみようと思います。


同行二人(真言宗の教えで、常にお大師様がご一緒して下さっていることを示すことば)。絶対者とともに歩む道は様々なことがあるけれども、小さなわたしの狭い視野で物事を決めつけないように、他者のなかに生きるわたしそのものを助け生かすために、この命を使えますように。

ひとりじゃなかった!と度々思い出しながら、道を歩むことができますように。
経験を回避するのではなく、乗り越える智慧と勇気をお与えください。