蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№471 五蔵と感情

星の死を知らずに生きていくように君の不在が日常となる  谷川電話

 

 

 

昨日、肺と悲しみについて書いたので、今日は五臓と感情についてお話しておこうと思う。

 
五臓とは、西洋医学でいうところの内臓の概念とは異なる、人が生きるのに必要な働きを五つに分類したものである。
(ヨーガの五蔵説では「蔵」、漢方等の五臓は内臓の「臓」の字があたっている。)


西洋医学では「腎臓」というと、血液を濾過して尿を生成し体外に排出する臓器だが、東洋医学ではもっと大きな意味で「生命力の宿るところ」と考えている。

ちなみに腎の働きが低下すると、むくみや冷えを招き、ホルモンに関わって女性の月経痛や不妊の原因にもなるとされるが、西洋医学でこれらの症状の因を腎臓と関連付けては考えない。腎は知能にも関連するため、弱ることで認知症になるとも東洋医学では考えるそうだ。

 

五臓とは人間が健康に生きるための要であり、人間も自然の一部であるとする東洋の世界観と調和している。

ヨーガでは肉体を「食物鞘」として、もう少しひろい枠組みで捉えている。ヨーガやアーユルヴェーダの世界観は垂直的、中医や漢方の世界観は水平的、と伺ったことがあるが、そのとおりだなと思う。

5つのエネルギーがこの世を支えているとするのは、数としては同じ。
インドでは五元素/パンチャ・マハブータの中に「空(アーカーシャ、空間のこと)」や「風(ヴァーユ、ものを動かす力)」が含まれているが、中国や日本に渡る過程でこの二つは当然そこに在るものとして明記されなくなり、「木・金」の要素が加わって五行となったのは興味深いことだと思う。個人的には、空・風は意識させる方向で圧をかけて欲しいような気がする。

 


さて、五臓六腑の働きと七感情についてみてみよう。
五臓にはそれぞれ対応する”六腑“というものがあり、ペアになって働いている。五蔵の次にカッコ書きで示してあるのが対応する六腑である。

 

肝(胆):
氣や穴の流れを円滑にして行き渡らせる働き(疎泄作用)。血を貯める蔵としての働きもある(蔵血作用)。
情緒の安定と深く関わる。「怒り」に相応している。「カンにさわる」という言葉があるとおり、怒りっぽくなるのは肝と関係している。
目と密接に関係している。

 

心(小腸):
人間の生命にとって最も重要であり、強い陽気を持つ心。五蔵と六腑すべてを統括するリーダー的存在。五蔵の持つ固有の機能を調和させまとめてくれている。
血脈を司り、血(けつ)を全身に巡らせる働きをしている。
「喜ぶ」「楽しむ」という感情に対応している。テンションが上がり過ぎたり、長く続きすぎると気・血の巡りが変調を来し、真の働きを損なう。
心は舌と繋がっている。舌の先を見れば心の状態がわかる。

 

脾(胃):
脾は胃と一体となって消化吸収を司る。飲食物から栄養を取り出し、気・血・水につくり変えて運び出す。
「思」、すなわち思考することと対応している。いらないことを過剰にくよくよ考えすぎると脾は疲弊する。また、脾が弱ると考えすぎることになる。
口と唇と繋がっている。正常なら食べ物を美味しく感じ、唇の色つやもよい。

 

肺(大腸):
肺は気を司る。呼吸を通じて古くなった濁気を吐き出し、新鮮な清気を取り入れて、からだのなかの気を入れ換える。
「悲しみ」「憂い」の感情に属している。秋になるとセンチメンタルな気分になるのは、肺による影響である。悲しみや憂いが過ぎることは肺の機能を低下させる。
鼻と密接な関係にある。

 

腎(膀胱):
腎は“生命の素”を貯蔵する場所。成長や発育、生殖といった人間の根本的な活動に必要なエネルギー(精/せい)を保管しておく。全身の水分代謝を行う。肺で吸い込んだ気を、丹田までしっかり収める働きもある。
「驚き」「怖れ」に属する。なにかにビクッとする驚きや、不安を抱えている状態は人の機能を弱らせる。逆に、腎の機能が弱り、感情に作用すると、息が上手く吸い込めない、過呼吸などの症状を引き起こすことも。
腎の働きは耳や歯の状態とつながっている。腎が弱っていると耳が遠くなったり、歯がもろくなるなどの影響が出る。高齢化によるからだの劣化は、腎に大きくかかわっている。

 

 

とまあ、ざっと書いてみたが、人には生来弱いところがあるもの(それも個性)なので、心あたりを感じたものがあったのではないかと思う。感情的な悩みどころが、内臓の養生からアプローチできるかも、と思うのは心強いことではないだろうか。自分のなかで強い感情を把握しておくのも大事なことと思う。

 

ただしこういったケアを自らのものにするには時間がかかる。一つの流儀だけよりも、ヨーガと漢方、などという別に視点を組み合わることができると(統合的なので難しいとは思うが)応用力は上がるように感じている。

焦らないこと、そして諦めない事が肝要なので、私も存分に自分の感情と向き合って生きたいと思う。

 

 

 

№470 悲しさと肺

雪まみれの頭をふってきみはもう絶対泣かない機械となりぬ  飯田有子

  


先週から、蕁麻疹が出たり、皮膚にできた小さな傷が治らず化膿しかかったりして困っている。「そのケガ、どうしたの?」と見咎めて気にかけて下さる方もあった。
子供じゃあるまいしよう…と恥ずかしく思っていたのだが、本日鍼灸治療に伺った際、なぜそんな症状が出ているのかを先生がそっと、優しく教えて下さった。

 

皮膚は肺に対応している(表裏の関係にある)。
肺は、悲しみという感情に対応している。
あなたの肺は弱っている、悲しみがこもっている。
嘆き尽くすまではこんな症状が出るんだよ、出てもいいんだよ、と。

 

思えば今日で2週間。たったの2週間。
この間、どれだけ自分がお兄ちゃんと仲良しだったか、改めてしみじみとわかってきた。今になって気付かされたことが、また胸に迫る。


そして私は結局のところほとんど泣いていない。先月末に外苑前のヒロさんのころに伺った時に泣いてしまうかもしれないと思ったが、3年ぶりにお会いした洋平先生が元気だったのが嬉しくて泣かずに済んだ。

その時、規夫師匠と洋平先生に申し上げたのは、大事なひとのために私はできることはしたいと思ったし、きっとそうする、ということだった。先生方はお二人とも(現時点では)独身だから、もしかするとひとりぼっちでおつらいめに遭うことがあるかもしれないが、私は飛んで行きますから!と申し上げたところ、規夫師匠はいつものとおりうんうんと頷きながら微笑んでくださったし、洋平先生は「オランダにも来てください!」と仰った。うん、もちろんだよ、先生! オランダに行けるお金とパスポートは準備しておくから!

でもそれよりも、先生。「べつに壺井に来てもらわなくても大丈夫だから」といえるくらいの恋人を(ことによると複数)備えておいてください。それが私は一番安心します。そこのところ、なんとしてもお願いします。それで、単数でも複数でも準備出来たら教えて下さい。「なにかあっても壺井は来なくていいからね」と。そして情報は常にアップデートしてください。

 

30歳くらいの頃、ある試験を受けに福岡に行った。受験中の休日に行った博多のキャナルシティで、心迷う私(当時)は占い師の前に座って手を差し出していた。「あなたは情が深いから、男とやっちゃダメ」と言われた。いったいどういうことなのか、みんなそんなワイルドな世界に生きているのか? 

それはそれとして、私は情が深いのかなとは思う。「こんなことは先生に初めて話します」という打ち明け話をされることも多い。ひとの心にスッと入っていくから、嫉妬されるだろうと言われたこともある(いくつかこころあたりがある)。

親しいひとの苦しみに、心がもっていかれる。実際に痛む。心臓の辺りが押さえつけられるように苦しくなる。だからといって聴きたくないわけではない。聴きたい、聴かせて欲しい。でもなにもできない。それが苦しい。

教えて欲しい。私はこの世にいることで、いったい誰の、何の役に立っているのか。



今日、ヨーガの先輩方で、心を同じくする方と話した。
ヨーガ療法(ラージャ・ヨーガ)は難しい。自分だってなにもわかっていない。食物鞘(肉体)のこともまるでわかっちゃいないのに、わかったふりをして生徒さんに向かい合っているだけなのかもしれない。きっと自分は、今生でヨーガの秘密なんてわかりはしない。だから来世以降に期待するしかないよね。
それなのに、なにかカリキュラムを作って指導者を養成なんてしても、そんなの無理だよ。ヨーガの指導者はもがき苦しむことでしか育たない。スマートな研修で養成なんてできないんだよ。
そんなことを話した。これは指導者みなが感じる慟哭。感じねばならない慟哭。

 

この指導に、果たして意味はあるのか? 価値は生めているのか?
あなたの「ありがとう」の言葉に頷く自分。それを信じられない自分。
自分の内臓も、私の心の働きに必死に応えてくれている。私は今、大事な修行をしている。

早く元気になれとは、言わないで欲しい。

 

№469 思うこと、動くこと

全存在として抱かれいたるあかときのわれを天上の花と思わむ  道浦母都子

 

 

不在時に娘が二十歳の誕生日を迎え、彼女のアルバイト先のマスターお二方が大変なお心づくしをして下さった。親もその場にいるに越したことはないのかもしれないが、親に祝ってもらうより嬉しかっただろう。

そのうちの一軒のお店に、昨夜お礼を申し上げるために伺った。平日の夜のことでマスターと二人きりになることができ、亡くした人の思い出話に延々と付き合ってもらった。

思い返し、語る。そのこと以上の供養はないと思う。彼の場合、供養という言葉を好まなさそうだが、他に良い表現が見つからない。手向け、の方がいいかな。

ちなみに供養という言葉は、サンスクリット語 pūjanā がもとで、仏、菩薩、諸天などに香、華、燈明、飲食などの供物を真心から捧げること。ヨーガの師も毎年、歴代のご導師に対するプージャを行われ、私たちもそれに参加しているが、ご供養ということとは思っていなかった。感謝祭と呼ばれ、その思いで参加しているから、本来「供養」という言葉は感謝ということなのだろう。

 

人には縁というものがあるから、「次がないかもしれない」と思って行動しようと思ってもそれができないことが多いように思う。しかし、行け!と言われているような気がするときが確かにある。

10年にわたり規夫師匠に師事してきたが、師匠のいる東京と私の住む町とではフライト時間わずか70分でも、旅費という壁があった。そのため、上京できる機会を捉えて何時間ものセッションをお願いしたりしたものだ。ちなみに師匠の1セッションとフライト時間は同じ70分。価格はどんな割安チケットでも往復フライトの方が高い。
今夏、とある会食後に「航空券の方が高いのに、よく通ったよな」とのお言葉を頂き、駒込駅近くの路上で踊り狂いたいほど嬉しかった。大人なのでクールなふりをしていたが。

この、機会、というのはなにかのついでということではなくて、頭のなかに来る「今だ!」という電撃的な徴のことである。今このときに何か行動をしておかなければならないんだ、というときがある。これは他の場合にも発動するセンサーであって、可能なかぎりこの感覚に従って生きようとしてきたし、最近はこの感度と、決意と行動と周囲の状況が合致しつつある感覚がある。

 

「今だ!」という感覚に従って、後から大変な苦悩をすることもある。
昨年受験した筝曲職格試験はその最たるもので、4年前の年末に「これはやるしかないんだ!」と盛り上がり、初釜のお席で師匠(茶道、筝・三絃、華道の師匠は同一人物)に「試験受けます!」と言ったは良いが、それがどんなに大変なことかは後から知った。これくらい大変でないと、資格者の覚悟は生まれないとも思う(少なくとも私にとっては)。現時点で人生最大の山だったと思っているが、人が生きることは図りがたいので、これから先もなにがあるかはわからない。

 

大事な友人を亡くした私に、多くの方がお心をかけて下さる。波紋のようにそれは今も続き、少しずつ輪が大きくなっている。近い関係の人も、少し遠い人も、会ったこともなかった人も、人と人を介して影響を与えられ続けている。それを痛いほど感じる。

皆が思って下さっている。様々なことを、常に。
それを何らかの行動に移すチャンスを捉えられたと思ったら、その波に乗って欲しい。それは大きな世界の織物のように緻密に絡み合った関係性のなかから萌した特別な思いであり、波である。一言を確かに言葉にして誰かに届けたとき、きっと双方向で世界が変わる。

 


ヨーガの人間観では、人は五層構造である(人間五蔵説)。
人を生かしめる命という力そのもの、物事を判断する部分、行動を起こさせる力、感情、肉体、この5つが合致して働くとき、人ははじめて全存在としてここに在ることができる。

ヨーガという名で呼ばれる行法が、この「全存在として生きたい」という願いそのものあることを、私はようやく理解しつつある。

 

 

 

№468 愛の説教部屋?

川の瀬に立つ一つ岩乗り超ゆと 水たのしげに乗り越えやまぬ  窪田空穂


長女が誕生日にたくさんのお花を頂き、家の中に花が咲き誇っている。実に贅沢。
花は毎日手入れをしなくてはいけないのにそれができるのか、流儀花(いけばな。ちなみに小原流。)の稽古が役に立つのかと案じていたが、毎日ちゃんとやっていて感心する。これまでは活けるところまではやっても、あとはすべて私任せだった。

親しい人を喪うとこんな成長を強いられるのか、と思いながら見ている。それは哀しいことでもあり、同時に、故人に報告したいような、彼の影響力を思わせる嬉しいことでもある。

 

 

さて、私は一応「ヨーガ教師/認定ヨーガ療法士」という看板を出して仕事をしている。通常のクラスでは、ある場所に集まってもらって体操して終わりである。人もそういうクラスを想像している。

私が個人で受ける仕事の場合、「なんでそもそもヨガをやろうと思ったの?」というところから話が始まり、いわゆるダルシャナ(対話)の部分が相当に多い。いや、ほとんどダルシャナである。
体操を中心にお教えする方もいるにはいるが、たまにしかいない。これは私の内的感覚で決めている。存在が「こうしなさい」と言ってくるものに、従っているつもりだ。

ちなみに現在進行形で、体操中心の実習を行っている方がある。
平素から内的な感覚を大事にしておいでで、優れた言語センスをお持ちである。この方が個人として身体を統合することで、社会に何かがもたらされるような気がしてならない。
人間のあらゆる活動は、個人的なものではないのだ。私はこの方への指導を通じて、世界にひれ伏している。

 

行法をただお教えしてもそれが粗雑体レベルの実践に留まっているのであれば、私などいなくていい。ラジオ体操や自衛隊体操をやれば十分、という話である。

(注:自衛隊だけで行われている体操が存在する。陸上・海上・航空で少しずつ違いがあるらしく、三幕が集まるところでは出来ないという不思議な体操。陸上Ver.がDVDになっていて魂消た。そんな時代なんだな。)
 https://www.youtube.com/watch?v=uh4bs_FZKEI 

 

さて、そんな話ばっかりのセッションを先日終えた方が、とても素敵な振り返りレポートを提出してくれた。長いバージョンと短いバージョンがあるが、今日は後者をここでご紹介してみたい。「説明しにくい」と受講生皆が言う私のクラスとは、いったいどんなものなのか? 初めての人に一言で説明してあげて下さい、とお願いしたところ、

「愛と強さに溢れた説教部屋」と。

説教…? 

goo辞書によると、

せっ‐きょう〔‐ケウ〕【説教】 [名](スル)

1 宗教の教義・教典を、信者などに、口頭で説き明かすこと。また、その話。「牧師が礼拝で説教する」

2 教え導くために言い聞かせること。また、堅苦しい教訓をいう語。「親に説教される」


どちらかしら? 1であってほしいな…1よね…?
まあともあれ、こんな洒脱なやりとりができるようになるほどとことん話をさせてもらう中で、必要だと思った瞬間に行法(体操・調気法・瞑想・養生法など)を提示している。

行法は自分でやり抜いて実践としなければならない。
こういった対話技法を中心に据えてやっていくのは、既に十分な実力を持った方々なので、ご自分のライフスタイルと個性を土台に実践をデザインしていく力がおありだ。私は単に黒子、行法も黒子である。得られた情報を元に、自分の生き方のなかに、自然に行法を据えて行って欲しい。そしてそれがきっとお出来になる。時間はかかったとしても。

さて、頂いた感想に少し補足を加えて、以下にご紹介する。
ご本人のお許しは頂いている。この方は、芸術性を伴った高い身体感覚を有しておいでで、内的な感受性が非常に豊かである。これはモテるよね!、という感じで実際にモテてきたそうである。やっぱりな。

 


《受講前の心身の状態》

外からの刺激に翻弄され、刺激の発信元である外に意識を向けていた

・(自己の)内面は安心安全な状態ではなかった

他者の要求に応え、自分の弱さを隠し、他者の視点を推し量ろうとし、それ自体に揺らされている状態だった。

 

《受講により生じた変化》

・意識を内に向け、自身の内面に敏感になり、立ち止まって、深い呼吸で身体を落ち着け、心の動きに注意を向けるようになった。

・以下の点を意識するようになった。

 大いなる知性に身を任せ、結果を委ねる

 身体から「これでいいのだ」と言えるほどに、内面を徹底的に整える

 日々、様々なことが起きても(すぐに)判断を下さない

 大きな波をしなやかに乗りこなしながら、行為に専念する

 相手のエネルギーを感じ、力を抜いて(自分の)身体から紡ぎ出せる言葉を素直に表現する

 

《受講後の感覚》

・より自然で囚われがなく、自分の感覚と(それを)取り巻く空間に敏感となった

・しなやかに緩やかに生きることへの、自信とエネルギーが高まった

 

 

クライエント様と過ごす数カ月は、とても楽しい。この方との長い対話がないと思うと少し寂しい。いつか一緒にルンバを踊ってうっとりさせて欲しい(惚れてしまったらどうしよう)。また駒込で一緒に焼き肉を食べましょう。

Oさんに、心からの愛と感謝を。
更なるご活躍をお祈りしています!

 

 

№467 なにもできない

美しき誤算のひとつわれのみが昂りて逢い重ねしことも  岸上大作

 

 

次女の遠征の送迎に、入部以来4年目にして初めて行かせてもらった。倉敷にほど近い県立玉島高校。強豪校だという(母は何も知らない)。
遠征や試合がようやく解禁になりつつある。来週は新人戦。みな一試合しかできないそうだ。気分は盛り上がらないだろうが、それでも大事な一歩には間違いない。

 

周囲の、懸命に生き、目の前の事象に取り組む人たちを見ていると、なんの助けにもなれない気がして心が沈んでゆく。言葉をかけるか、ただそばにいるか、触れるか。思い続けるか、祈るか。いずれにしてもさして役には立たないと思わされる。でもそうしたいのだ、せめて。

 

セラピストという名の下に人に寄り添わせて頂いているが、時間と料金でお互いをまもった一定の枠のなかであるからこそ、何事かの貢献ができるのかもしれない。個人的な交友関係になると、そのような枠組みがないからこそ絶望的な気持ちになることがある。

 

専門性をもって人と寄り添うときも、個人的に寄り添うときも、自らの腹の底や胸の奥から聴こえてくる言葉に忠実であろうと思い、恐れや作意なしにそれを伝えたいと思う。

 

遠征先の駐車場で仮眠をとっていると、逝去した友人が夢に出てきた。
「残念だけど、今回は行くことにしたから、みんなによろしく。」と言う。茶色っぽいスーツをパリッと着こなして、スッキリした姿だった。ヘンな表現だが、元気そうだった。とてもリアルな夢だった。

みんなによろしくと言いながら、きっと自らみんなのところを回るのだろう。仏教の思想では49日を過ぎるとほとけさまになるというから、その前に人間としての仕事は済ませておこうと思い立ち、初七日も過ぎたところで順次ご挨拶回りをすることに決めたのだろうか。気が早いような気がするが、実にお兄ちゃんらしい。

 

人は過酷な経験を通じて、人間としての構造の変容を迫られる。
誰もそんなことは求めていないと思う。
ほんとうは安心して、変わらずいつも通り生きていられればいいはずだ。でも、社会や環境や人間関係がそれを阻む。

成長は素晴らしいよとか、発達はいいよとかいう話はに乗っかりたくない。ただその人が幸せであってほしい。私はヨーガの教師だから、体操や対話を通じて、その人がもっと気持ちよくなる術を見出し、自分でそうなるための手伝いができればいいと思う。それ以上のことは、私にはできない。

 

自分ひとりでがんばって生きることはとてもつらいし、それはきっとできない。
だから助けてくれる人と出会うことがとても大事になる。

「今の自分でもいい。だいじょうぶ。足りないものなどない。」とほんの一瞬でも思えることが、支援者に出会う助けになると思う。非現実的に聞こえるかもしれないが、そう自分に言い聞かせていると何かヒントが降ってくる気がする。せめてそのヒントに出会って、勇気を出して人に甘えて欲しい。手を伸ばして欲しい。

 

嫌われたらどうしようという思いを捨てて、手を伸ばしたい。そう思いながらも、この手がいったいなんの役に立つのかという葛藤が生まれて、私を苛む。こんなことを思ってしまうのは、自分のなかの影の問題も関わっているだろう。

だから自分自身とこそ向き合いつつ、今この瞬間も私の心を奪ってやまない人のことを思い続けている。
ただ良かれかしと、祈り続けている。
他になにも、できないから。

 

 

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岡山県立玉島高校の道場にかかっていた額。
見えないものを大事にするところに、強さが生まれるのか。

 

№466 約束を違えず

故人のために「何か」したいと思う数名がいて、何かの方向性がいくつかの方向を向き、その一つに向かって私も歩を進めている。

 

大きく「芸」という枠でつながっている仲間(というか大先輩)に胸を借りて、演奏をすることに決めた。やると決めただけでほかは何にも決まっていない。でもこういうことは細かいことはどうでもいい、やるかやらんかだけでいい。たぶん人生において重要なことは、斯くの如しであると思う。やるかやらんかだけであると思う。

 

昨年、「筝曲師範」の看板を先生からお祝いとして頂戴したとき、ちょうど亡くなった友人(お兄ちゃん)がここにきていた。看板を頂いて、それを家に置いて走って約束の場所に行った。たぶん寿司処せいじさんだったと思う。かくかくしかじかでちょっと遅れてごめんよと話すと、看板を持ってこんかったのかと問われた。うれしかった。でも看板は大きいし、酔っ払って落っことして壊れでもしたら大変なので、持ってはこれない。

 

そんなことを言ってくれたお兄ちゃんに、お披露目の演奏会に来てほしかったのだ。
今年3月、兵庫県・西宮芸術文化センターのKOBELCO大ホールで行われるはずだった菊井筝楽社第50回記念演奏会は、予想通り延期になった。あの頃、プログラムはもう完成していてそこに私の新しい名前も刷られており、くすぐったい気持ちになった。めでたく華やかな「越後獅子」を演奏することになっていて、毎日気が狂ったように難しい”散らし”(後半のものすごく盛り上がる部分)をおさらいしていた。

 

演奏会に来てもらう夢は叶わなくなった。だから代わりに何かしないとなと思ったのだ。いや、頼むから何かさせてくれというのが正しい。

偲ぶ会や追善の会ならばそれらしい曲を弾くところだろうが、いかにもという哀しい曲は弾きたくない。だから恋の歌にさせて下さいと、大先輩にお願いした。試験曲でもあったこの曲ならば、称号に恥じない演奏ができるはずだとも思った。本日そのことを師匠にお願い申し上げ、お許しを頂いた。この上ない機会を頂いたと思って死ぬ気でやってごらん、とのお言葉を頂戴した。

だから「末の契り」を練習している。職格試験のために何年もかけて必死でさらった曲を、人を偲ぶ心をもって弾く。実のところ試験のときには、「恋の曲だからそれにふさわしく、落ち着いてしっとりと演奏せねば」などと考える余裕もなかった。

松浦検校(?-1822)作曲。歌詞は三井家五代当主・次郎衛門高英のもの。
荒波に漂う小舟に寄る辺ない思いをなぞりつつ、末の契りを願う恋心を歌う。

「八千代経るとも 君まして こころの末の 契り違ふな」
 いつまでもながく あなたが健やかに ここにいてくださいますように
 わたしと交わした 約束を決して違えないでください

 

彼の奥さまのお心の深いところを、私は決して理解することも、寄り添うこともできないだろうと思う。そしてその傷はけっして、癒えることがないだろう。

愛情がもたらす痛みは、深く耐えがたい。人を好きになどならない方がいいのではないかと思うことがある。愛され充たされた経験が、いつか胸を抉るような経験に変わることがあるならば、一人ぼっちで生きてそんな痛みを経験せずに済む方を求めてはいけないのだろうか。それでも誰かを深く、愛しく思うことを求めて生きる方がいいのだろうか。師弟愛のような敬愛の思いだけでは、愛情という経験は足りないのだろうか。

愛しい人に現身をもってはもう会えないという奥さまの切なく苦しいお心と、まだわかれることなくこの世界に、私のそばにいて下さる方たちへの愛情を込めてこの曲を、そして箏歌を歌いあげたい。


どんな状態になったとしても、私とずっとながく過ごしてください。
どうかお願いと。

 

「肩」   谷川俊太郎 

あなたのあたたかいスエタアの
肩にもたれて
私は何も言わない
あなたは何も言わない

かくも美しく歌いだされる
モーツァルト
室の外で木々は葉を散らす
私はいつ死ぬのか

肌のぬくみだけで心は要らない
そう思ったとき
ふりむいてあなたがじっと
私をみつめているのに気付く

 
 

 

末の契り―三絃楽譜

末の契り―三絃楽譜

  • 作者:宮城道雄
  • 発売日: 1969/01/01
  • メディア: 単行本
 

 

 

 

 

 

№465 限りある私として

いつか手が触れると信じつつ いつも眼が捉えたる光源のあり  萩原慎一

 

 

和歌が好きである。主に近現代のもの。
20代の頃に初めて手にした、俵万智編「あなたと読む恋の歌百首」がそもそもの始まりだったように思う。上皇后美智子さまの日本語に対する感性は実に美しいと思い、御歌集「瀬音」も長く手元に置き慈しんでいる。

 

だからといってまだ出会っていない歌人の作品を探してみたりすることはなかったのだが、この夏に情熱が燃えあがった。ひとがその気持ちを表現するのに、三十一文字という制約のなかで凝縮された表現の方が、自由な言葉よりも鮮やかで鋭く胸に迫るように思えたのだ。でも自分で詠むわけではないから、いつかどこかで誰かが詠み、私たちが今ここで愛誦できるもののなかからシンパシーを感じるものを選び、味わってみている。

 

アンソロジーで読むのがとても好きなので、そういう本を探し求めている。昨日も東京から戻ったその足で書店に向かい、一冊の歌集を手に取った。これはある歌人単独の歌集になる。若い方で、惜しまれて亡くなったという帯の文章も気にかかった。

 

原慎一郎。
1984年生まれ。1997年、男子中学御三家としても知られる武蔵中学校に入学し、野球部に入部。顧問教諭に怒鳴られ萎縮する様子をきっかけに、いじめへと発展し、長期間に渡って行われ続けた。17歳の時、偶然近所の書店にイベントで来ていた歌人俵万智に触発され短歌の創作を始め、様々なコンクールに応募を開始すると同時に頭角を表す。
2017年に歌集『滑走路』の出版が決まり、5月に入稿。長期間いじめを受けてきたことに起因する精神的な不調が続いており、2017年6月8日に自死した。享年33歳。
出版間近であった歌集は遺族によって引き継がれ、2017年12月26日に歌集『滑走路』が角川書店より発売された。

 

私より15歳若い才能ある歌人。歌集からは、もがき苦しみつつ懸命に生き、人を愛し、世界の美しさに打たれ、それを表現してきた軌跡が読み取れる。

 

冒頭に紹介したものは、人が心の中に憧れをもちながら一歩ずつ前に進もうとする様子を美しく表現してくれていると感じる。私も確かに、何らかの光源を捉えているからこそ堪えられることがある。共に何かをしたいと感じる人々も、同じ光を見ることができているのだと思える。

 

今このときに、私の心のなかのフックにかかったものをいくつかここに書き留めておきたい。

 

遠くからみてもあなたとわかるのはあなたがあなたしかいないから 

君からのエールはつまり人生を走り続けるためのガソリン

恋をすることになるのだ この夏に出逢いたかったひとに出逢って

きみといる夏の時間は愛しくて仕事だということを忘れる

癒えることなきその傷が癒えるまで癒えるその日を信じて生きよ

 

 

かつて兄弟子に、「たくさん遊ばなければダメだよ、勉強を必死にして良いヨガの先生になれるんじゃないんだよ。お茶やお箏で楽しく遊ぶからいい仕事ができるんだよ」と言われたことがある。その意味を、今も十分に理解できているのかどうかはわからないが、芸の世界から離れず今ここにいることと、誰かの言葉に心がしんとすること、そして仕事を通じて人に寄り添いたいという思いは繋がっているように思える。

 

人はいつか必ず死ぬ。私たちは一度も生まれたこともなければ死ぬこともないと聖典は教えるけれども、私は名前のある有限の自分自身として誰かに触れ、そして愛したいと切望する。聖典を信じていると心は強くなるのだろうか(そう教えられている)。個性のある誰かを愛そうとすると、心は傷つき死ぬことがあると思う。それでもいいのではないか。

だから死んでほしくなかった。
兄のような人にも、歌だけを通じて触れ合うこの15歳年下の歌人にも。 

 

歌集 滑走路 (角川文庫)

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あなたと読む恋の歌百首 (文春文庫)

あなたと読む恋の歌百首 (文春文庫)

  • 作者:俵 万智
  • 発売日: 2005/12/06
  • メディア: 文庫
 

 

瀬音―皇后陛下御歌集

瀬音―皇后陛下御歌集