蓮は泥中より発す

心身一如に生きるヨーガ教師の日記

№420 切に思うこと

「熟眠状態においては、認識以外のなにものも存在しないので、認識主体の認識は永遠である、と言われているからである。しかし覚醒状態における認識は無明に基くものである。それゆえに認識対象は実在しない、と考えられるべきである。」
  ウパデーシャ・サーハスリーⅠ 9-8

 

 

感情に名前をつけるのをやめてみたらどうだろうか。

自分のなかに蠢く大きな力を、エネルギーそのものとして認識できないとき、私たちは安易にそれを人に投影したり、レッテルを貼ってわかった気になったりする。
でもそれは、ただのエネルギーだ。

ヨーガを実習してきた過程は、単にボディの実践に耽溺したわけでなく、同時にボディを軽視したわけでもない。ヴェーダ聖典等を繰り返し読むことによって養われたものも多い。

特に影響を受けたのは「バガヴァッド・ギーター」だが、智慧と実践を行き来しながらの道のりは実に豊かだったと思う。
クリシュナ神は今の私になにをせよと言われるのか?」との問いは、師匠の言葉によるものだけれども、このことについて考えることで、自分のなかに宗教性が養われたと感じている。


先月、ある方から「自殺についてどう考えるか?」という問いを頂いた。
美しい木々を望む、静かなカフェでのことだった。

その方にはそんな問いを発する理由があり、そして問われた私にも、問われるだけの理由があると感じる。

そこでは私自身の公式な答えと、非公式で内的な思いをお伝えするだけだったが、この対話にはまだ先があると思うし、あらねばならない。

 

答えの無い問いに対して、それを胸に抱えつつ生き抜いていくためには方便が要る。
宗教の役割とは、その方便を提供することにあると思う。
そしてできれば、方便を超えて、生き続けるための力をそこから得たい。

自分自身のこの生には、確かに理由があるのだと確信したい。

 

その確信が、他の誰かの確信と矛盾していてもまったく構わない。
より正しい確信を探し続けるのではなく、自分の信じるところを心の赴くままに信じ抜く強さが欲しい。

 

座右の銘というものをひとつ挙げるとすれば、道元禅師の「切に思うことは必ず遂ぐるなり」という言葉になる。

私たちはみな、自分がこうだと思う道を歩むことができる。
誰かがあなたの「切に願うこと」を無理だと言ったり、馬鹿だと笑うことがあっても、自分自身の臓腑のなかから慟哭の様に迸りでた願いを殺すべきでない。

 

なぜその思いが顕れでたのかは一生理解できないかもしれないが、それでもその思いとともに生きていくことが、私たち一人ひとりの真の仕事なのではないかと思う。

 

 

№419 経験を感じ切る

「一切の生類の統覚機能は、つねに私の純粋精神によって照らされるべき対象であるから、一切の生類は、一切智者にして、悪を持たない私の身体である。」
 ウパデーシャ・サーハスリーⅠ10-6



人は生きていると、どうしても経験がパターン化していく。
いつも同じ場所で、同じ人たちと、同じようなことを語り合い、新鮮な驚きをもって毎日を生きることが減っていく。

自分自身の感度を維持、もしくは向上させていく努力というのは実は難しく、だからこそこのことが大事にされている。これを「初心」という。

ここでも度々茶道のことについて言及しているが、ヨーガと同じく、ただ点前の稽古を行うだけではあまり意味がないのではないかと、私自身は考えている(当然そのような楽しみ方もあって良いとも思う)。

茶の凄いところを一つ挙げると、その時の一瞬の季節を切り取り、クローズアップして見せてくれるという点である。もちろんこれには、茶室や稽古場を調えて下さる亭主や先生の存在やご努力が不可欠である。

茶の稽古を怠っていると、季節はあっという間に移ろっていき、その微妙なあわいが感じ取れなかったりする。また、毎年違う季節の在り様に思いを致すこともない。

ちなみに今年、感染症のことでうつうつとした5月に、毎年お約束の「薫風」のお軸が掛からなかった。
夏の気配を感じさせる風薫る季節、そういう空気感ではなかったのだ。
5月と感染症に直接的な関連はないわけだが、世の中の空気はある季節の風の感じ方まで変えてしまうということに対する感受性をこそ、茶の稽古は育てているのだと思えた。

このような稽古を通じて、私は自分自身の感受性を育ててもらったと感じ、またそれがヨーガ指導という仕事に結晶化されているように感じられる時がある。

何を言おう、何を教えようということではなく、目の前の方の醸し出す空気感に触れて、そこから感じ取れる何事かを、たださし出し、それを受け取って頂けることでそこに関係性が築かれていく。亭主と客の研ぎ澄まされたやり取りと、生徒さんと教師としての自分のやり取りは、どちらも同じようにお互いを滋養してくれると感じる。

感受性を育てても、経験することが限定的だと世界は広がっていかない。
これまで非常に限定された世界のなかで、息を潜めて行をするように生きてきたように思う。

全く知らない経験を前にして、何をどう感じ、それをどう受け止め、最終的には受け容れていくのか、新しい仕事のやり様や、そこから生じた大切な人たちとの関係性の中で、今大いに葛藤をしている。
この葛藤をいつの日か、自分にとって得難い大事な経験であったと振り返ることになるだろう。そこに一切の疑いはない。

「より重要なことは、そこに生起するものを感じ抜ける(feel through)こと。
 実践とはつまるところ、喜びと痛みを感じ抜けるということ、そしてそれを超えていくこと。」

約10年ぶりに復刊された本も、以前と同じように私の臓腑に刺さる。
喜びと痛みを感じ抜き超えていくということを、10年前には持っていなかった感受性と共にやり抜き、新しい世界を見たいと思う。


 

№418 ほんものに触れ、愛する

「虚空が、風や他の元素の生起する前には、一切に遍満しているように、私はつねに唯一者であり、一切万有であり、純粋精神のみであり、一切に遍満し、不二である。」ウパデーシャ・サーハスリーⅠ9-3

 

 

先日、レイキマスター・マリコのお声掛けで、宝石のプロフェッショナルである魅力的なマダムと会食させて頂いた。長年、宝石の鑑定をおこなってきて、真贋を見分けるお力がおありの方のお話は、実に興味深かった。

ほんものを見て触れるということはとても大事な教育だけれども、そのほんものに触れる機会があるかどうかが問題となる。

長いこと茶道を学ばせて頂いてきたが、これも先生や施設のお考えで扱う道具が異なってくる。正式な入門のきっかけを作ってくれる優れた場である文化センターは便利だけれども、道具類はあくまでも稽古用であり、お炭の手前すらできないし、茶席内で最も格の高い道具であるお軸すら通年同じものであることが多い。

 

幸いなことに、私はこの点で非常に恵まれた稽古環境に生きてきた。
茶道は実際に物に触れて行うことなので、触らなければわからないことがたくさんある。
もちろん見ることも勉強であって、美術館に足を運んで貴重な品を見ることもするわけだが、ガラス越しに道具を見て、悲哀を感じてしまう。

例えば茶碗であれば、自らのうちにどれほど茶を湛えたいだろう、人の口に触れて味を伝えたいだろうと思う。空っぽの、渇いた肌に寂しいものを感じる。

 

先生のお供で百貨店の美術部に伺えば、実際に触ってごらんなさいとお声をかけて頂くことがある。見るのと、触れるのと、そして呑むために清める(水をかける)のとではまったく違う姿を見せるのだから、ガラス越しに眺めるだけでは何もわからないだろうと思うのだ(もちろん見られないよりもずっといいのはわかっている)。

 

冒頭のマダムのお話で興味深かったのは、左目で鑑定をおこなうか、右目でおこなうかで違いがあるということ。
左目で見れば右脳で判断する。右目で見れば左脳で判断する。
価格という価値判断ならば左脳は役に立ちそうだが、美ということそのものの判断に関してはどうだろうか。

ダイヤモンドのカットはほんとうに美しいのだと伺った。
美しいからこそ高価なのか、高価だから貴重だと認められるのか、そこには大きな違いがある。

茶の世界で大事に扱われる道具のひとつに、「茶杓」というものがある。
お茶を掬って茶碗に移すための道具で、主に竹が素材である。

生まれて初めての茶会に向かうタクシーの中で、運転手さんが利休さまの茶杓に高価な値が付いたニュースの話をして、バカバカしいというようなことを言った。その頃の私はまるでなにもわかっていなくて、だからこそそんな話を聴く羽目になったのだろう。

この道具に意味を見出さない人からすれば茶杓は単に竹の切れ端であり、利休は大昔に死んだ人に過ぎない。
でも私たちからすると、茶杓はその扱いに細心の注意を傾け、銘をつけて大事にするものだし、歴代の宗匠方は常に生きておられると思い、語るのだ。それがどんなに豊かなことか、わからないのはもったいないこと思うからこそこの世界にいる。

今の自分ならば、そんな話はそもそもさせないエネルギーを発して茶会に向かう。
これは茶に限った話ではなく、自分が大事だと思うことを世の中がどんなふうに評価しようと、まったく気になどしなければ良い。ただしそのものがより大きな愛や価値に根差していて、誰も傷つけないことは当たり前のこととして。

ジャッジするのを止めて、自分が美しいと、そして愛すると思うものに心を寄せることを大事にして生きよう。

 

 

№417 ちいさくても確かに

「正しい知識根拠によると、外界の地は身体を構成している地と同じである。水などの諸元素もまた、すべて身体を構成している元素と同じであると知られるべきである。」 ウパデーシャ・サーハスリーⅠ 9-2

 

 

これまでの私の仕事にも生き方にも、大きな刺激を与え続けてくれた書籍が復刊され、昨日手元に届いた。
復刊なのでまったくの初めてというわけではないのだが、この仕事にかける翻訳者の方のお仕事についてお話も伺っていることだし、これまでに私も大きく変化しているので、まったく初めてのものに触れるつもりで読み進めている。

ヨーガという手法を自らの実践法として取り上げ続けてきた理由は、そのカバーする範囲が広いということと、魂のことについても当然のように含んでいること、そして、師の教えを妄信するべからずという、実践に向かう明快な態度が好ましかったからだと思う。

 

実践から多くの恩恵を受けてきたが、今この瞬間もっとも滋養されていると感じる点は、先日もバクティ・ヨーガについて書いたように、「愛」ということだろうか。

誰か明確な、生きている対象をもたない信仰としての愛は、何年もかけて私自身を滋養し続けてくれた。その過程で、自分という存在に刻みこまれていた小さな傷やひび割れのようなものにこれが沁み込んでくれて、まるで上手な金継ぎで補修をされ、元よりも強くなったような気がするのだ。

 

人格を大きくするためにヨーガを実践するという思いのもとに学びを続けてきたが、多少はその目的も達せられたのかもしれない(そして可能ならば、これからもそうあって欲しい)。

 

ヨーガも他の多くのものと同じように受け取る人によって様々な解釈があるので、単に体操をするという狭義のものと思っている人も多いわけだが、今私自分が感じている満たされたとした心持ちを知ってもらうために、行法も大事だがタイミングも大事で、何かを必死にただやることだけでは辿り着けない場所に向かうものだということをわかって貰えれば、といつも考えている。

 

先日、茶の師匠から急なお声がけを頂き、貴重な茶碗でお茶を頂くことができた。170年ほど前の出雲焼(長岡空斎作)とのことだった。その前日のお稽古では、楽家4代・一入の茶碗で稽古をさせて頂いたのだが、これは330年ほど前のものになる。

ものに宿る命が、人の手を介してこんなにも生き続けることに深い感慨を覚える。この茶碗に私が触れるまでに、多くの人の点前を通じて茶を供し続けた。その光景を見ることはできないが、感じることはできるような気がする。

道具は使われなければいけないと思う。ヨーガには形はないけれども、これもまた使われ続けねばならない。このことがこれより先もずっと続いていくということの前に、自分という存在は小さな砂粒のように思えてくる。小さいけれど、確かにそこにあったものとして、ヨーガというものに含まれていくのだと感じる。

 

№416 「それ」の仕事

「賢者は、『私』と考えられているもののなかの『これ』の部分を、アートマンではないと理解して、捨てるべきである。」   ウパデーシャ・サーハスリーⅠ 7-6

 

 

先日、ある神社の境内で弓の稽古をしているのを目にした。
その様子を見ながら、オイゲン・ヘリゲルの「弓と禅」を思い返す。

ヘリゲルは、明治時代に「お抱え外国人」として日本にやってきたドイツ人哲学教師。
来日後、夫人と共に阿波研造師範のもとで弓術の稽古を始めるが、「当てるために矢を射てはならない」と言われ、とても混乱する。

同じような混乱は、私たちが生きる上でも起こっていると思う。

目の前の的に、いったい誰が的中させるのか?

いったい何がそこに生じ、射ること、当たることが起こっているのかを問うこの本は、ヨーガ療法士養成前期課程の推薦図書だった。
あれから10年以上の日が過ぎ、少しはその主体についての理解も深まったように感じる。

呼吸をすること、生きること、これを私たちは多くの場合「自分でやっている」と考えている。でも呼吸はそこにただ起こっているし、生きることを可能にしている生命の原理は本来、努力とは関係がない。

先月レイキを伝授頂いて以来、ご理解ある数名の方に触らせて頂いた(レイキ・ヒーリングをした、といっていいのだろうか?)が、お相手が感じ取っておられるという確かな温かさは、ただ単に私の手の温みだけなのか。

私は単に媒体に徹するように、とレイキは教える。

「それ」が働くための媒体である。私は何もしないし、できない。

そして当然、このことはヨーガでも全く同じだ。

矢を射るのは「それ」であると阿波師範は言う。
私が我を出して射ようとすることで、「それ」が顕れる余地は失われてしまうから、ただ邪魔をしないために一切を忘れて呼吸に集中する必要がある。

それなのに私たちは、自分に生きる価値があることを世界に示そうと懸命に努力をしている。

その努力をしなければまるで殺されてしまうとでも思っているかのように、怖れながら。

 

この世に存在するって、そんなに怖いことなのかな。
人間が生きるとは、何か役目を与えられてこの世界に対して何かを為すということ。

たくさんお金が儲かるから凄いとか、そういうことではない。

 

目の前にいるあなたがたとえどんなに優れた人で、どんなに偉い人であったとしても、ひとりひとり決して変わらない命そのものの美しさや輝きのなかの、あなただけを通じてこの世界に顕現している“なにか”を見つめたい。

 

あなたにしかできない何かを通じて、この世界を祝福して欲しい。
それが一碗の茶を点てることであってもいい。
誰かを愛することでもいい。
単に呼吸をすることですらも。
これは、今、私にしかできないことなのだ、と信じて。

 

 

№415 どちらもまるごと

「前に生まれた理解を否定しなければ、その後に正しい思想は生まれない。見(=アートマン)は唯一であり、それだけで確立している。それは正しい知識根拠の結果であるから、否定されることはない。」  ウパデーシャ・サーハスリーⅠ 2-3

 

 ヨーガはこの世を「迷妄の世界」と考えている。

すべてが幻の実体のない世界。
私が私だと思っているからだも心も本質的には私ではないし、起きて見ていると思っているこの光景がそもそも夢かもしれないのだ(たぶん夢である)。
深い眠りの底で現前しているものだけが本当のリアルだ、という説に私も同意する。

私が私だと思っているものも、実は見たままには存在していない(だろう)。
量子論ではこの世がすべて素粒子でできあがっていて、量子的な目で見ると透き通ったつぶつぶがところどころ固まりあっているだけだという。

 

このかたまりを作る要因が、それぞれの存在のもつ波・波長である。
存在はそれぞれが固有の波のパターンを持ち、似たような波をもつ者同士が引き寄せあうことになるという。
日本語では「波長が合う」という表現があるが、まさにそのとおりなのだろう。

クリスタルボウルの置いてある部屋でマントラを唱えると、共鳴して発生した倍音が静かに鳴り出すことがあるし、箏が出してある部屋でなにかを落とすと弦が響くことがある。
触れてもいないものから音が生まれるこの現象を、存在の大部分が目に見えないものである私たちは自分なりに理解しておいたほうがよい。

 

今もよく憶えているが、非常に印象深い出来事が頻発した昨年11月、出張先でとても易しい量子物理学の本と出会った。数時間で読めるような超入門編のその本を読んで思った。
これは「バガヴァッド・ギーター」の教えとまったく同じではないかと。

 

人は世界が見せるものを自分の心のなかのフィルターに従って、ふたつの極のどちらかに分類したがる。本来分類などできないありのままの姿を、自分のなかで分断してしまうのだ。

K・ウィルバーも、著書の中でこのことについて美しい表現で語る。少し長くなるが、私はこの文章の、特に末尾の部分がとても好きなので引用してみたい。

「人生が常に対立を伴って現れることに、不思議な感じを抱いたことがあるだろうか。なぜあなたが価値あるものと見なすものは、必ず価値のないものとの対立のなかで現れるのだろうか。

空間と時間の次元は、必ず対立を伴う。

上/下、内側/外側、高い/低い、長い/短い、北/南、大/小、ここ/むこう、頂点/底辺、右/左。


わたしたちが、真剣になり、重要だと考えるのは、対立の一方の極である。

善対悪、生対死、快楽対苦痛、神対悪魔、自由対拘束。

わたしたちは、したがって社会的・文化的・美的な価値も常に対立の中でとらえている。

美対醜、成功対失敗、強いものと弱いもの、利口対愚か。 

 

私たちの世界は、巨大な対立の集合であるかのようである。

 

この事実はあまりにも常識的であり、わざわざ言う必要はないかもしれない。けれども考えてみればみるほど、このことは、つくづく奇妙なことに思えてくる。なぜなら、人間がその中で住んでいる自然は、対立の世界など知らないからである。

自然は、本当の蛙と偽の蛙などを生み出さない。道徳的な木と非道徳的な木も生み出さない。正しい海と間違った海などもない。倫理的な山、非倫理的な山もない。美しい生物と醜い生物も、少なくとも自然にとっては存在しない。自然は、あらゆる種類を生み出すだけで、満足しているのである。」    (K・ウィルバー「無境界」より)

 

 

バガヴァッド・ギーターの主要な教えを端的に示すと、「二極の対立を超越すること」、そして「行為の結果を放棄する」こと。

この双方のうちのどちらががいい!という思いも、ものごとがこんな風に展開して欲しい!という思いも超越して、ただ観ている者としての視点を確立していく。
それしか私たちが解放される道はないよ、というのがヨーガの教え。

どちらかを選べば、あなたも私もその片方の極に絡め取られていく。
どちらかだけが私を滋養し、片方は私を傷つけるなどという説は放棄してしまいたい。

すべてを丸ごと、私の世界のうちに飲み込んで、いつも安らいでいたい。

 

 

№414 教え、教えられる

アートマンは否定できないものであるから、『そうではない。そうではない』といって、アートマンを否定しないで残したのである。人は『私はこれではない。私はこれではない。』というような仕方でアートマンに到達する。」
 ウパデーシャ・サーハスリーⅠ 2-1

 

 

オンラインによるセッションを続けてきた生徒さんと、この度はじめて実際にお目にかかることができた。

初めてご連絡を頂いたのが昨年の秋のこと。
お体に痛みがあるので指導を受けたいというご相談を頂き、私が上京する際にお目にかかることになっていた。会ったことも言葉を交わしたこともない私に対してご連絡下さるのは、勇気がお要りのことだったと思う。

約束の期日の少し前に、オフィスでお倒れになられたとご連絡があった。入院治療に入られたため、お会いすることが叶わなくなり、心的な面で少しでもお力になれたらと思いながら、彼女に向けてのメッセージとしてブログを綴ったことを思い出す。

その後大きな病気であることがわかり、数カ月後、ご自宅に戻られた頃にようやく、オンラインで初めてお話をさせて頂くことができた。それ以来、プライベートやグループのセッションを続け、あっという間に8カ月という時間が経った。

そうして冒頭に述べたように、先日、ようやく生身の彼女と会うことができたのだ。
想像よりも小さな人だった。
体格の良い(身長169㎝)の私の腕にすっぽりと包まれてしまうような彼女は、オンラインでも感じていたように本当に可愛らしいひとだった。

彼女自身が治癒へと向かう過程で、「私はよくなりたい、皆にも良くなって欲しい」という思いが同じ病と共に生きる方々へも向かうことは、自らのうちにある命そのもの(すべてのものと繋がっている部分)と共鳴をすることになると信じて、一緒にYouTubeによる情報発信をすることを促しそれを過去8回にわたり行ってきたのだが、この度はリアル対談の様子を収録することになっており、これにはスペシャルゲストとして理学療法士の大石先生も加わって下さった。 https://youtu.be/4dy7Ck37X2M 

 

和やかに語らった録音の直後、彼女が突然顔を覆って泣き出したものを、私は胸に抱きとめてしばらくそのままふたりでじっとしていた。この時のことを思うと、今も胸になにかが迫ってくる。

彼女には、蔭に陽に支えてくれる何人かの存在がいる。それは本当に素晴らしいことだけれども、その誰にもいえない何かがあって、それを私たちはこれまで時間をかけて分かち合ってきたのだ。

 

茶の師匠に「習うことと教えることは同じことの別の側面であるから、教える立場ならばこそ習い続けよ」というお言葉を頂いたことがある。
この言葉を授かったことを私はすっかり忘れていたが、それでもその教えを曲げることなく従い続け、いくつかの学びを継続してきている。私にとって芸事を学ぶこととヨーガを教える行為に、根本的な差はない(表面的な差はたくさんあるが、そんなことは些末なこと)。

同じように、生徒さんに向かい合いうとき、ときには教え、そして時に教えられる。どんな立ち位置であっても、人間の関わり合いは相補的に、そして共鳴し合っている。

YouTubeをお聴きになられるとわかるように、彼女は私を先生とは呼ばない。時に私が相談をすることもある。彼女の得意技で助けて貰ったこともある。私たちは彼女の病気を滅ぼそうとも思っていない。患部に名前をつけてチームの一員と思って活動している。

どっちがどっちなんてどうでもいい。その時元気な人が、元気のないひとを助けていけば良い。時にはその立場が入れ替わる。それでよい。

 

その晩、私たちはふたりで手をつないで休んだ。まるで子供のように。

もし会わないことによるレッスンに効能があるとしたら、会えないからこそ互いを求める気持ちが醸成されることなのかもしれない。そしてその思いが間違いなく人を変容させる。
その先に治癒もあるのかもしれない。

現在あるプロジェクトに関わらせて頂いているが、動画配信から始まるこの仕事の先にも、彼女のような人がいる気がしてならない。まだ会っていないその人のことを思いながら、この仕事をやり抜きたいと思う。