萩原慎一郎
からっぽでよかったいつか充たされて溢れる日々のしあわせを知る 嶋田さくらこ
12月28日夜
アヤシイ変装(赤いサングラス!)をしたおじさんと一緒に、赤坂見附駅そばの「スナックひきだし」へ。内緒だけど、この方実はすごくエライ人。S田さんもご一緒。
このスナックでバーカウンターの向こうに立つのは、水商売の世界のひとではない。
お酒を頂きながら、抑えた照明のこじんまりした空間で交わされる対話やその交流は、上手くいけばきっと人を癒すことができる。その効果を求めてそこに立つ、人に関わることを諦めない人々のための場なのだと理解した。
『見知らぬ人同士が気軽につながる「場」を提供するのが、スナックひきだし』
ということで、実に面白い取り組みだと思う。教師や講師業の人は、場の構築やエネルギーを掴む訓練の場として非常にいいのでは。実は私もここで「ママ」デビュー予定なのだ。
帰りに、「太ってしまう!」と抵抗するS田さんを無理やり誘って、五反田で「〆ラーメン」を食べた。博多風。おいしかった!
hikidashi.co.jp
12月29日
年内リアルセッション納め。
帰路、麴町駅に向かう途中に、素敵な数寄屋造りのお宅があった。
「あれ茶室だよ!いい造りだね~」と言っていたら、なんと!お家元の東京稽古場だった。それは素晴らしいに決まっている。感激。
記念に写真に収めてみたが、コロナのほとぼりが冷めるまで友達には見せられない気がする。
夜は昨夜に引き続き、S田さんと品川で会食。先月から、かなり深いお話ができていると感じる。最近対話の頻度が多いのも、お互いにとって必要なことなのだろう。多くの気付きを頂いている。
その後子供たちが合流、二人をご紹介させて頂いた。
長女が上京したら保護者役になって下さるという。五反田の父である。ちなみに彼女は大崎にもパパがいる。ひと安心。
12月30日
山陰の生徒さんと、年内オンラインセッション納め。
これで年内の仕事は、すべて無事お仕舞い。
あちらは雪が降りだしたとのこと、山陰両県には警報が発令されている。もし今家にいたら、雪かき→餅→雪かき→餅の無限ループだった。
亡きお兄ちゃんの後をうけて、新しい担当になってくれたた―くんと会う。
5年ほど前に静岡県で一緒にキャンプをしたJK剣士(当時10歳くらい)が、色んな意味で大きくなっていて驚いていた。車好きのたーくんは、今は赤いジャガーに乗っている。素敵な車だったが、乗り降りするとき頭をぶつけてしまった。
ちなみに私は、車高の高い大きめの車に乗っているので、頭を屈めることがない。ジャガーだと、雪降ったら走れないよね?
中目黒のスターバックス・ロースタリーで、Oさんと会う。先日の湘南の会の話や、今年のインテグラルの学びなどについての振り返りができて有難かった。ボディや芸術に対しての感覚が鋭い人だから、来年はぜひ一緒に何かやってみたい。
この間、JK剣士の所属する部で濃厚接触の疑いがある人が出たとのことで大騒ぎになっていた。JK剣士もPCR検査を受けることに。他の部員はすべて陰性とのこと。
校内大会は延期、新学期も延期。もちろん稽古始も延期。
さて31日。
本日は午後から規夫師匠にお目にかかる。
ご執筆も佳境に入り身体の疲労が最高度のようであるから、お会いすることが気晴らしになればうれしく思う。
今年はなんどもこうして師匠とお目にかかり、お話させて頂くことができた。
実にしあわせである。
東京でレッスンをすること、師匠に度々お目にかかることが、何年も前からの夢だった。何度もトライしては挫折したこの夢を叶えて下さったのは、田端のオフィスにおいでになるあの方。きっかけを作ってくれたのは洋平先生。
ここのところ自分の氣がとても強まっているのを感じるので、お二人に心からの愛をこめて氣をお送りします。ぜひ受け取ってください。
ありがとうございます。適切な言葉が見つからないほど、感謝しています。
空っぽの病室 君はここにいた まぶしいくらいここにいたのに 木下龍也
マキシミリアノ・マリア・コルベ Maksymilian Maria Kolbe
(1894年1月8日 - 1941年8月14日)
ポーランドのズドゥニスカ・ヴォラで生まれ、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所で餓死刑に選ばれた男性の身代わりとなったことで知られる。1982年カトリック教会の聖人に列せられた。
先祖はボヘミアからの移民で、一生ポーランド人であるという意識を持っていた。
1930年にゼノ神父と共に長崎に上陸、翌年修道院を設立。
1936年、修道院の院長に選ばれたためにポーランドに帰国。
1939年9月逮捕されるが12月に釈放。
1941年2月にゲシュタポにより逮捕された。
退会した元修道士が署名した告訴状が証拠とされたが、その文書はゲシュタポによる偽造であった。アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所に送られた。
囚人番号は16670。
1941年7月末、収容所から脱走者が出たため、10名が無作為に選ばれて餓死刑に処せられることになる。ガイオニチェクというポーランド人軍曹が選ばれるが「妻子がいる」と泣き叫びだしたため、コルベ神父が「カトリック司祭で妻も子もいないので」と身代わりをと申し出た。責任者であったヘスはこの申し出を許可。コルベ神父と9人の囚人が、地下牢の餓死室に入れられた。
餓死刑では飢えと渇きによって錯乱状態で死ぬとされるが、コルベ神父は毅然として他の囚人を導いた。牢内から聞こえる祈りと歌声によって餓死室は聖堂のように感じられた、と証言している人がいる。
2週間経ってもコルベ神父を含む4人はまだ息があったため、フェノールを注射して殺害した。
なぜ人がこのようなことを、という問いは、過去多くのひとが抱いたのであって、ミルグラム実験やスタンフォード監獄実験などはその代表的なものなのであろうと思う。実験を主導したジンバルドー教授自身が自ら語った書、「ルシファーエフェクト」に私は強い衝撃を受けたが、現在では異なった観点が与えられているようである。
この件に関して詳しく知りたい方は、以下の記事を参考になさるとよろしいかと思う。
https://www.buzzfeed.com/jp/elfyscott/heres-why-we-need-to-rethink-everything-we-know-about-the-1 )
子供の頃からのこの興味を、私自身はどこへ進めていき、そして着地させるのか。
ヨーガを通じて自らと向き合うことは、生きることを諦めないことであると思っている。人は生きていれば必ず病む。そのとき、社会や周囲が自らに張ってくるレッテルには抵抗をして欲しいし、医療という巨大な機構の前で無力でいて欲しくない。
なぜならば、人間存在というこの不可解で深遠なものの理解は実に難しく、自分がどんなに向き合おうとしても簡単にはなしえないから。
心然り、肉体然り、魂に至ってはもっとではないか。
それを何か簡単でわかりやすいロジックにまとめて、間違ってはいるが明快であるがゆえに強力ななにかの前に、組み伏せようとする力には断固として抵抗したい。
そのための力をお一人お一人の方に蓄えて欲しくて、ヨーガを始めとするセルフ・コントロールの術を伝えているのかもしれない。
ナチスのやったことに比べて、現代社会で行われていることが軽いというつもりはさらさらないが、ただ迫ってくる度合いは違う。ここでは意識的に考えて回避する時間は許されている。
だからまず皆が自分を知ること。
そして、医療やセルフケアに関わる立場の者は、自らの責任を感じて大きな声で叫ぶこと。
最も大きな罪は知っているのに黙っていること、働きかけをせずに今生を終えることであろうと思う。
叫んで殺されたらまだいい。でも殺されないように慎重に、多くのひとの役に立てるような方法を考え抜くべきだ。
この仕事は、少数の人や、数少ない療法などで成し遂げられることではないから、ケアに当たる者は正気を保ちつつ、他領域の人とも手をとり合って、自らの生を燃やし尽くす覚悟が必要であると思う。
さてまったくの余談であるが、先日、ヨーガ療法の世界で大の仲良しのSちゃん(仙台在住)が、餅つきをする様子をFacebookで投稿していた。
Sちゃんとつきたてのほかほかしたお餅が私のなかで結びつかない。
杵を振り上げた姿を見ると、どうしても「なんとかに金棒」という言葉が浮かんでくる。
しかもその杵を振り回しながら「わるいこはいねが~」と追いかけられたあげくに、首根っこをひっつかまえられてずんだ餅にされるのではないかという気分になり、今年やらかした悪いことのうちどれとどれだけを懺悔しようかなと考え始めてしまった。
こんなSちゃんだが、インド哲学に対する造詣が殊の外深い。
そのお心をもって先述のような私の暑苦しい思いを聴かれたら、笑いながら激しくツッコまれそうである。
まあいいや、笑われてもっとよく考えることになれば。ね。
ゆうぐれの森に溺れる無数の木つよく愛したほうがくるしむ 木下龍也
今日はまず初めに。
ここしばらく自らに”2000字超えルール””を課したゆえに、結果的に4000字くらいになってしまうという事態に陥っていましたが、「その気になればちゃんと文章書けるんだ!」と思えたので修行は終了し、読んでくれているかもしれない方の利便性のために文字数を減らして更新することにします。
あんな長文をへこたれずに読んで下さった方に、心からの御礼と感謝を。
挫折じゃないから!愛ですから!!
12月28日
数年ぶりにだいちゃんと会った。亡きお兄ちゃんと、五反田の某所で出会ったときの四人の仲間のひとり。研修の変性意識状態のなか、うっかり私(既婚)にプロポーズをしてしまったという暗い過去を持つひとである。その後無事に、したくてたまらなかった結婚ができて本当によかったね!
枡野浩一の歌に
「けっこんて血の痕と書くほうですか?それとももっと残酷なもの?」
という作があって、昨日久々に会っただいちゃんから聞いた話はちょっとそんな感じの匂いがした。まあみんなどこも似たようなもんだから、なんくるないサー。次は蒲田で、餃子とビールで飲もうねと約束した。豪邸に泊めてくれるというが、“けっこん”の具合は大丈夫なのか。巻き込まれるのは怖いよ…
さて、先日ある方に「HHhH」という書籍について暑苦しく語ったら、なんと早速映画を見てくださったという! すごく嬉しい。
このへんてこりんなタイトルは “Himmlers Hirn heiβt Heydrich”(ヒムラーの頭脳はハイドリヒと呼ばれる)、という言葉の頭文字をとったものである。
2010年ゴンクール賞最優秀新人賞を受賞したローラン・ビネのデビュー作であり、日本では2013年に出版。映画は「ナチス第三の男」というタイトルになっているようだ。
実は私はまだ見ていない。
見たらハマって、また小説を再読(いったい何度目なんだ)してしまったり他の調べ物に没入してしまうこと間違いなしだからである。今のところ映画に関しては「そこにいてくれるだけでいいの。私はそれで満足なの。」、そんな気持ち。
ちなみに、ハイドリヒ暗殺=エンスラポイド作戦に関する映画は他にもあり「ハイドリヒを撃て!」なら既に見た。それを見たあとも「ワルキューレ」を見たあとと同じように、図書館に通っては購入が叶わない資料を探し回ったりして、使いものにならなくなった。
いや、そんならいつもは使いものになっとるのか、というそもそもの議論は置いておいて。
それにこの映画を見るなら必ずJK剣士にも見せたい。私たちは映画を紹介し合う親子で「これ絶対見といた方がいいって!!」と力説、時には説得して、視聴した後は語り合う。ほんとはJK剣士がもっと本を読んでくれるようになったら、紹介したい本がたくさんあるのだが。この本に関しては、たぶん彼女には小説の形式でない方がいいと思うので、映画でOK。
規夫師匠は大学時代に、ナチがやったことについてご研究されていたのだそうだ。詳細は省くが。先日初めてそのことを伺ったのだが、私が若い頃から抱いてきた興味関心をアカデミックにご研究されていた方に師事することになっていたなんて、全く知らなかった。何かしらのご縁というか、Yoga流に絶対者ブラフマンの采配ともいうそんなものを感じる。
なぜに私のようなものがこの方面に興味を持ったかというと、小学5年生の頃に「夜と霧」を手に取ったからで、当時ならば霜山先生の訳で写真が添付されている版であったはず。全文を読めたとはとても思えないから、たぶん霜山版には挿入されている写真に、強いインパクトを受けたのだろう。
当時私が育った家庭はそのような心の動きを受け容れるどころか、受けとめる余裕さえなかったので、いったい私はその打撃をどのように消化したものであろうか。
消化しきれなかったからこそ、今もこうしてナチスの残虐行為に関する書籍を読み続けているのだろうか。
もうひとつきっかけを見出すとすると、長崎市の東部に育ったことが大きいと思う。
私の住んでいたのは戦後長崎市に編入された新市街で、日見(ひみ)峠というところを越えて旧市街へ入る。むかし、東から長崎へ向かう際、早朝出発するとちょうどこの峠で日の出を見ることになったからついた名だと聞いた。
この峠を越え、なだらかな坂道を下っていく途中に聖母の騎士修道院がある。
街に出かけるとき、そして高校に進学してからは毎日この道を通った。路線バスに乗っていると、時折神父様も乗って来られる。全く面識がなくてもご挨拶をした。祈りの街と言われる長崎とは、そういう土地なのだった。
聖母の騎士高等学校のHPによると、「本校の設立母体は、イタリア・ローマに本部がある“コンベンツアル聖フランシスコ修道会”です。およそ800年前にイタリア・アシジで活躍した修道士・聖フランシスコによって創立されました。この修道会を初めて日本に伝えたのがコルベ神父です。」とある。
九州の西、更に長崎の中心街からも外れたこの地に、1981年2月に前ローマ教皇ヨハネ・パウロII世が、翌年4月にはマザー・テレサまで訪問している。
この宗教の文化においてここがかくも重く扱われるのは、ひとえにコルベ神父のゆえである。
続きは明日。
君という特殊部隊が突き破る施錠してない僕の扉を 木下龍也
12月27日
大崎滞在中。連日、ゲートシティの成城石井さんにお世話になっている。大好きな杏仁豆腐はジャンクなスイーツなので、次(1月)の出張までお預け。月に一回だけの逸脱。キノコのマリネとか、鶏団子スープ押麦入り、雑穀入り根菜サラダ、そしてゆで卵などを食べている。会計が済んだ後に「またご利用ください!」と言われて「うん、また来るね!」と思う。
ところが!本日はクライエントさんからの差し入れでゴッツイご馳走を頂いてしまった。お寿司ですよ!「バラ散らし」って言うんだって(ここ、LINEならうさぎさんのハートのスタンプが入るところ)。ちらし寿司ってどれくらいぶりだろう? ほら、米子にいると境港に上がるネタを使った回転ずしばっかり食べて、時々せいじさん(米子の悶絶美味しい寿司処)だから。嬉しいな、お心遣いありがとうございます。とっても美味しかったです!各地のお寿司文化ってほんとに深いですね。
出張中は基本1日1食。なんとなればこの1食が豪華すぎることが多いから。家で豆腐、厚揚げ、麦ごはんかふかし芋を食べてるのとわけが違うからね。出張時に食べ過ぎ飲み過ぎで調子を崩すことが多い。だって珍しくて美味しいから。それで帰宅後に鍼の先生に叱られてしまう。楽しくて調子に乗り過ぎて、自分の内臓の具合を無視してしまう。普段の食生活が戦時中みたいだから、ギャップが大きすぎて内臓がビックリしてしまうのだと思う。
さて、本日は日本橋の高島屋に行ってしまった。
出来心でまた「いきなり美術館突撃」の暴挙に出ようとしたのだが、今回のターゲットである三井記念美術館では刀剣を展示してあるという。刀かあ。JK剣士のママとは言え、武器には興味ないんだよな。日本橋まで行っといてから調べるのもどうかと思うが、ここで目標を高島屋の美術フロアに変更して再突撃である。
タカシマヤの美術、そういうフロアがあるんですよ。隅っこの方に。ご興味にない方にはとことん縁のないところかと思いますが、私にとっては茶道具があるところ。そこへ「なにかいいものないかな~、私に手が出るもので~」と思いながらフラフラ歩いて行った。白磁の茶碗、88000円(税抜き)、蓮の柄。これは良いなあと思った。茶碗で88000円なら全然アリやろ。また、仁清の三柑の柄(三種類の柑橘の絵)のお稽古用の茶碗、約5000円。これもよかったなあ。”長生きしてよね!お願い!”という気持ちが溢れかえっているお茶碗、やっぱり買えばよかったな。
ミカンってみなさんにとっては冬のおやつですか?
私はあまり甘いミカンは食べないので、柑橘って言うと「非時香菓(ときじくのかくのこのみ)」のイメージ。「橘」の実、要するにミカン。田道間守命(たじまもりのみこと)が垂仁天皇の命を受けて、不老不死の理想郷「常世の国」で求め歩いた不老不死になれるというたべもの。古事記や日本書紀にあるエピソードですね。せっかくたくさん持って帰ったのに主上は既に身罷られていたという結末は哀しすぎるが、もし間に合ったらきっとこの実を食べて主上も長生きなさったはずなのだ。そう思うと、柑橘の明るいエネルギーに満ち溢れた色味が、実に素晴らしいものと思えてくる。
橘と言えば、山本健吉作詞、團伊玖磨作曲、長崎県立北陽台高校の校歌「さつき待つ花たちばなに むかしの香いまもただよふ」を想起させられる。自らの高校の校歌は記憶の彼方なのにこの高校の校歌を覚えているのは、当時私が吹奏楽部に所属していて、毎年「長崎県立五校合同演奏会」に出演し5つの学校の校歌すべての伴奏をしたからである。さすが團伊玖磨、そして山本健吉。素晴らしい曲。ご興味ある方には歌って差し上げたい。なんというか、皐月の風”薫風”を感じさせられる歌なのである。爽やか!
買いもしなかった茶碗のことはまあどうでもよくて、高島屋の美術部・お茶道具コーナーで求めようと思っていたのは「出し袱紗」である。
茶道では”濃茶”が正式な茶である。
濃茶は点てない。練る。時間をかけて丁寧に練ると、深緑の茶の色の”照り”が変わる一瞬がある。それを見極めるようにして、練る。お一人に対し三杯もの茶を使用し、お菓子もその茶の濃さに負けないようしっかりしたものをお出しする。
割稽古*であっても、理想的には何方様方が炭点前をなさって、濃茶点前の最中に香が薫り、湯が盛んに沸くという状態で稽古したいものだ。
*割稽古:茶道の稽古は「茶事」のロールプレイである。一度のお席が何時間もかかる茶事の、部分を分割してお稽古する形式は江戸時代に定まったという。稽古の際には、自分が行う点前が茶事のどの部分にどういった意味合いで配置されているのかを意識するように指導される。
濃茶をお出しするときには、お茶碗にこの出し袱紗を添えて差し上げる。お客様は出し袱紗に茶碗をそっと乗せて、茶を頂かれる。表流で稽古する者にとって必須の道具である。ちなみに他のご流儀では、用い方や袱紗のサイズが異なる。
もし茶会に招かれて、ご亭主が素晴らしい出し袱紗をお出しくださったときには、それを用いずに自分の使い袱紗(朱の袱紗。通常の点前の際、道具類の浄めに用いる。茶会には使用感のないきれいなものを持参するのが心得。)で代用させて頂き、後程拝見のみさせて頂くこともある。出し袱紗というのはそれくらい貴重なものでもある。うっかり汚してしまう不心得者がいるので注意しなくては、貴重な袱紗がもったいない。
「布」というものが貴重なものであるという認識が現代人にはあまりないが、「名物裂(めいぶつきれ)」というものがある。鎌倉時代より江戸時代にかけて、主に中国 から日本に伝わってきた最高級の織物のこと。北欧のマリメッコやフィンレイソンの布もいいが、こちらもいい。どっちも知っているのが粋のような気がする。
織には金襴(きんらん)、緞子(どんす)、紹巴(しょうは)などの種類がある。茶では、茶碗などだけではなくこのような裂の拝見もご馳走なので、稽古を通じて織や柄に対する知識を蓄積させていく。柄行にも様々なものがあり、吉野間道(よしのかんとう)、青海波(せいがいは)、鱗鶴(うろこづる)などなど実に多彩である。当然ながらお稽古で用いるものは古い裂ではないけれど、そのつもりで稽古する。だから布の道具はあちこちを触ってはならないというルールがある。ご存じない人がガッ!と掴むと、心臓が止まりそうになる。裂は襤褸になったらこの世から消滅してしまうのだ。そっと最低限の部分(縫い目など)をつまむように、大事に扱うことが肝要。
濃茶の稽古を許されればこの「出し袱紗」を持つことになるし、唐物の点前を許されれば出し袱紗でもとくに柔らかい布地のものを選んで調えることになる。
私が初めてこの出し袱紗を購入したのは今から18年ほど前。紅く可愛らしい宝尽くしの紋様だったように記憶しているが、今は長女が使用している。彼女が濃茶の稽古を許された際にこの袱紗を譲り渡し、新しく求めたのが「麒麟牡丹緞子」。これは次女が好んだものを求めた。かなり渋い趣味である。牡丹の絵柄がヒマワリに、麒麟はふつうにキリンに見えるので、拝見の際に「ヒマワリ…キリン?」と首をかしげる方がたまにあるが、緞子にヒマワリとかキリンとか、そんなことあるわけないって…。
唐物のお許しを頂いたときには、即中斎宗匠(13代お家元)お好みの「不審瓢箪」を、薄い藤色の地で。唐物点前を許されるということは即ち「講師になる(なれる)」ということであるから、この袱紗も私にとっては特別な記念の品である。長女が唐物を許されたときにはお師匠さまからお祝いで唐物袱紗を頂戴し、私がお免状を頂戴したときには、これも祝いとして袋師・友湖さんの使い袱紗を賜った。袱紗とは、そういうことにも用いられる。
そしてこの度、この年を節目として永く記憶するために出し袱紗を新しく調えようと思い立った。
道具として求めれば、その記憶はたぶん私が死ぬまで途切れることがない。
茶人にとって道具とはそういう存在のものである。そこに物語が生まれ、その物語と思い入れを持ってお客様にお茶を差し上げることになる。この度この袱紗を求めるきっかけとなった思いと共に稽古を重ねていく、それは実に豊かなことと思える。
もしお客様からお尋ねがあれば、深い記憶に残る年に、日本橋の高島屋で、思い出を大切にするために求めたものでございます、とお答えすることができるだろう。
さすが日本橋の高島屋さん。何十枚もの袱紗のなかから、腰を据えてしっかりとえらばせて頂いた。水色の地、而妙斎宗匠お好み「松宝(しょうほう)」、薄い朱の地、即中斎宗匠お好み「青海波壷壷(せいがいはつぼつぼ)」かで葛藤した。悩んだ末に選んだのは、後者である。
つぼつぼとは、小さな丸い容器のことで、もともとは子供のおもちゃと言われている。利休さまのお孫さんにあたられる宗旦宗匠が、信仰していた伏見稲荷のお土産として売られていた田宝(でんぽ)という陶器のおもちゃを、その形の愛らしさから千家の替え紋にしたのがきっかけで以来この形を『つぼつぼ』というようになったとのこと。千家にとっては大事な紋様であり、私にとっては名字にゆかりがあるためとくに思い入れを感じる。
人が生きることは波のようであると思う。
ときに、翻弄され苦しいように感じながら、私たちの根本存在は決して揺らぐことがない。そのたしかな土台の上に、私たちは夢を見て生きている。その象徴としての青海波、そしてそこに遊ぶ私を示すようなこの紋様に思い入れを持ち、新しい年も稽古に臨んでいきたい。
さて、高島屋さん前のMARUZENで、探し求めていた歌集を求めることができた。さすが東京は文化の厚みが違う気がする!歌集がずらり、でしたよ。どうしても気になっていた、木下龍也「きみを嫌いなやつはクズだよ」(すごいタイトルだ)、雪舟えま「たんぽるぽる」の二冊である。歌集は今の私の心情にフィットするものとしないものの差が激しいが、これがダイナミクスってやつだろうと思う。来年、五年後、十年後、その都度違ったように歌集が読めるような日々を生きるんだ。
昨日もそんなこと言ってたな。 どうした?私。
鳥の見しものは見えねばただ青き海のひかりを胸に入れたり 吉川宏志
12月26日
「聖地・ゲートシティ大崎のスタバ」で残念なコーヒーを飲んでいる。昨日午後、上京した。米子空港で預けた荷物には「メリークリスマス!お気をつけていってらっしゃい」的なメッセージが添えられていて、宿で荷解きをするとき胸が震えてしまった。やるじゃん、米子鬼太郎空港。
さて敬虔ではない仏教徒である私もクリスマスに便乗し、鳥取県には存在しない成城石井でビーフンと杏仁豆腐を買い、ひとりシードルで乾杯した。実にクリスマスらしい特別感である。ハッピー・メリークリスマス!
成城石井の杏仁豆腐には、とてもしっかりしたゼラチンがトッピングされている。このゼラチンが秀逸なのである。コラーゲンは老化という病気の予防のためには重要なので積極的に摂取したいが、単にゼラチンをコーヒーに混ぜると修行感が出る。「健康のためには我慢しかないんだ!」という気分になるから、本当はもっと美味しく摂取したい。その夢を叶えてくれるのがこの商品。ただやはり砂糖は使用されているから、出張時1回限定の楽しみと決めている。欲を言えば、杏仁豆腐を1/5に減らして頂いてゼラチンを増量して欲しい。そうなると商品名はどうなるのであろうか。イナカ者が選択に迷わぬよう、商品名は現行のまま「杏仁豆腐」とし「ゼラチン増!」と謳って頂けると悩みが無くていい。ぜひ検討して頂きたい。
そう言えば先日、名古屋でO先生と生徒さんから「かよちゃんもジャンクなもの食べることあるの?」と訊ねられて「うん、あるよ。成城石井の杏仁豆腐。」とお答えしたら「それはジャンクとは言わない。」と諭されてしまった。そうなんだ。でも砂糖入ってるからジャンクだよ?
さて、安否確認のためにこのブログをご活用の皆様、私は今、大崎にいます。山手線で品川の次の駅です。知ってます?山陰には知らない人がいるような気がする。私は知らなかった。ちなみに、今年仕事で行くようになった田端も知らなかった。この大崎は長女の大学があるところなので、今後ますます仲良くなっていく気がする。
鳥取で盛んに言われているように東京が”超!危険”な感じはまったく致しません。人は皆、至ってフツーに生活を送っておられます。米子角盤町と同じく、スタバも人でいっぱいです。ただしスタバのコーヒーの味はいつも通りです。仕様がありません。
今回はCAFFE VITAのドリップパックの持ち合わせがないため、魂を売ってスタバでカフェ・アメリカ―ノを飲んでしまった。コーヒーマスター門脇師匠に申し訳ない…と思い、代わりにJK剣士に懺悔したところ、「いつも門脇珈琲ばかり飲んでいると、ほんとうに美味しいものの価値がわからなくなるのじゃ」という天の声を中継してくれた。そういえば亡きお兄ちゃんからも「旨いも勉強、不味いも勉強」って言われていたっけな。
大崎のスタバが私にとって聖地なのは、規夫師匠と初めて会い、その後数年間のコーチングをずっとここで受けていたから。
初めての時、私は受講予定だった統合医療学会認定療法士セミナーin東京大学鉄門講堂をブッチして、ここにいた。初めてお会いしたときの規夫師匠は、結構小柄だった(これ言っていいのかな?)。ところが数年の間にお体をどんどん鍛えられて、ボディもヘアスタイルもダイハードのブルース・ウィリスのようになった。マッチョなスキンヘッドである。しかも今年、コロナ禍で在宅ご勤務中に髭まで伸ばされた。「ハゲ×髭」はイケメンの鉄板。規夫師匠をどこまでも敬愛する私は、スキンヘッドの人を見ると萌えてしまうのだが、これに髭が加わると最強よね!
ここまで書いて、いったい今日はなんについて書くつもりだったのか忘れかけていることに気付いた。いけないいけない。
表千家で茶道を学び“同門会”という会に所属する私。毎月必ず1日に冊子が送られてくる。そのまま「同門」というタイトルで、お家元宗匠(猶有斎宗匠、表千家15代)や而妙斎宗匠(14代)のお言葉、お家元の稽古場のご様子などがうかがえる貴重な冊子である。
今年、なんども言っているけれどあれもこれも行事が無くなり、張り合いの無い年になってしまった。
筝曲の場合は、今春、職格者として本部の定期演奏会で初舞台を踏むはずだったのにお流れになってしまい、そこで弾こうとしていた「越後獅子」も凍結状態。今の自分の技量にとって背伸びをした難解な曲と、演奏会のために格闘して向き合い、挑むことは芸を磨いていく上でとても大事なことなので、それがフリーズしてしまったのはとても悲しいこと。職格者として修めねばならない曲はまだまだあるので時間はいつまでも足りないのだが、演奏会でご披露するために、先輩方との合奏を通じてとことん弾きこむのと、「やっとかないといけないからやる」のとでは身につきようが違う。
事程左様に「人様に披露する」という行為は重々しいものがある。芸の世界でもヨーガの世界でも、学びを深めるためには”師範“の立ち位置で人に教えるつもりで挑むことを求められるが、それと同じく”稽古でない場=ご披露の場”を求めていくこともとても重要である。それが例え内輪のおさらい会のようなものであっても、舞台に立つことは重々しい経験となる。こんなに年齢のいった私が職格試験に挑みたいと思ったのも、ある年の弾き初め会で、宮城道雄先生の「さらし風手箏」を同輩のR子さんと合奏したことが大きなきっかけとして、ある。
箏二面の合奏曲で、テンポも速く華やか。最終的には先輩の力をお借りしての合奏となったが、演奏後に、厳しいことでことに有名な尺八の先生が「この曲をここまで仕上げて見事である」旨仰ってくださったことは、先の道を求めるために強く背を押す力となった。
茶道では、茶の正月である11月に行われる茶会、年明けの初釜、そして講習会が中止。講習会は年に1度、講師以上は二日間連続できものを着て、2日間正座し続けるという過酷な会だが、これもまた普段の稽古では味わえないものを多く頂ける貴重な会である。
この講習会が無かったことを受け、同門会では毎月1度の冊子以外に、別冊を特別に発行して下さることになったという。題して「釜を懸ける心がまえ」。同門会理事長の三木町宗匠によると、「開催できなかった講習会の代わりとして、この別冊同門の刊行に到った次第」とある。有難いお心であるとおもう。同じく「叶わぬこと多き一年でした」のお言葉も、胸に染み入るように思われた。同じことを心に感じておられる方々が、どれほどおいでになるであろうか。
この冊子の内容に関しては詳しく触れることはしないけれども、どうしてもご紹介しておきたい一文がある。文章は、内弟子を経験なさり普段地方講習で講師を務めて下さる方のものであるが、ゆかしい伝統を守る表流らしくどの宗匠がお描きになったかは明記されていない。さすがだと思った。皆様お家元宗匠の下で茶を学ぶ者として、誰かが特別であるということはないとのお心の顕れだと思う。表流のこの在り様を私は心の底から尊いと感じ、この道を歩むことを許されたことをこの上なく光栄なことと思う。
「お茶は五十歳、六十歳になり、本物の諸々が身に付いた時、いかようにも対応でき、融通無碍の境地で、主客が一体となり、悠久のひとときを共有できる」
今のこの国では、若いことやお金を持っていることがもてはやされる風潮にあると思う。
しかし私が身を置いている文化はすべて、若さは無智であり愚かであることを知っているし、お金で買えないものにこそ真の価値があることを理解している。
今私は40代で、もし未だに前職のままだったら、定年を目前にして後輩や部下から頭を下げられる立ち位置にあったのかもしれないが、今私が生きる世界のなかでは私は圧倒的に若輩者である。それは実にありがたいことで、今こうして生きる中で私に関わって下さる年長の方々に、心からのお礼を申し上げたい。
もし天がそれを許してくれるのであれば、50代、60代、そして師匠のように80代になった自分の目で世界を見、経験してみたい。その年齢になり得たとき、今の自分を笑い飛ばせるような道を、弛みなく歩んでいかれればと思う。