蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№486 死んだらダメ

なきひとはひかりをとほしゐたりけりこのわたくしはひかりをかへす  小池純代

 

  

数日前から今ひとつ元気が出ない。こういうときは、さらに気分が沈むようなことごとが耳に飛び込んでくる。
今日は暗い話を書こうと思っている。元気を出したい人は、読むのをやめてください。ごめんなさい。

 

 

思えば子どもの頃から、その折々に内面に在るものと外界に対峙する自分には乖離があったように思い、いまここでなにかをしている自分と、本当の自分は別もののように思っていた気がする。20代になるとその乖離は一段と強まり、いったい本当の自分なるものがあるのかないのかわからなくなったが、こんなに苦しいのであれば苦しんでいるのは本当の自分なのだろうと思っていた。

先日の中級講座で、段階が上がってしまうときの病理について改めて学んだが、なるほどそういうことであったかという気付きをもらった。ほんとうの自分なるものと、ペルソナの自分が統合される過程に味わった苦しみは今も覚えている。何年もかかった過酷な作業だったが、自己たる私にとって大きな価値のあることだった。

なのでたぶん、今の鬱々とした気分も人に聞いてもらえば「なんだ、たいしたことなかったな」ということになるのは理性ではわかっている。が、同時に、この過程を堪えるしかないこともわかっている。見えている表面的な現状は問題の核ではないことも、そして問題などそもそもどこにも存在しないことも。

 

 

長女を妊娠しているとき、精神的にはどん底の状態にあった。一度目の妊娠を早期流産で終えたショックから回復していなかったのだが、思えば当時利用していた医療機関の対応は最悪だった。早期流産は重い生理と同じようなものと言いながら、次の妊娠で無事子供を生むしか今の状態から脱する方法はないと、これは男性医師の言葉。助産師は未婚で出産経験がない。子宮内膜症を煩っており、自分は妊娠もできないかもしれないのに、子供ができただけいいじゃないかと言う。

20年経って初めて、あれは医療機関が女性にしでかす暴力のひとつであったと気付く。きっと、状況は今もさほど変わっていないのに違いない。昨日読んだ本にもそのことが指摘されていた。

ちなみに私は、妊娠出産を通じて、母親を含む女性親族のサポートをほとんど受けていない。なので、流産や妊娠がどれほど女性の心を苛むのか全くわからないまま、未熟な個人の一体験として苦しみと対峙した。こういったことは、過去数えきれないほどの女性が経験してきた集合的な経験であり、叡智もまた内包されているということを知らなかった。
これを読んでいる若い女性がいるのなら、親でなくともいいから、複数の出産経験があって、ただし心理的に器の広い女性にとことん頼るべきだ。経験を一般化するような人の話は聞かなくていい。あなたは、あなたにしか経験できない妊娠や出産の道を歩むのだから。


当時、マンションの7階に住んでいて、航空自衛隊岐阜基地各務原飛行場が一望のもとに見渡せた。例え仕事を休んでいても、朝8時には1stフライトで多数の航空機が訓練空域に向けて順次離陸していく様が見え、戦闘機が加速するときの爆音で窓が震えた。
余談だが、飛行場のある基地に勤務した自衛官なら、エンジン音で航空機を特定できるようになる。後にこのことが自分を悩ませ、家を捨てて逃げ出す羽目になろうとは思わなかった。

 

流産後ほどなく妊娠できたのに、この7階から飛び降りたら間違いなく死ねる、と思いながら飛行場を見ていた。そうすることなく今に到り、長女は美しく健やかに育った。受精前の母親の精神状態も、子の心身の健康状態に影響するとアーユルヴェーダでは言うので、この子の性格に生きにくいところがあるのだとしたらそれは私の責任であるのかもしれないし、この子がそういう状態の私をあえて選んでやってきてくれたのかもしれない。Yogaの専門家としての私は、後者の意見を選択したい。それは間違いなく、私という存在にとっての救いであった。

 

後年、この同じマンションの一階下から上司が飛び降りた。
女性を初めて配置する部署で勤務した際、「女にこの仕事ができるものか」という声から、直属の上司として様々に守ってくれた人。沖縄出身で歌が上手く、お酒を飲んだら踊り出す。心根の優しい人だった。この上司のもとで私は自分の居場所をつくり、厳めしい上司や先輩たちに階級氏名ではなく「かよこ!」と呼ばれ、怒鳴られ愛されながら、航空機部品の巨大なモジュールを航空機牽引車やフォークリフトで運ぶ技術を身につけ、徹夜で航空機運用の後方支援をした。自分のあとに、多数の女性が続く礎をつくり得たと思う。

 

この部署で一緒に働いた人の、二人が自死している。
先述の上司、そして私が仕事を叩きこんだ後輩。その報に接したとき、「死ぬなよ!」と激しい怒りとともに思った。腹が立って仕様がなかった。弔問に行ったときにも、遺影を泣きながら睨みつけて心のなかで「バカ!!」と叫び、安らかに眠ってくれとは思わなかった。
でも、自分だってたまらなく苦しくて依願退職を選択したとき、誰にもほとんど相談しなかった。たまたま救ってくれる人に出会えたから結末が違っただけで、ほんとうは彼らと同じだ。

 

こういった過去の経験が自分のなかに詰まっている。今も私のなかにこの二人は確かに生き、突き動かすようにこの仕事をさせる力となっていると思う。「かよはどんな仕事をするのか?金に魂を売るか?」と語りかけてくる。

そして今日もまた「家族ってなんだよ?!」と思う。
だから子供たちとは「家族」という名称に甘えない人としての関係性を構築したいし、クライエントの方々や師匠方、友人とも同じくである。

 

主体的に人として生き、関わる先に人間関係が生まれる。
ただ家族であるだけでない信頼関係を育てることに力を注ぐか、新たな場で深い関係性を築いていくか、どちらでもいいと思う。ただ、愛し愛されているということを思い出してこの世を去る日を迎えて欲しい。どんな人も。

そして、死んだらだめ。どんなに苦しくても。お願いだから。

 

 

 

 

№485 愛し、愛されたい

このひとに触れずに死んでよいものか思案をしつつ撒いている水  陣崎草子

 

 

 

クライエントさんが面白い話をお聞かせ下さった。
SMの女王様とお酒を飲まれたとのことで、森に棲む小動物のように平々凡々な毎日を送っている私には知り得ない秘密の世界の話。

マゾの方は「女王様の言うことはなんでも聞きます!」と口では言いながら、自分独自のストーリーを既に持っていて、そこに固執しておられるそうだ。女王様はその欲求に応えつつ、言葉にされない要求を汲み取って行動する能力が必要とのことで、どの世界でも王者はストレスフルな在り様を迫られるのね、と目頭が熱くなった。
お説教してハイヒールで踏むくらいなら私にもできるのではと思っていたが、心を入れ換えて謙虚になろう。レッスンをサボったら踏ませて頂こうかしら、くらい?

 

とても興味深い世界だけれど、そこに触れることは難しそう。
男性40人:私1人などという圧倒的男社会で17年過ごした。入隊した当時はセクハラなんて言葉はなかったから、胸やお尻を触られてもにこやかに反撃し、きわどい話題には「なんくるナイサー」という顔で微笑んできたが、ほんとのところは臆病なのだよ。
今は伝統的な世界でお行儀よく生きていることが心地よい。今後もこの路線で進んでいくのが良かろうと思う。女王様は眩しすぎる。

 


現在の興味関心は、専門であるヨーガ療法を超え、肉体を通じて、肉体を含むより次元の高い健康に至ること。そこには魂も、精神も、対社会的な在り様も、他者との関係性も含まれるだろう。

ヨーガ療法は、現時点で苦しさや悩み(主訴)を持つ人が健康に至る方法論。
伝統的なヨーガは、既に健康である人がより高い健康と人格の向上を目指す道であり、ご本人の視野に入っていない部分も含めて、統合的に健康が達成されることを目指したい。

ただし、伝統的なヨーガの世界では性愛やパートナーシップの領域は忌避(抑圧?)されているので、その部分は再認知されねばならないと考えている。

 

 

人は自らのうちに、他者を抱き、含んでいる。
私たちの生命原理であるアートマンは心臓内の歓喜鞘に座し、万処・万物に遍在するブラフマンと同一であり、決してわかれることがない。かつて一度たりともわかれたことがない。ただ存在する場所が違うだけだ。

そのことが意味するのは、あなたもわたしもひとりぼっちではないし、しあわせな存在だということ。喜びが一瞬の幻なのではなく、苦痛こそが幻だということ。そう信じていたいという祈りだったとしても。

そのことにYogaを通じて気付いていくならば、それは Bhakti Yoga(バクティ/愛のヨーガ)になる。
Raja Yoga(ラージャ・ヨーガ/王道、王者のヨーガ)は自助努力を通じてブラフマンを目指す上昇の道、Bhaktiは大いなるものに身を委ね、明け渡す下降の道。信仰を通じて、肉体を含む五蔵は至福に到る。もちろんYogaだから、ひとりでできる。

でもそれを他者とともに行うこともできると思う。それが意識的なパートナーシップ。
もともとわかれていなかったことを思い出すのに、誰かと一緒に過ごしたり、対話したりするのはとても大事な方法。そして修行よりずっと優しく、あたたかい方法。ただし、決して容易だとは言わない。

現代社会では、家族や職場内の人間関係がストレスフルなものに変質している可能性が高い。そういうところであたたかい関係性を渇望すると、新たな悩みや争いの種が生まれるように思う。制度に守られた関係性において幸福になるために、いったいどんな技量が必要なのか私にはわからない。だから私からは、そこでのパートナーシップ改善には触れずにおきたい。もちろんその方面を専門にしている方もおいでになるはずなので、必要な方はそちらを求めて欲しい。

 

1対1でなくてもいい、1対多でもだいじょうぶ。
だからまずは、グループでの活動に参加するところから始めるのがいいと思う。
これが私たちの考えている「第三の場」。レッスンや稽古、何かしらの学びの場はこの第三の場になり得るし、運営する側がその意識を持っていたい。レッスンの先に生じるなにかを含みつつ、そこで得られると当然期待される効果以上のものを育みたい。

 

誰かに触れることやハグすることを通じて、自分のなかの情熱に気付いてほしい。
愛し、愛されたいと思っていいのだから。
そうされる資格も価値も、あなたにはすでに備わっている。思い出してほしい。

 

 

 

№484 生きることの喜びを

風を浴びきりきり舞いの曼殊沙華 抱きたさはときに逢いたさを超ゆ  吉川宏志

 

 

昨日は、長女と二人、最寄りの書店併設のカフェで、おいしくはないコーヒーを飲みつつ読書。気分転換に書店内を散策(ハンティング)したところ、「女性の健康」の棚に興味深い本があったので早速購入。今日にも読了する勢いである。


私たちは自分のことはなんにも知らない。ひとのことはわかった気になっている。
自分がなにかを恐れ、親密な人間関係のなかでその“なにか”を巧妙に避けているかを理解していない。目の前の相手と、ことばやそれ以上のもので深いコミュニケーションに到ろうとすることもほとんどない。


その上、女性は自分のからだのことすら知らない。からだの底にある神秘的で美しい部分を、自分の目で見ることもない女性が世界中にたくさんいると知っているだろうか。自分のからだについて知らず、女性同士で情報交換もしない結果、無智と恥が覆う領域が生まれる。男性が仕切る社会で好き勝手に扱われ、恍惚を感じることなく産めと言われているのだ。もしあなたが女性ならば、自分がただの穴のようだと思ったことはないだろうか。残酷な、そして現実の話だ。

 

私が10代の頃と、状況はほとんど変わっていないように思える。結婚生活はおおむね不幸な結末を辿る。皆がそんな感じであって、特段珍しくも不思議でもないことだと知っていればまだしも、パートナーシップにおける問題を自分ひとりの努力不足に帰結させ、諦めて口を噤む。この充たされなさを誰かに話すこともできない。そもそもそんな話を聞いてくれる人が、この世のどこにいるというのか? そしてちょっと意地悪になって、人の不幸を喜んでしまったりする。とても哀しいことだと思う。

 

 

今、私は大きな声で叫びたい。自分のなかで激しい波が立っている。

この夏、背後から私を追いかけてきたテーマがあって、首根っこを掴まれた。次々に関連書籍と出会い、人に繋がり、体験が蓄積し始めている。ひとが私に打ち明け話をしてくれる。肉体と人間関係に潜む闇、でも間違いなくそこに光も存在する。玄妙の世界とはこんなところなのか。Yogaと同じくこのテーマからも、おまえの身を捧げよと迫られている気がする。

 

多くのひとは自らのからだのなかに在って心地よさを感じていないし、YogaとAsanaを混同している。Asana(アサナ、体操のこと)をしても、Yogaの境地に達するかどうかはわからない。Yogaとは至福、そして囚われのない安心の境地。Asanaはそのためのチケットだから、どこにもいけないAsanaのためにあなたの時間を無駄にして欲しくない。

自分自身に対する感度がそもそも低いので、気持よさというものをほんとうには理解できていない可能性がある。あなたのこころやからだ(五蔵)、あなたがこれまでに経験し蓄積してきた過去の記憶(心素)、そこで構築されたあなたの自己概念(我執)、それらとあなたのするセックスやあなたが食べるものはけっして切り離されることが無いはずなのに、あれとこれは別の話になっていることが多い。

 

現時点で、私のクライエントは30代以降の女性がほとんどである。気の置けない方々に今の自分の興味関心から、いくつかのことを尋ねてみると愕然とする。全存在として充たされ、幸福であると感じているひとがほとんどいないからだ。いったい私は教師としてなにをしてきたのか。そして私は、いったい世界の何を見ていたのか。

 


伝統ヨーガでは、ヤマ・ニヤマの教えにおいてブラフマチャリヤ Brahmacharyaという戒律を持つ。禁欲と訳されるこの規律を、ガンジーは「結婚していたとしても妻との間にこの教えを守れ」と語る。これは狭義の考え方である。

デボラ・アデルはこの教えを「不過度」と捉え、食物やセックスの慰めに頼らず感情に向きあうことと解釈する。こちらの方が親近感を覚える。ブラフマチャリヤは文字通りに解釈すると「神と歩く」ということで、見るものや体験することのすべてに神秘を見つけることだ。

正統的なRaja Yogaの流れに連なる私は、この先一生、肉体を通じて人と愛し合ってはならず、その代償として1万回輪廻したあとに解脱に導かれるのか?

 

 

来月の初めに、鎌倉の海岸で秘密の会が開催される。修行や努力という上昇の道ではなく、身を委ね、堕ちゆくような下降の道の重要性を心身で体感しようという飲み会。
そこに私も乱入して、自分のなかに蠢くものを規夫師匠に開示しようと思っている。

 

師匠、私は過去の自分に向かって叫びたい。
お前は無智であっただけでなく、バカだったと。
生きるということを全方向から味わい、そこから喜びを得て、それを力として人に向かって叫びたい。みんなもっと、自分の幸せに責任を持たなきゃダメだ。あなたの悩みは、多くのひとが感じているものと同じ。だからSUKKA(快)の道を選べ、と。

 

 

このブログは、オランダの洋平先生に向けた狼煙の役割も持っているから、私の背を押してくれるこだまがいつか響いてくるかもしれない。ぼんやりして聞き逃さないよう、心身を研ぎ澄ませていよう。

先生、私はようやく本が書きたくなりました。

 

 

№483 ほんとのところ

生えぎわを爪弾きおれば君という楽器に満ちてくる力あり   俵万智

 

 

 

11日ぶりに自宅で迎える朝。夜半、足元に生きものの気配があった。一匹だったのか、二匹ともだったのか(我が家には猫がいる)。娘がiPhoneで設定している目覚ましが鳴り、手を伸ばしてくる。JK剣士の肉厚の、でも可愛らしく暖かい手。

 

起きてすぐの第一声は「目覚ましじゃないやつも鳴るに」。
設定している目覚まし以外に「目覚ませ!」と勝手に鳴るやつがあるのだと。それはあれか、母さんの念みたいなものか。愛だな。君のiPhoneはすごいな。

 

 

故人愛用のバッグ等を次女が譲り受けた。良いものを長く愛用する彼の姿に憧れ、それを真似ようとしてきた子なので、物に対する愛着と「しげちゃんのもの」だったことが重なり、更に深い別の思い入れを育んでいくことができるだろう。
今朝は、奥さんが届けてくれたそのバッグを背に、力強く登校していった。

 

 

瀕死寸前の花たちの手入れをしたが、娘の今の技量ではここから先はどうしていいのかわからなかった困惑が伝わってきた。
「ここを切る?切らない?これは使う?使わない?」という決断が花活けにはついて回る。これが想像以上に心に堪える。ここを切ってしまったがゆえに、もう二度と再現できない美しさがあるとしたら(あるような気がして)、切るのが怖い。私は花のことを語れる立場にはないが、「えーい、もうここはザクっと行っとけ!」という潔さと、失敗した場合になんとかごまかすリカバリー力は、歳と共に逞しく育っている気がする。若く可憐な娘には、まだその自由がないだけだ。

茶の湯では、茶室に活ける花は「野にあるように」と言われる。
そのものが、今あるような姿でそのままに用いるということが何よりも大事なのではないかと思っている。短かくても長くても、枯れる風情を見せていても。

 

 

新しいクライエントさんとのレッスンが始まっていく中で、やはりYogaは体操だと思われているとひしひしと感じる。誰も悪気なんてなくて、むしろリスペクトする気持ちをもってそう思ってくれている。実際にYogaの身体的なアプローチは強力なものだから、そう思われることはなにも不思議ではないと思う。

でも、先程花の茎に鋏を入れながら考えたのだが、Yogaのアサナ(体操)って実は歯磨きみたいなものではないかと思うのだ。

あなたの村に、いつも心穏やかな人がいたとしよう。
実はその人は、この世の真理を知ることに真剣に取り組んできて、なんとか自分なりにそのことが理解できた。いつどこにいても、なんとはなしに根拠のない至福を感じ、まあ生きていてなにごとが起こっても大丈夫なんじゃないかなあと思いつつ、しあわせに生きている。

その人は至福のうちに生きながら、毎日ちょっと変わった歯磨きをしている。もちろん歯もピカピカで、いつも美味しそうに物を食べている。

それを見ていた村の人は「あんな風に歯磨きしているから、あの人はあんなにしあわせそうなのかな」と思って羨ましくなる。「俺もあんな硬い木の実をバリバリ食べたい」とも思う。
なので、その歯磨きを教えてもらえませんか?と頼む。
しあわせな人はそれを断る理由はないから、もちろん歯磨きを教える。
だって歯磨きを教えてって、言われたから。

 

でも本当はみな「楽になる」方法が知りたい。だから問自体が間違っている。

 

 

その動きの先に、なにを求めているのか聞いて欲しい。
Yogaを通じて私たちが手にしたもののなかに、自らの身体的イメージと乖離していないしなやかな肉体と、深い呼吸によってもたらされる肌の透明感があったとしても、目を閉じてしか見えないものに心を寄せて、心を超えたところで私と話をしよう。

その領域にはもう言葉もない、私とあなたを隔てるものもなにもない。だからあなたと私はひとつである。
私が素晴らしいと思っている歯磨きであり体操をあなたにもやってもらうことで、私たちは何を交歓しようとしているのだろう

 

だからどうしたらいいのかな、と今朝は考えた。

今日は何をしましょうか?ということの先に、「Tat tvam asi(あなたとはそれである)という言葉について話をしてもよいですか?」とか「Yogaの考える良い働き(Karma Yoga)ってどんなものか興味ありますか?」という問いかけがあるといいのではないか、と思った。
その途端、おや、それは伝統的Yogaのダルシャナそのものじゃないか、と思い至った。

「こんな話があるんだよね」と話して聞かせるのがシュラバナ Shravana 、
「ふーん」と考えるのがマナナ Manana 、
「それって凄くない?!」となるとニディディヤーサナ Nididhyasana。


やっぱりお題は大事だよ。
師匠 Jnana Yogi、私もようやく分かりました!

理解が遅いなあ。

 

 

№482 素敵な年上の人と

人はみな馴れぬ齢を生きているユリカモメ飛ぶまるき曇天   永田紅

 

 

 

無事帰宅。玄関の花と、デッキの鉢植えが渇きに苦しんでいる。
なぜ君たちは(流儀花を学んでいながら)この苦しみを見て見ぬふりができるのか、教えておくれ。

 

若い頃から飄々としてものに構わぬ性質であるとか、大概のことには動じないように見えると言われてきた。本人は至極繊細なつもりでいるので、そういうことを言われるとムッとする。とは言え、我が娘よりは倍以上でも、茶の師匠からすると半分ほどにしか過ぎない来し方を振り返りつつ人の話に耳を傾けるとき、あまりビックリすることがないのは確かかもしれない。

ヨーガ教師はネタ満載の過去を持っていることが大事だと、西宮の古市先生がヘルシンキの町で教えてくれた。ヨーガ教師として長く生息している面々は、誰もかれも濃いエピソードを持つ一筋縄ではいかない連中ばかりである(先生方、ごめんなさい)。そしてそのエピソードがオープンであって、集中修行会で師匠からネタにされる。そのような先輩方のなかではものの数に入らぬはずの私だが、確かにネタにされたことがあるな。しかも全国配信されていたっけな。

 

 

思えば10代の初めから親に絶望していた可愛げのない娘だった。
育ててもらった恩はあるが、人として尊敬はできないなと思う小学5年生。
自分が子を持ったとき、子供とは親のことをそんな風に見る残酷な生きものだと知っていたから、残念ながらあなた方の親は救い難いバカであること、世のなかにはもっとましな大人がいるので絶望する必要はないことを学ばせるのが私の役割だと思ってきた。Yogaを始めて少し智慧がついてからは、無条件にただ愛することもミッションに加わった。

 

なので、うちの娘たちは、ふたりとも生まれて数か月で茶室デビューをした。
それぞれ別の土地で、別の先生のご厚意の下に、乳飲み子ながら皆様と共に稽古場に入ることをお許し頂いたわけだが、今自分の茶歴が20年にもなって改めて、この先生方の豪気さに思い至り、改めて驚く。

 

私に決してお聞かせにはならないご苦労があったことと思う。様々な人が稽古に上がられるのだから、子供が苦手な人もおられたと思うのだ。乳飲み子だから煩いし、当時の若い私は今よりもっと弁えがなく無礼であっただろうし、でもそんななかで「諦めてはいけない」ということをはっきり言われ、なにより師ご自身の態度をもってそれを叩きこまれた。
「誰になにを言われても、一切気にするな」と。

 

 

親は親なりに必死に私を育ててくれたとわかっている。あの人たちがいなければ、私はこの肉のからだをもって現し世に存在していない。毎日のYogaも行じられなかったし、子供を持つこともできなかった。この手で猫の柔らかい被毛を撫でることもできなかったし、大好きな人の逞しい上腕二頭筋に触れることもできなかった。だから恩義がある。そのことを思うと自然に頭が垂れる。有難い、と。

 

私の内面を滋養してくれたのは親以外の人たちだった。それでいいと思う。そういう役割分担と決めてこの世界に来たのだから、どちらもなにも間違っていない。私たちのチームワークは完璧だった。これまでも、今も。

 

 

人と関係性を深めることに面倒さを感じ、「もういいかな」と思う癖がある。私のことは放っておいてくれないかな、あなただけ先に行ってもらえませんか、という思いが湧き上がる。もしくは絶対に自分の本音を気取られないように楽しげに振る舞う。これは親子関係に由来するシャドウであって、まっすぐそこに向かいたいと心が渇望するものを諦め、本心を隠すことが生き抜くために必要だったかつての自分を、客観視し続けていかねばと思う。いつか解放される日が来ると信じて。

「諦めるな!」と最初に怒ってくれたのは、高校で日本史を教えてくれた猿渡先生。次がお茶の高橋先生。あなたが絶対にあきらめないとき、必ず支えてくれる人が現れる、という言葉を私は茶の湯修行のこととして聞いたが、あれは人生すべてにおけることだったんだな。私はようやく、そういうことがわかる年齢になれたんだな。

Yogaが教えるとおり、加齢は救いだと思う。

だから今、娘たちが枯れた花を放置することもまあいいかと思う。君たちは若すぎるんだよ。若さという重荷を負っているのだから仕様があるまい。がんばって生きろ。
あなたたちは、生まれたときから稽古場に入れることが許されていた。そんな贅沢な人生ってたぶんそんなにない。だからゆっくりと育っていって、そんな経験をしたことをどんな風に世界にお返しすればいいのか、考え続けて欲しい。

 

 

でも年を取るだけでは救われないよね。救いになるような加齢を求めろということか。

素敵な年上の人のそばで時を過ごし、理想の姿を思い描いていかなくては。
洋平先生も「人生は65歳から」と仰っていたから、はじまりはまだまだ先だな。

もし、長く生きることが許されているのであれば。

 

 

 

№481 リアルなハグをしたい

簡潔に君が足りぬと思う夜 愛とか時間とかではなくて   俵万智

 

 

本日帰宅する。いったい何日経った?
私は旅行準備が嫌いである。「出かける」という行動準備のための思考(何がどれだけ必要?気候は?会う方は?何を着る?……)を減らしたくて、一度出かけたらひとしきり動き回って帰りたい。一旦出てしまえば、何が足りなくても対処するだけだ。
この旅行日数、そして冬の嵩張る服を収めるのに、今のスーツケースでは容量が足りないのが悩ましい。約20日後にまた旅の人となる。

 

先日、名古屋駅でさとちゃんと会った。
山本屋本店で味噌煮込みを食べながらダルシャナをする予定が、こちらの都合で開始時間が遅れてしまい、山本屋の前には長蛇の列ができていた(みんな味噌煮込みが大好きなんだ!)。そのため、急遽えびフライを食しながらのダルシャナに変更となった。
実に立派なえびフライ、とても良心的な価格。名古屋の食文化は豊かである。

 

 

教師と呼ばれおり、教える側に立っている。
私がなにかを誰かにお教えするという態になっているものの、ほんとうのところどうなんだろうか。

存在は織物のように緻密に関係しあってここにあるものを、どちらに立つかなんて変更可能な座席指定のように思える。あたかも私が話したことの結果ポジティブな変化が起きているようにみえるが、それは錯覚かもしれず、貢献も成果もすべて絶対者ブラフマンに帰するものだ。私の存在の核がアートマンであるなら、そういうことにしかならない(これがKarma Yogaの考え方)。
でもこの世は神の遊戯・LILAなのだから、この神聖な遊びで与えられた役割を、どこまでも真剣に果たすのが大事なのだと思う。私はこの現世での遊びに及び腰になっている部分がある。特に金銭という側面で。


この日、立派な二尾のえびフライを前に、さとちゃんは私をなんどもハグしてくれた。席が対面のカウンターだったので、ハグされている私と、涙を流している私たち二人を、向かいの席にいる年配の女性が戸惑ったように見ていた。

 

さとちゃんは、友人を亡くした私の嘆きようが足りないことに気付いている。
数日間そばにいて手を握っていたことで、僭越ながら二日ほどこの世で一緒にいられる時間を伸ばし得たように思いつつも、彼の苦痛を伸ばしたようにも思ってしまう私のために泣いてくれる。


泣くなと言われれば泣きたくなるが、泣いていいよと言われると泣けない。
なので少しずつ、私なりの弔いの儀式をしている。私がひとりで行くバーがこの世に二軒だけ存在するが、その店でマンハッタンとXYZを飲もうと決めていた。友人とは何度もお相伴させてもらってきたが「XYZっていうのは、もうこれでお仕舞だよって意味なんだから、一杯目に飲むなよ」とツッコまれたことがある。彼が逝って以来、「これでお仕舞」という言葉が頭のなかを巡ってやまない。
からしばらくのあいだ、できるだけどこかでXYZを飲みたい。ひとりで行ける二軒の店では無事に献杯を終えたので、一緒に飲んでもいいよという人は声をかけてくれると嬉しい。

 
“SAT CHIT ANANDA”
私たちみなの心臓のなかに住まいする純粋意識こそが真実在であること、そしてそれが至福そのものであることを示す言葉。たったひとりで完璧に充たされ、歓びにあふれた存在であるこの意識は、楽しむために自らを二つにわけた。だって、ひとりでは愛し“合え”ない。
男女が抱き合ったような形であった純粋意識が、その在りようを存分に楽しむためにわかれたのに、わかれた途端私たちは記憶喪失に陥り、本来ひとつであったことを忘れた。そして孤独の苦しみのうちに生き始める。 ひとつであったことを思い出すために、人は永くYogaを求めてきた。4000年ともいわれるYogaの歴史は、人が人を愛することを諦めなかった歴史かもしれない。Yogaを通じて自らと出会い直すことと、誰かと愛し合うことは、本質的には同じ行為だから。

 

なにも嘆く必要がない。離れていて寂しいと思う必要はない。
でも限りあるからだをもってここで息をしている私たちは、今この瞬間、遠く離れている誰かを思って切なくなる。逢いたい、声を聴きたいと思って胸が震えるのは、私たちがブラフマンでありアートマンだから。本来ひとつであることを存在の中心で確かに知っているから。わかれたくなかったのに、わかれたからこそ抱き合うことができる。それはなんて素敵なことなんだろう。

 

あらゆる感情をジャッジすることなく、この肉体という器で抱き留めて生きたい。
もう会えないひとを思って泣けないこと、また逢えるひとと離れたくないと泣くこと、その双方が、存在そのものに対する祝福であるように思う。

 

さとちゃん、ありがとう。やっぱりリアルなハグは最高だね。

№480 応えてくれるから


「はなびら」と点字をなぞる ああ、これは桜の可能性が大きい  笹井宏之

 

 

 

昨晩は、神戸・二宮の定宿兼鉄板焼き屋で夕食。ちょっとやけ酒。
ジュンク堂で入手した笹井宏之の歌集を読みながらビールを飲んでいたら、常連のオバちゃんが「何読んどるの」と訊ねてくれた。「短歌です」と答えると、「ほお」と普通に応じてくれて(きっと「ミステリーです」と答えたとしても同じ反応)、愛を感じた。

定宿のオーナー善さんが経営する店は桜尽くしである。
看板に“さくらデザイン事務所”とある“さくらバー”(バーの看板はない)。鉄板焼き屋さんは“ちえり”、これはCherryの意でやっぱりさくら。
どうしてあなたはそんなに桜が好きなんだろう。私も桜が大好きだけど。

 

 

昨日は、神戸・御影公会堂での一カ月ぶりのレッスンだった。
10年以上レッスンをさせて頂いているが、近頃、出会うクライエントさんが変わってきている。その方の目指す状態があり、それに対して行法を提供すると、日々ご自身で取り組んで下さるので変化が生じる。何かを変えられるかもしれない希望としてのヨーガ活用は、お互いをしあわせにし、ヨーガ(の神様?)も喜んでいると感じる。

御影でのレッスンは、これまで長いこと行ってきたものと同じ。風が吹きすさぶなかで大声で叫ぶような(こっちに来ないと迷子になるぞー!)。声はもしかしたら届いていないのかもしれない。私のやっていることは役に立っていないのかもしれない。
皆様、私のことは大好きでいて下さる。それはひしひしと感じる。でも私は頓服薬だ。会ったときだけ楽になれるクスリ。ちょっと麻薬っぽくて、依存性もある。でも合法。

ヨーガの行法はどんなに素晴らしくても、身体的にはせいぜい24時間の効果しかない。ヨーガをやった日だけ眠れるという人も多い。「この人は痛みがあるらしいから、さっきやったポーズを教えてあげて」と言われて、教えたとしても続けてやらないから効果が持続しない。「痛みはどう?」「痛いです」「教えたことやってる?」「やってません」というやり取りは不毛で、ドッと疲れて御影を後にした。
 

私を救えるのは私だけ。人はみな、自分自身の幸福に責任を持たねばならない。
だから「しあわせになるぞ」という決意が必要。「しあわせになれるんだ!」と思えることも大事。

 

自分はこんなふうだから、という決めごとを持っている人が多い。体に対してそういう誤った思い込みを持っている人も多い。そんなことはできないよ、という前にやってみるといい。あなたがやり方にさえこだわらなければ、からだはきっと応えてくれる。
だからみんな、身体からアプローチするといい。たかがカラダ、と思っている人が多いけれど、からだがどれほどの叡智を内在させているのかわかっているのだろうか。

こんなにも変わることができる、という変容の種を、からだは内包している。そのことに気付きたかったら実際に動いてみるしかない。目を閉じて、わたしのなかに耳を澄ませていくしかない。

 

あなたの表情や、言葉や、ため息も、からだから生まれている。でも、ひとりでやらなくていい。どうしていいのかわからないのは、悪いことではない。誰かと一緒にやることでわかることがたくさんあるし、声をかけられることで見えてくるものがたくさんある。
ほんとうは誰かを好きになって、そして誰かに愛されて、その人の目にうつる自分自身と出会っていければもっといいのかもしれない。

 

あなたはもっと楽になることができるし、楽にならなくてはならない。そのとき、じぶんがどれだけしあわせだったかを思い出し、深く愛されてもいいのだと気付く。
だから、まずあなたのからだを楽にしてあげて。

 

 

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神戸・二宮、さくらバー。外観とコースター。