蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№534 曖昧さに耐えて

衛星になろう あなたに堕ちないでいられる距離をやっとみつけた  田中ましろ
 
 
 

1月6日

明日から寒波が来るからと、しっかり者の長女に「買い出しに行くべし」と命じられた。私は日用品の買い物が大嫌い。成城石井でビールやチョコレートを選ぶくらいならともかく、家族の用を満たすものをあちらこちらと買いまわることは甚だ面倒である。しかもJK剣士のような育ちざかり・食べ盛りの人の食材を含んだ買い物は、量が多くて重い。

コロナのせいで人生で初めてこんなに暇な冬休み(幼児の頃から稽古をしているので、お正月は行事で満載だった)をだらだら過ごしているJK剣士を強制連行して、食料品、日用品、そして何より大事な暖房用燃料を買いに出た。ママはからだも気も弱いから、灯油缶とか持てないのよ。

 

スーパーマーケットの駐車場には年末年始に降った雪を積んだ雪山があり、はるかに望む霊峰大山の上には「そろそろまた降らせちゃうよ?」と言わんばかりに厚い雲がかかっている。JK剣士はその雪山をわざわざ乗り越えようとして「回り道はしないタイプなんだよね」と言っていた。いったい誰に似たのだろうか。

予報では木曜から月曜まで降り続けるようだから、その間できれば外に出たくないなあ。以前、雪の多い地域に住んでいるときには「雪くらいなんだ」という感じだったが、下界におりてからどんどん雪に対する姿勢が怠惰になってきている。
避寒のため冬だけ静岡に移住したいくらい。それで山菜が食べられるようになってきたら帰るとか、いいなあ。

 

 

今日は三絃の「ひとり稽古始」をした(遅い)。
東京から戻って以来雑事でバタバタしていたのだが、今日ふとそろそろ弾いておかないと、と思った。
理由は、買い物帰りに高島屋(米子にも一応ある)に寄ったから。JK剣士の希望でオーブントースターを衝動買いしたとき、「飛躍」という演奏会で好まれる華やかな箏二重奏の曲が流れていたのだった。当然私も何度か弾いたことがある。替手、という伴奏パートがけっこう難しい。
ああ「飛躍」か…やばい楽器弾いてなかった…、という連想が生じたので帰宅し早速稽古した。「御代の祝い」と「越後獅子」。

春風に 野辺の草木も萌え出でて 
めでたき今日の陽の光 
鳥は歌ひて 花は舞ふ…       (御代の祝い)

本年の空気感も、自分自身の心理的にも一向に目出度くはないが、箏歌くらい目出度くてもいい。
師匠の下での初稽古は週末である。これは雪だろうが槍だろうが何が降っても行く。今年もがんばらねば。コツコツ、一歩一歩ね。

 

昨年の夏以来、ぼんやり度が増していた。
でも同時に、わたしのなかでの「一者」の存在感が増してきたような気がする。

昨晩は新年初の鍼灸治療だったのだが、年末年始に長く出かけていたにもかかわらず心身共に絶好調である。年末に請求書を2件出し忘れていて「しまったああ!!」という事態に陥ったものの、これも「だからなんやねん」と言う心持ちである。何とかなるんだって、焦んなかったら。
以前(2年くらい前)はこういうことがあると、朝方「カッ!」と覚醒して心拍数と血圧がバクバク上がるのを「うわー、上がっとるわ」と見て(感じて?)いたものだが、今年は上がりもしない。年末に少々心労を覚えることがあり、就寝時に胸痛で目覚めることがあったが、これも「一時的、心理的なもの」とのことでなんくるナイのサー。

 

 

生きていて苦しいことや悲しいことがないとは言わない。そんなことは絶対にない。
私にも粗雑体としての肉体があり、鮮やかに動き羽ばたく心がある。

バレンタインデーの広告を見ると、毎年いの一番に「こだわりのひと」おにいちゃんのチョコレート選定に入って、ああでもないねこうでもないねと子供たちと相談し合っていたことを思う。しみじみ、じわじわと哀しい。友達を喪うということはこんなにも寂しいものなのか。

先日、“新年バーMARUJIN初め”で「新年に相応しいガツン!とくるショートをお願いします」とオーダーしたら、「これしかないでしょう」といってお兄ちゃんが大好きだったマンハッタンを出してくれて、誰も何も言わずそのことに触れないのに、その場でお兄ちゃんを知っている三人のあいだに温かいものが共有されたことも確かなのだった。
同席していた常連のH先生が、がん細胞が挟まったプレパラートを見せてくれたのも、おにいちゃんが天から采配した洒落だったのかもしれない。

世界でたった一人のママ友が近所に越してくることになって、これでまた一緒にバーに行く仲間が増えた。なぜ引っ越してくることになったかその理由はわからないけれど、人生は悲喜こもごも、あざなえる縄の如しだから、どんなことがあっても「そうかー」といってそこにじっとしているしかない。

 

今日のお昼、大好きな人とおしゃべりをした。大好きな人だが、全然色気のない会話になるのが私は大いに不満である。今、私は規夫師匠の文章を読んでいるからそのことについての話から始まり、人間いかに曖昧な状況に耐えうるかが大事だよね、という話題になった。

わかんないのである。
どんなに努力しても、どんな働きかけを世界に対してしても、必死に目の前のひとに関わっても。
思うようにはならないのが人生だから、深い哀しみを内に湛えつつ「御心のままに」と祈る以外に、役に立つ働きかけなんてたぶんないのだ。それはときに途轍もなく寂しく苦しいことであり、同時に平安でもある。

でもたとえどんなことがあっても、わたしのなかの大きななにか(わたしはそのものに「絶対者ブラフマン」という呼び名をつけている)が、絶対に私を守ってくれる。
守ってくれた結果としてこの現身が喪われ、愛する人とわかれることになっても、誰も何も恨まないでいたい。

 

今、大きななにかの顕れとしての、個別の存在に注意を向けるよう促されていて、これまでそんなことに経験がなくて戸惑っているけれどもきっとなにか訳がある。そしてそれが他の誰かのためになるからこそ、このことを経験しろと言われている。

おおきななにかの、私にはどうなるか知ることのできない仕事の前に頭を垂れて、この曖昧さに耐えていたい。

私というものになんの意味もなくても、こうして私かがなにかに向き合うことに、大きな働きのなかの意味が、

確かにあるはずだと信じて。

 

 

 

 

 

 

№533 最高の恋人

不逢恋(あはぬこひ)逢恋(あふこひ)逢不逢恋(あふてあはぬこひ)
ゆめゆめわれをゆめなわすれそ                  紀野恵

 

 

 

1月4日

帰ってきたよ。

米子空港のエプロンに雪山ができていた。あれは完全に凍みている。今週また、前回を超える寒波がやってくるというから、きっと春まで寝雪になっちゃう。駐車場に車を停めてなくてほんとうによかった。

久々に車で出かけようとしたら、当然愛車にもどっさり雪が積もっていて、こちらもやっぱり凍みていて車の雪下ろし用アイテム(正式名称はなんだろう?)ではビクともしない。ちょっと焦った。

 

さて、私は通常12週間1クールでオンライン・セッションをお受けしている。約3か月。でも”3か月”という括りじゃ嫌、ダメ、なのである。
ひと月は28日×4、そして×3で12週。こちらの方が人間のリズムに合ってる気がする。

 

ほんとうはお兄さん弟子の真似をして「40週1クール」というのがいい。
ある方とこの約10カ月のセッションを行ったことがある。最後はホントにお子さんをお産みになるというギフトがあった。

40週って、人間が生まれてくるのに必要な日数。前後数日の誤差はあるけれど、40日間お母さんのお腹のなかにいれば「月満ちて」生まれてこれるということになる。
お兄さん弟子のセッションは「もう一回安心して生まれ直す、そして本当の自分を思い出す」ということだったからこの期間がどうしても必要なのだ。

まあでも私はただの「ヨーガの先生」だから、12週区切りでいいや。

 

お蔭様で、常時数名の方がこのクールに入っていてくださり、毎週定期的に2時間くらいのやり取りを交わしている。毎週2時間、一対一って、相当熱いです。
ご経験者様はお分かりになるでしょう。ここまでやると、時々リアルで会っても他人の気がしない(私はね)。始めたばっかりの方に「離れてるにも関わらず、届くエネルギーが強すぎる」と言われてしまったこともある。でも、愛だからいいんだよと慰められた。愛ならいいよね、熱苦しくても。

2日前のセッションでは、12月からこのクールに入っているYくんが「つぼいさんって何して生きてる人なのかわかんない」と言ってくれた。3クール目に突入しちゃったAさんが「それって最高の誉め言葉だね」と言う。

 

なにして生きてるか? 
息して生きてる。それだけ。

今、私が、ここに存在していられる因はすべて絶対者ブラフマンにあり、Pranayama(呼吸)で毎瞬私をチャージしてくれる。それだから生きていられる。これ以上のことは何にもない。ほかはすべて後付のおまけみたいなもの。これが土台、そして基盤。

何の努力も要らない。どんなに私がバカでも大丈夫。無条件に愛されている。そのことに絶大な安心感と、至福を覚える。
愛されているから、人を愛したいと思える。

 

からだの調子が悪いとか、夜眠れないとか、細かいことはいくらでも悩みが生まれてくるのだけれども、根本解決はどこにあるかと言うと「無条件で愛されていて、ここにいてもいいんだ」と安心できることだと思っている。そうすると肉体の内的な仕事なんて、劇的に変わってしまうのだ。
ほんとです。これは体感できる、リアルな現象。

誰かにリアルに愛されることはその優れた疑似体験になり得るので、上手くいくとすごく良い癒しが得られるだろう。でも「私が安心したいから」と思って恋愛や結婚をしても絶対にうまくいかないから、気をつけたい。

ピンでここに立って、わけもなく満足だから人と愛を交歓できる。これをしあわせと言います。しあわせには条件がないので、無尽蔵の源泉から湧いてきて人に分けてあげられる。もし条件があったら、それはしあわせのように見える不幸。この不幸は期間限定だったり、感覚器官(五感)で味わえるものだという特徴がある。

たとえば、これはダルクの方に教えてもらったのだけれど、ドラッグの気持ちよさって何時間も続かないそうだ。値段もすごく高いし、リスクはもっと高いのに! 対費用効果で見るとヨーガの方が断然安い。やればやるほど無駄に気持ちよくなったり、元気になったりする点も評価できる。

このワケがわかってコツをつかんだ人は、他者に対して“しあわせ還元活動”をしていかねばならない。そうでないと絶対者ブラフマンに絶対叱られます。

もう一度言います。絶対に、叱られます。

この人が怒ったら相当大変なことが起きるので、重々気をつけて欲しい。私が怒った時みたいに、ものを二階から道路に投げ飛ばすくらいじゃ済まないですよ、ほんとに。

 

かつてヨーガで救われたと思い、このことを人に教えたい!と思ったにもかかわらず、当時今よりもっとずっとおバカさんだった私。数か月前まで毎月決まったものが口座に振り込まれる怠惰な生活を長年甘受していたせいで、「やっぱ色々大変そうだからやめようかな~」と思った。そうしたら酷い目に遭って身ぐるみはがされた。それ以来、ヨーガの神様を怒らせないように、いつでもどこでもヨガヨガ言って生きている。

世のなかには、私にとってのヨーガの神様みたいな”なんらかの力”に魅入られてしまった人が、ちゃんと一定数いる。そういう方に出会ったとき、この世のゆたかさを知って胸が熱くなる。

その人が、もっともっとそのお力を他者に捧げるためにあえて与えられた試練に挫けそうになって、しょんぼり落ち込んだりひとりでヤケ酒飲んだりしていることを知ってしまったら、「なにを言ってるんだあ!」とその背をどやしつけたくなる。でも私は気が小さくてシャイだから、そんなことはできない。だからこっそり氣を送ったりしている。

クライエントさんのなかにも、そんなしょんぼりモードにときどき入り込んでしまうひとがいる。そう、あなたのこと。今「私のことだな…」と思ったでしょう。そうです、ズバリあなたです。

しょんぼりしている場合ではないの。あなたのなかにはいつもいつでも世界で最高の恋人がいて、あなたに力を与えてくれいる。

でも誰でも時々、ついうっかりその感じを忘れてしまうことがある。
だからヨーガがあったり、私みたいな者が必要だったりするんじゃないかな。
ただそれだけだと思う。

 ほら、今、息してるでしょう? 大丈夫だよ。

 

 

 

№532 猛獣使い

肌の内に白鳥を飼うこの人は押さえられしかしおりおり羽ぶく  佐々木幸綱

 

 

1月3日
新年オンラインセッション初め。
山陰で炬燵に「刺さっている」というクライエントさんとダルシャナ。楽しく盛り上がったが、最後は真剣な話。家族、職場以外における意識的な関係性の構築について熱く語ってしまった。彼の今年の目標は「けっこん」であるが、これが悲惨なものに変容していかないよう、念のため初めから可能なかぎり「人と人の結び付き」についてよく考えて欲しい。
その上でどんなところに旅に出ようが、それは自由だと思う。ただ幻想はいけない。20代の、勢いと性欲しかないような結婚じゃないんだからさ。

 

 

昨日のブログで「負けた」話を書いて、今朝ふと気付いたことがある。
私は常に自由でいたい。
皆そうだよと思われるかもしれないが、案外そうでもないよ? 自らが所属する軛に、多くのひとが驚くばかりに従順である。ただしこの軛に従うことによって得られる恩恵も多くある。私はそれを可能なかぎり捨てて、自由でいることの苦を引き受けたい。

 

ちなみに私は年末年始を東京で過ごした。
通常、世間一般的には家族で過ごすらしいことになっているので、出発直前、1人家に残ることになっている家人に、私の思うところは述べておいた。述べた、それだけ。
ここで「やめとけ」とか「普通じゃない」みたいな話には、我が家ではならない。万が一話の展開が「普通」などという一般論に基づいたものになった場合、この家で今かろうじて残っている“かぞくのかたち”みたいなものは吹っ飛ぶことになる。こういったことが決してないからこそ、ここが私の家なのである。

上京時に出会う方々はインテグラル仲間が多いので「お正月なのにご家族大丈夫なの?」といった質問はまったく出ない。そんな質問が出たら興覚めである。
 

親という役割は押し付けられたわけではなく私が強く求めたものなので、私が出来ることは尽くしてやりたい。同時に、子供というのは欲しいと思っても授かれるものではないから、この子らを授けてもらったということは間違いなく天から何かしらの役目を頂いたものと思っている。

 

ところが他の関係性は違う。
人の心を制度で縛ることはできない。
かつては随分と堅苦しいところに生きていて、所属階級などの枠に押し込めようとする圧が厳然としてあった。これに反発すると現実的な不利益があるから「我慢するように」とたくさんの人から、何度も言われた。それが賢明だと。

私はこの”枠に押し込められる”感じが大嫌い。
いったい何のために我慢するのだろうか? 社会的地位?階級?それとも収入? それにどんな価値があるのか。死んだらすべてチャラである。我慢して喪われる何かのことをなぜ勘定に入れないのだろうか。我慢の結果、命すら喪った人を私は何人も見てきた。我慢は怖いくらいリスキーだ。

 

では家族はなんだろうか?
実は家族なんてデリートできる。そのことを私はよく知っている。子供の存在だって状況が許せばデリートできるし、そのように生きている人がいっぱいいる。
デリートした瞬間、思い出と呼ばれるものがゴミと化す。この瞬間の凍り付くような冷ややかさを、たぶん私は誰よりも知っている。

 

私の短い人生経験上、最もゆたかなのは意識的な他人との関係性である。
師弟、きょうだい弟子、そして尊重しあえる友人。
血縁や婚姻によってできた関係性では我が出る。子供に対してはそれがもっとも強く出る。随分それで苦しめられてきたが、大いなる修行と学びが与えられたことも間違いない。 

 

目の前のひとと真剣に向き合おうとする時、我が圧し折られる。
愛は我を曲げることでもあろうと思う。そのときちいさな「私」が痛む。
曲げても痛んでも、我慢はいけない。そんなことをすると無理が生まれる。曲げることと我慢のあいだを縫って、あなたとわたしの双方を大事にしようとしなければ。
しあわせに条件はなくても、愛には条件がある。比べない、怖れない、見返りを求めない、というBhakti Yogaの「愛の三角形」。この三つを満たす絶妙な向き合い方を、互いに見出していきたい。

 

もっとこうだったらいいのに。こうあるべきだ。
という思いに晒されるとき、哀しくなると同時に、燃える。
もし私の前に「これが愛なんだ!」といってハンバーグ定食をさしだしてくる人がいたら、「私は合い挽き肉は大嫌いなんじゃい!」といってちゃぶ台をひっくり返して逃げだすと思う。
でも互いのあいだに交流するあたたかいなにかを、あえて「愛と呼びたい」ということならば、歩み寄って抱きしめたくなるだろう。人と人の関係性は多彩であるけれども、それがどんなものであっても、そこにある互いを滋養するなにかのために、愛という言葉があるのかもしれない。

 

ということで、たぶん私と親しくお付き合い下さる方は、猛獣使いみたいな技能をお持ちなのではないか。
猛獣使いの筆頭は我が子二人である。相当に熟達しているので、ママは玉のりまでしちゃう感じ。次がお師匠様方。与えられる打撃に「ええー?!」といつも驚かされながらも、師がお勧めくださる道に入り込んでもう元に戻れなくなっている。そして絶対者ブラフマン。この方のお仕事に対して私がNOと言えることは、決してないから。

もし、あなたが素敵だと思っている枠に入れようとしたり、軛に掛けようとしたら「ガブっ!」といっちゃうと思います。
実は暴れん坊ですから、どうかお気をつけください。

 

 

 

 

№531 胸を借りて

一生の暗きおもひとするなかれ わが面の下にひらくくちびる   篠 弘

 

 

 

1月3日
子供たちが先に帰っていった。
JK剣士の稽古始が延期、冬休みも延長されたので「なんだよぅ、もっとゆっくりできたのにー」とみんなで文句を言っていたが、残念ながらJRの往復割引切符は使用期限が決まっている。空路を利用する私だけ滞在を1日延ばすことになった。
そして今、聖地”大崎のスタバ”の、席というより通路に近いところで電源を使用させてもらっている。ここは間違いなく「しょんぼりシート」である。今日私が命名した。寒い、微妙、席というより通路。三拍子揃ってる。

 

 

さて2日、某所にてYouTubeチャンネル用の録音をさせて頂いた。
たぶんこの録音は、私のチャンネル“欲張りなYoga”ではアップされない。ゲスト出演の私以外、かかか…格調(緊張のあまり震えている)が高すぎるので、あんなチャンネルではダメなのである。
これまでも度々、私のYouTubeチャンネルの品質の低さに複数の方からご指導を頂いてしまい、めんどくさがりの私はそれ以来新しいものをアップしていない。撮りっぱなし、無編集、ただ上げるだけというクオリティの低さ…。ほとぼりが冷めるのを今か今かと待っていた。でももう新年、そろそろやっちゃうよ。しかも対談で。たぶんまた叱られると思うけど、もう開き直ってます。へへへ、ごめんなさい。

 

昨日行われた収録があまりにも高品質で、すごいなあ!と思った。
人間、こうやって自らのブランド力を上げていくのか。私にはちょっとできそうにない。深い絶望感(単にめんどくささ)を覚えて、急にヒマラヤに籠りたくなった。でもヒマラヤも遠いし今インドには入れないから、米子市に、明日の夜から籠ることにする。また寒波も来るらしいし。

 

 

常々「圧が強い」と言われつつもそのことに全く無自覚の私だが、この日「負けた…」と思った。
いつもO先生との収録を秘密の場所でやっているわけだが、掛け合い漫才のようなこの収録で暴走してしまうのは当然私である。それをなんとかO先生が正気に返らせようと懸命に引き留めて下さるので、毎回一件落着している。
ところが昨日のお相手は、こちらのペースに引き込めなかった。お師匠様方以外でこんな風に感じることって、まずない。ゆえに負けた、と思った。ちょっと悔しいかも~

某県のコンサルタントAちゃんは、その世界では相当に有名な方だそうである。ヨガしかしないでぼんやり生きている私は、この方の対社会的な凄さが全然わからない(申し訳ないが、たぶん他のどの方に関してもわかっていない)。でも大好き、そして仲良しである。

このAちゃんも当然ながら相当に圧が強い。「うわー、圧が強いなあ」と私は思っている。ところが、Aちゃんと話しているとき、相槌を打っただけで叱られちゃうのである。「ええっ!」「ほんとに?!」とごくごく小さな声でそっと囁いているだけなのに、「かよこがなにか言うと、意識がぜんぶそっちに持っていかれて、何を言おうとしたか忘れてしまうじゃないか!」と新地でも神田でも叱られた。全然そんなつもりないのに。Aちゃんったらひどいよ。

このAちゃんですらそんな感じなのに、昨日は負けた感があった。
お相手はAちゃんのようには圧を感じさせない、柔和で色気のある方。完全に油断していた…。

いや、大事なのは勝ち負けじゃないんですよ? 
当然それはよくわかっているのだが、ふだんレッスンのなかで「世間で一般的にスゴイと思われている」ことに対して汲々としている人をつかまえて「それがなんぼのもんじゃい?」と言ってのけるために、若輩ながらも私は相当この身を張ってきたと思っている。
国営企業の社員の時も、100名のピチピチした学生を前に空気を支配できるよう、言外の何かで意思伝達ができるようにと思っていた。目くばせ、身のこなし、非言語的コミュニケーションで実に色んなことができるものである。

でもさー、昨日はまったく太刀打ちできなかった。
うんうんと相槌を打ちつつ、「めっちゃ語るなあ!」と思いながらまったく斬り込めず悶々としていた。動画をご覧になったときたぶんわかる方にはわかるはず、私が普段と比べればずいぶん大人しいのが。


O先生とも、西洋医学的国家資格保有者と、東洋的吹けば飛ぶような民間療法資格者(なにしろAlternative だからね)という真逆感があるが、この方とはもっとである。立ち位置的にも、たぶん性格的にも対極にあると言っていいかと思う。でも大好き、そして仲良しである。

ということで、昨日は非常に貴重な経験をさせて頂いた。
胸を借りる、とは正にこういうことであろうと思う。本当にありがとうございました。感謝です。

この度、この対談をお願いしたのには訳がある。
実のところ、一昨年の年末に対談のお申し入れを頂いていたところ、当のご本人が、主に冬に流行する例の呼吸器系疾患に罹患、ぶっ倒れてお流れになったのである。だからリベンジ。

 

通常、YouTubeチャンネルの収録は15分前後で切り上げてと思っているのだが、昨日は「この話、深すぎて終わんない…」という感じになって、無理やりお仕舞にした。
続きはあるかもしれないし、ないかもしれない。YouTubeでアップされなかったとしても、昨日為されたような対話はこれからもずっと私たちの間で続いていくだろう。

どちらにしてもこの方は、慈悲という親方、別名絶対者ブラフマンに使い回されている方である。
この親方がこうと決めたらもう絶対にNOはないのだから、全身全霊をかけて世のため人のため、患者さんのためにその身を擲って欲しい。うんと広く、そして高い視野から、関係されるその業界を見ていてほしい。他の誰にも、そんなことはできないと思う。
O先生も私もあなたを心の底から尊敬しているし、いつもいつでも応援団の気持ち。当然私は自称団長である。


私たちは誰ひとり、自分のために働いてはならないと思う。
自らのなかにいる他者のため、そして同じくわが身のうちに宿り、常に離れることのない尊いものに、いつでもこの身を捧げる覚悟で。

 

 

 

 

 

 

№530 空、そして打撃

ゆるやかな傾斜に水が細長く奪われていくようなはじまり   木下龍也




1月2日。

仕事始めで都内の秘密の場所へ。

元旦の昨日は一歩も外に出ず、ぬくぬくした室内から青空を見上げていた。
娘たちはお散歩がてら恵比寿方面に出かけたが、どこも休みだったそうである。成城石井の噂の(母の推し)杏仁豆腐を食べたかったそうであるが、気の毒であった。
2日には開いていたので、仕事帰りに買って帰った。母のいうことがようやく理解できたようである。よかったねえ。

 

秘密の場所は長女曰く「山手線の秘境」に、ある。
この度、娘たちも一緒にこの秘境まで足を伸ばして見た。

山手線で、西から行くと新宿の向こう、東からだと上野の先、要するに北側は行ってみたことがない“謎のところ”だそうで、確かに私も、駒込と日暮里がよくわからなくなる時がある。ええと、私はどこに行こうとしていたのだっけか、と思って慌てて駒込で飛び降りたりする。
これは年にほんの数回、米子鬼太郎空港に向かうためにJR境線に乗っていて、弓ヶ浜と和田浜の位置関係がわからなくなり、空港までちゃんと辿り着けるのか不安になる感覚に似ている。
が、なにしろ山手線というハイカラな電車には「いまここですよー、あなたが行きたいところまではあと何分ですよー」という明確な表示がなされており、自力でボタンを押さないと扉すら開かない鬼太郎電車とは、そもそも格が違うのだった。都会だな。

この北側のエリアには母が毎月通う秘密の場所があったり、規夫師匠がおられたりする。
子供たちが一度行ってみたくなっても不思議ではない。秘密の場所にて、母がいつもお世話になっているエライ御方(秘密のチームのリーダー)にご挨拶をして、仕事のある母を残してあっさり去っていった。
よく考えたら、いつも仕事させて頂いているお部屋も見せてあげればよかった。そしたら年がら年中フラフラしてばかりの母が、お部屋効果でちょっとだけエラそうに見えたかもしれないのに。惜しいことをした。

 


さて、今年の仕事始めはオンラインから変更となって、リアルセッションとなった。
オンラインセッションでも、生徒さんの自覚できる効果を生むことが十分に可能。これだけのことがやれるなら、やらない理由はない。しかしリアルには敵わない。
某マヨネーズ会社のエライ方が「もう、オンラインは懲り懲りなんだぁ!」と夜の赤坂見附で叫んでいたが、私も激しく同意したい。

リアルいいよね。
そもそも私は、少人数レッスンの方が効果も満足感も高いと感じ、3人から最大8人くらいまでがいいと主張してきた。箱の大きさにはかかわらず、である。感染症対策でもなんでもなくて、これ以上だと空間のなかで構築できるなにかが薄まる感じがする。
このご時世「対策」が重要であるので、秘密の場所くらいの規模の箱だと、感覚を2mあけても5人全然いける。
「使っていいよ」という寛大なお許しを頂いちゃったので、今年は秘密の場所で秘密のグループセッションをやっちゃおう。秘密のセッションなので、ある日突然あなたにお誘いがあるかもしれない。ビクビクしながら待っていてください。



リアルがなぜいいか、ヨーガ的考察を行ってみたい。
インドにおける「五元素」の概念を知っておられるだろうか?
晦日の串揚げ屋で、規夫師匠にこの五元素の話を熱く語ってしまった。ヨーガ療法士養成講座前期課程でこのことについて初めて聞いたとき、単に「ふーん」と思っただけだったのに、年々しみじみ「これって凄い」と思うようになってきている。ほんとうにすごいのか、私の頭がヨガ毒で侵されてしまったからなのかはわからない。

五大元素、Panca Mahabhuta。
5がパンチャ、マハーは「偉大」、ブータが元素のこと。
空、風、火、水、地、5つの元素によって、この世のすべては成り立っている。
すごく深いはなしなので、細かいことはここには書かない。でも大事なこと。

瑜伽名(聖名)を拝受したとき、名前を記したカードと、授かったマントラの記載されたカード、スワミ・ヨーゲシバラナンダ大師のお写真、そして5ルピーの紙幣を頂いた。この5ルピーは五元素を示しているとのことだった。
五元素がないと、私たちはここにはいない。すべてのものがここにない。

空の概念のはなしも語り始めるとキリがないのだが、これは一般的に言われている仏教的な「空」とは違うと私は理解している。
空 Akasha とは、場である。物事が生じては去っていく、場である。
風 Vayu とは、なにかを動かす力、エネルギーである。このVayuがなければ、なにも動かない。
この二つの概念を元素に含んでいる思想を、私は素晴らしいと思う。

私のこの理解も、実はバカバカしいほど薄っぺらいものなのかもしれないが、別にそれでもいい。ただこの思いをもって、私は生徒さんに向き合っていると思う。
空元素(Akasha)に満ちた同じ空間のなかで、隣り合った先生の吐息(Vayu)を感じながら行う運動は、まるで違う安心感を覚えるだろう。

ここでリアルの場を共にしているとき、ことさらに意識しないままに、私はあなたを間違いなく含んでいる。同じ空のなかにあって、オンラインではできないことができる。少し攻めたアグレッシブな動きにも挑戦させられるし、その動きのなかでストレスに満ちた呼吸が生まれていれば、もっと吐くことを意識して楽になれることを教えてあげられる。

オンラインでは、ヨーガが大事にしている「打撃」を与えにくい。そう感じる。
秘密の場所の「空」のなかで、一緒にいなければ与えられない打撃を与えつつ、包み込めるように。
東京での少人数セッション開講、これも今年の目標。

 

 

 

№529 ひとり、ここに

現世まず縁にしたがうほかなくて人に逢うため坂上りゆく   大下一真

 

 

 

新年2日、仕事始めである。
元旦の昨日は、アルコールが入って常以上にぼんやりした頭で企画書をこねくり回していた。
息抜きにリフレクション・ジャーナルを書いたり、小高賢編著「現代の歌人140」を読んだりしていたのだが、どうやらこの小高さんとは一緒にお酒を飲んでも盛り上がらないような気がしてならない。
普段から気に入って愛誦している歌人が幾人もとり上げられていながら、「えー、なんで私の大好きなあの歌は入ってないんだよう」と憤懣やるかたない。特に塚本邦夫と藤井常世。基本的に掲載歌は自選のようなので、逆に小高さんとはウマが合うのかもしれない。「なんであの歌を選んでくれないんだよう」と思っておられるかも。
まあしかし、140人×30首もの掲載は実にありがたい。読み込むのには当分かかりそうで至福である。

 

今年は自宅以外のところで新年を迎えている。
これが自宅であったら、元旦の昼に一応家族全員で卓を囲み、家長ということになっている者に一言口上を述べさせ、子供たちに玉を落とし、一通り食事を終えたら解散という流れになる。
その後三々五々勝手に過ごすのはいつも通りだが、間違いなくJK剣士と一緒に書店とCAFFE VITAには行っている。また、2日には事初めとして、簡易ながら濃茶を練って服しているであろうことと、筝曲・三絃を弾いているかと思う。今年はこの我が家の初釜と稽古始は、4日以降ということになる。

 

お茶のお稽古に上がったときには、先生に口上を述べご挨拶申し上げる。
それがなんとなく我が家では当たり前になってしまっていて、娘二人も頼み事やおねだり事があるときには、「ちょっといいですか」と断って改まった風で話を始めるのだが、これって堅苦しいのかな?
お稽古を通じて、親子共々改まった「ご挨拶」ができるようになったのはとてもよかったと思っているのである。

 

たとえば、先だって師匠83歳のお誕生日があったけれども、その直後の稽古日には、“この度ご無事にお誕生日をお迎えになられてほんとうにおめでとう存じますこれからもますますお元気でどうか末永く私共をお導き下さいますように…”ということをつらつら申し上げるわけだが、こういうことは、少なくとも私は20代の頃にはこっぱずかしくてできなかった。加齢は祝福である。

 

 

さて、今年は専門家の下でシャドウワークにしっかり取り組もうと思っている。
ほんとうは2005年からずっとお世話になってきた中野先生の下でのワークを再開したいのだが、諸々事情があり先生のリアル・セッションはお休み中なのである。自分にとって適切と思えるタイミングで継続的に先生とのワークを行ってきたので、新しい修練の時が訪れていると思う。

この瞬間想起されるあれこれについて、ワークを通じて取り組めなかったこともブラフマンの采配とは思っているが、辛いものがあった。
このところ、修行は自ら求めていくものではなくなっており、向こうからやってきて避けがたいものや、ただ時や状況を耐えるだけのものになっているように感じる。自ら選んで取り組んでいく修行なんて、きっと大したことはないのだ。

 

本音を言うと、すべて捨てて逃げ出してしまいたくなることがある。
元旦早々「三次元はもういいや」という某師匠のお言葉を思い返し、頷いていた。
しかしどこに逃げても一緒である。人生にダイナミクスが必要なこともわかっている。

この世はマーヤー(迷妄)の世界。
この世で最も素晴らしい恋人がいるとしたら、それは目を閉じたわたしの感覚のなかに存在する絶対者ブラフマンに他ならない。この存在と私は一瞬の間も離れることがなく常に一体であり、よろこびそのものである。

 昨年の私は現象世界に心動かされ過ぎた。もう懲り懲りであるとも思い、このダイナミクスがもたらすものに驚嘆もした。


かつて夢で「戦争ですよ」と言われたことがある。この夢のあと、現実世界で親と対峙して戦争の如き様相を経験し、悲惨なダメージを被ったがまったく後悔していない。間違いなく、私は強く逞しくなった。
今年は、家族に「ある部品を運んできてくれ」と頼まれたが拒否するという初夢を見た。家に帰ろうとする飛行機が雪で欠航になって、ホッとしていた。

以前ある方に、あなたは家から離れて暮らすことのほうがよいと強く勧められたことがある。ちなみにこの「家」という言葉は、子供を含む家族をも示している。

だからといって、家族以外の誰かと一緒にいたいと欲するのは嫌である。
孤独という豊かさを味わって、ひとりここにいたい。
人はいつだって常にひとり。
でも常に、自らのうちに他者を抱き留めている。
あなたと私は一度たりとも別れたことはないのだから、触れることすら必要ないのかもしれない。



<2021年の課題>

・専門家と取り組むシャドウワークの再開

・エネルギーワークを深めること

・芸道への淡々とした取り組みの継続。教授申請に向けて準備?

・書籍執筆

・ブログ更新の継続

・指導者として、実践やセルフケアの徹底

・発達測定を受け、実践の資とすること

・生のダイナミクスから逃げないこと

 

 

 

№528 節目ではある

冬銀河古く新しき光なりいのち以前のいのちかがやかす  伊藤一彦

 

 

新しい歳が始まった。
とは言え、日本の暦では2月初めまで子年が続く。

昨年、血のつながりがないとはいえ、親族よりも親しくさせて頂いた人を見送った。
残念なことに、他にも数名の方とお別れをせねばならなかった。
なのでおめでたくはないが、節目には違いない。

中目黒で、遺影の前で杯を傾けつつ迎えた年明け。
お気に入りの鮨大内のおせち、お気に入りのワイン。

晦日の昨日は田端へ出向き、規夫師匠にお目にかかった。
日本の一般的な慣習に逆らうように、こんな日に出会ってくれる人はあまりいないと思う。有難いこと。

師匠は、現在次の著作の執筆に当たられている。インテグラル・コーチングに関するもので、たぶん日本で最も網羅的に、そして深く、コーチングに関して語った本になるだろう。
よく考えれば私が師匠にお願いして聖地・大崎のスタバで受けていたのも、このインテグラル・コーチングなのだった。
単に問題解決でなく、目の前の方が向かうずっと先を見据えて、しかし焦らせることなく支援できる、そんなコーチングを提供できる人が日本にどれくらいいるのかわからないが、私は間違いなくしあわせなひとりだった。そして今もその繋がりを維持し、育てているしあわせなひとりである。

インテグラル・コーチングに関してはインテグラル・ジャパンのHPに詳しいので、まだこの言葉に耳馴染みがない方は、ぜひこの機に下記のサイトをご覧になって頂きたいと思う。
https://integraljapan.net/coaching.htm

書籍の出版は、春頃になるご予定とのこと。
新しい情報が入ったら、このブログでも必ずご案内する。


師匠をご存知の方は容易に想像がおつきになると思うが、高い集中力で一心不乱にご執筆をなさっておいでで身体の疲労度が半端ない。
一応、ボディからのアプローチの専門家ということになっている私なので、お体の調子が悪くなるほどお仕事に根を詰めている人は香りでわかる。というのは嘘だが、メールやメッセンジャーの画面から圧は感じる。

なので最近、ヨーガ「療法」の世界観ではものすごくバカバカしく聴こえるのだが、画面に手をかざしてその方の今の調子を推し量ってみたりする。これが存外あたっているので驚く。
そういえば修行会の時にはグル(慧心師)が「私の眉間(アジュナチャクラ)を見よ」と仰って、手をかざして氣を送ってくれる。あれも同じ類のことか。

そんなことをしているやつだとはご存じないお友達が、私に心配をかけまいと「大丈夫だよ」と言って下さることがあるのだが、あなたのそのメッセージからなにかが香り立つように私に訴えかけているから、もう言っちゃったほうがいい。バレバレだから。

 


師匠に、レクティカのアセスメントを受けるといいと言って頂いた。初夏までには受けようと思う。「今の自分にどんな取り組みが必要なのか」を丁寧に教えてくれるというから、私が無い頭であれこれ悩んで実践するよりよほどよかろう。

昨日は、書こうとしている書籍のことについても聞いて頂いた。
こんなご時世の大晦日、店は軒並み締まっている。そんななかたまたま開いていた店で、ぐっとレベルを下げて私に寄り添い、話を聴いて下さる。自分がバカなことは痛いくらいわかっているけれど、この年月、師匠を敬愛してそばにいようと努めてきたことで、自分を少しだけ偉いと思った。

 

昨日ふと、アカデミックな訓練をまったく受けておらず、実践家としても感覚で感じ取るものに重きを置く自分のことを救いがたく愚かだと思い、哀しくなった。今日は本の話などしないで帰ろうと一瞬思ったけれども、それを押しとどめてあえて言葉を押し出したのは、自らの内に強く動くエネルギーをリアルに感じ、それを師匠が感じ取って言葉にして下さったからだ

「今日は感情のエネルギーが強く動いたね」というお言葉を頂いたとき、この圧の強さはなんのために与えられたのだろうと思った。
そのことにも答えなどないのかもしれないけれど、この圧をもって何かしろと言われているのならば、応えねばならない。無駄に動くエネルギーなど無いはずだから。それが例え、愚かな私のなかに動くものであっても。

 

 

今年、非常にイレギュラーな年越しを選択した。そして今朝、非常に象徴的な夢を見た。たぶん今後私は、一般的な日本のお正月みたいなものは選択しない。子供たちも独立に向けて準備を調えていくだろう。JK剣士が言うように、我が家は表面上解散していくのだ。それでいいではないか。

人を愛したいと思う。愛されることも嬉しいと思う。
でも、自分のなかの大事な柱を揺るがせにせず、愛することを貫きたい。
愛とは、比べず、恐れず、見返りを求めないもの。
誰も愛の前に自分を犠牲にしなくてもいい。耐えられないときにはそう告げればよい。
関係性が壊れても、そこに愛を感じ続けることはできる。この世にはいない存在に対する愛を持ち続けることが、人にはできるのだから。

家族という制度に対する批判的な目と、悲観的な確信を持った側に立って今後を生きるだろう。血を分けた子供であっても、例え家族でなかったとしてもつき合いたいと思える関係性を意識的に構築することに、責任をもっていたいと思う。
家族という関係性に私は酷く打ちのめされてきたし、同じように打ちのめされてきた人と語ってきた。わからない人にはわからないだろう。それでいい、まったく構わない。

 

いったい私はどこに行こうとしているのか。
コミュニケーションを大事に、私のこの圧を情熱と捉えてくれる人と付き合っていくことになるのだろう。

今日はもう朝からワインを飲んでしまったからこの後は読書をして過ごすが、明日からまた企画書に取り組むつもりである。私がどんなにバカだとしても、この世は広いからちゃんと居場所があるのだ。しあわせなことである。