蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№393 行く道を照らしてくれるひと

「二 それゆえに一切の限定は、非アートマンであるから、捨てられてしまった手と同じである。したがって認識主体(=アートマン)は一切の限定から自由である。」 ウパデーシャ・サーハスリーⅠ 6章


人間存在には必ず影が生まれる。
陰影は人や物事に深みを与えるが、自らこの陰影に向き合うことが難しい、深い闇のような影もある。

怖くて向き合えないので、他の人にそれを映してみて、自分には裏も表もないかのような気持ちになってまっしぐらに走ってしまう人もいる。
できれば自分というものの影を見つめる努力をして欲しいと思うが、ひとりではできないことが多い。

東洋の伝統的な道に従ってきた私には、数名の師匠がおり、道以外にも「先生」と呼ばせて頂いている方がいる。
週に一回会って親しくお話を交わす先生もいるし、数年に一度しか会えない師もいる。
ほとんど会話をすることがない師もいる。

師のことをヨーガでは(インドでは)Guruという。
サンスクリット語で「師、指導者、尊敬すべき人物」などを意味する言葉で、それぞれguには暗闇・無知、ruには取り除くという意味がある。

師匠とは自分の闇を払ってくれる存在なのである。

ヨーガの戒律、ヤマ・ニヤマの10項目めは「自在神への祈念 Īśvarapraṇidhāna」というもので、この自在神というのは他に純粋意識などとも訳されており、真の自己、普遍なる本質を目指す取り組みのことである。

自らの、決して傷付くことも失われることもない、不変なる本質に至る過程で、今の自分の目や感覚では捉えることのできないものを見、感じることを学んでいくことになる。

師は「先生」とも呼ばれるように、先にこの道のりを経験した方なので、安全に配慮しつつ、時にはわざとビックリさせながら、手を携えて歩んでくれる方である。

伝統的な取り組みにおいては、例えば茶道で正式に入門を許された際などに師と契りの杯を交わす場合もある。芸の上では親子である、という誓いである。
こういう儀式を実際に行うか否かは、それぞれの先生のお考えによるだろうが、例えなにも行わなかったとしても、弟子のすること為すことと、その学びの過程に責任を持つことに対して強いお覚悟を持っておられることが感じられる。

幸いなことに、そういうお覚悟をお持ちの方々とご縁を頂いてきた。
伝統的な道以外では、明確に師弟という意識が持たれることはほとんどないが、自分のなかで無意識にこの方を師だと思い定めている場合がある。
できれば明確に意識をして、ただ知識をもらうだけではない関係性を感じることが、自らを育て養う助けとなる気がしている。

昨日、私にとっての無意識のGuruとお目にかかってきた。
現代のセラピストとクライアントの関係性は一過性のものとなることが多いが、私はこの方と10年を過ごしてきた。数年も会わないこともあるのに、与えられた一言について何年もかけて考え抜き、内面での対話を繰り返してきた。
そして今、この10年が実に豊かなものであったことを、お互いが認識して語ることができ、この先さらに10年かけて、いったいどんなことが起こるのだろうか考えている。実に幸せである。

グルは、今現在この世に生きている人でなくとも良いと言われているが、自らの闇と向き合っていくためには、現実の身体をもって傍にいてくれる人の存在はとても助けになると。
グルとか師匠などと呼ぶ必要もないし、傍にいてもらえたらホッとする人に、安心して自分を預ける時間を持って頂ければと思う。場面に応じて、何人かの方に助けて頂ければ更に安心である。

このブログをご覧になる方には、今現に他者支援に当たっておられる方もあると思うが、あなたがご自分の心身のなかにあって、楽で、安心だと思える幅を広げていくことは、そのまま他者に向かい合うときの体力となるから、頑張らない方向で自分を滋養する取り組みと、誰かといて楽しい感覚を味わうことを忘れないでいて欲しい。

 

 

№392 嫌だ!と思う能力

「虚空が一切のもののなかにあるように、私は、実に、その虚空の中にすら存在している。私は不変であり、不動であり、清浄である。不老であり、解脱しており、つねに不二である。」 ウパデーシャ・サーハスリーⅠ 13章19

 

 

昨晩、理学療法士O先生との打ち合わせの際に、私たちが与えられる影響力は2割ぐらいに過ぎないんじゃないかなという話になった。今朝改めて考えると、もっと少ないような気もする。

「痛みを取り去りたい」「症状を癒したい」と思えることが大事である。
多くの人は「痛い」と言いながら諦めているからだ。

まあこんなもんだとか、一生痛みと付き合って暮らしていくしかないよねと言いながら、「この痛みはなくならない」と決めているので、もしかしたら大いに改善させることができるかもしれない何かにばったり出会うことがないのである。
とても残念なことだ。

先日、ワークショップの講師に招かれた際、「どこかが痛い方はおられますか?」とお尋ねすると、ある男性が手を挙げられて、腰が痛い、そして「もう一生痛いままだと思っています」と仰る。
「それでいいんですか?」と返すと、「いやー、でも治らないし」と諦めモードなのがわかった。

きっとここに至るまでに、様々な方法で痛みを無くすためにご努力されてきたにもかかわらず改善しなかったので、裏切られたようなお気持ちなのだろうと思う。
そして期待することをやめてしまったのに違いない。

なんとかしたい、と思うことが治癒の第一歩であると思う。
そして「なんとかなるんだ、大丈夫なんだ」と信じる練習から始める。
その時に重要なのは、脱力とリラックスの技術だと考えている。まずそこから。

ヨーガでは「今のこの状態が嫌だ」と感じていることこそが病気だと教えている。
実際の状態には実に多様なバージョンがあるが、「自分が嫌だと思っていること」が取り組む対象になる。

でも、「よし!痛い(嫌な)ままの人生をしっかり歩んでいくぞ!」などという決意をなさった訳ではないはずなので、「なんで痛いんだよう!」という思いをもう一度取り戻して、「痛い(嫌だ)」という事実をドン!と目の前に持ってきてほしい。

「治りませんね」とか「痛いはずないですけど」、「検査では異常ありませんけど」という言葉に抵抗しよう。
あなたがつらいと思ったら、つらいのだから。

つらいと思っていることを本気でなんとかしたいと思って、何かに取り組んでみることが、成長というものなんじゃないだろうか。
成長のためにどこかに行ったり、何かしたりするよりも、自分というものに向き合ってみたらどうだろうか。きっとびっくりするほど色んなことに気付けると思う。

「痛い・つらい」ことを自分以外の人にも発信することも大事である。
黙って悩んでいたら、ますます落ち込んでしまう。

「痛いんだよね、困ってるんだよね、何とかしたいんだよね」ということを信頼できる人に話す。
そして時間を置いて待っていると、何かが向こうからやって来ることがある。
ちなみに私の人生で大事なものは、誰かがつないでくれたり、目の前に現れた情報に素直に飛び込んだものばかりだ。

探しに出ないこと、ハラで感じたものを信頼すること。
もし既に傷付いているなら、まずその思いを癒やすこと。

№391 生きるための行

アートマンは変化することなく、不浄性もなく、物質的なものでもない。そしてすべての統覚機能の目撃者であるから、統覚機能の認識とは異なって、その認識は限定されたものではない。」 ウパデーシャ・サーハスリーⅠ 7章の三

 


アマンダ・リプリー著「生き残る判断生き残れない行動 ~災害・テロ・事故、極限状況下で心と身体になにが起こるのか」が、ちくま文庫で復刊されていたので再読している。

様々な危機的状況の下で、生き残った方と命を落としてしまった方の違いとはいったいなんだったのか、いつも考えている。

ちなみに本書によると、軍隊経験者は生き残る率が高いそうである。

名称は違えど同様の組織にいたことがあるので、状況について考えたり知ったりしなくてもまず身体を動かすこと、そしてそれを叩き込まれたことが生存に役立つのかもしれないと考えた。本能レベルまで訓練がしみついているので、除隊後も役に立つのだろう。

訓練される側にもする側にも立ったことがあるが、脊髄反射で行動したあの日々が人生に有益な痕跡を残しているのかもしれないと思うと、泥まみれになったかいがあった気がして嬉しくなる。

極限状況下では、凍り付いたように動きを止めてしまう人がとても多いそうである。
例えば、火事の現場で全員がテーブルについたまま、逃げるように声を掛けられても動かなかったり、目の前で起きた事故をただ茫然と見ている、などということが多く確認されているという。

ストレス反応には、闘うか、逃げるか、というものがあるが、もう一つ「凍り付く」というものもある。闘いも逃げもできない状況下で、これも生存のためには重要な戦略となるはずなのだが…

ちなみに、大きな声で明確な指示を出してくれるリーダーの存在が、この凍り付いた状態を打破してくれるそうである。
あなたが援助を求める時には、例えば「そこの青い服を着た男性、そう、あなたです!こっちに来て手を貸してください!」などと明確に助けを求めねばならない。

ヨーガの体操では、動きを通じて緊張と弛緩を繰り返し生み出すことで、自分自身がみずからの緊張状態と緩んでいる状態を客観的に意識することを学んでいく。
また、動きを通じて、無意識のうちに生じている緊張を解き、自律神経の調和をもたらすことができる。こういう訓練を重ねていると、凍り付きにくくなるのではないかと思っている。

また、ヨーガ実習は衝撃からの心身の回復を早め、体験から有効な学びを得たという感覚を強めてくれる(目を開けてポーズを真似るタイプの実習では無理だと思うが)。

先日も「サバイバル呼吸」としてヨーガの行が活用されていることを紹介したが、身体に働きかけるアプローチは単に健康のためにだけ行っているわけではなく、通常の意識では想定していないような場面における生命力の活性をもたらすものと私は信じている。

「(肉体を)あんなふうにしてやろう、こんなふうに変えてやろう」という意図を持った実習を、ヨーガでは行わない。
バガヴァッド・ギーターの重要な教えのひとつは「結果の放棄」である。
結果を放棄する、ということは「どうなってもいいです」という投げやりさなのではなく、自分という限定された枠組みを超えた、より高い視点を持つ知性にこの身を預け、変化に身を委ねますということなのだと思う。

その視点の高い知性ってなんだ?と聞かれれば「アートマンであり、ブラフマンである」と答えるだろう。こういう知的な遊びは安全な時にやる。生死にかかわる踏ん張りどころでは「自分は守られているんだから!」と一瞬でも思い出せればよいし、そういう時に使える実習であってほしい。

状況を把握したと過信することで、危険にさらされることもある。
わからない状況の中で、いきもの本来の勘や肌感覚を最大限に使い、場をコントロールしたいという欲求を手放して、自らを大事にして生きて欲しい。

 

 

 

 

 

№390 配線替え

「万生の内に等しきものを見る者は、この世界にあっても生死の輪廻を克服している。というのも、絶対者ブラーフマンは汚れがなく、(万生に)等しきものであるが故に、斯くなる者は絶対者ブラーフマンのうちに安住しているからである。」 バガヴァッド・ギーターⅤ-19


初めてクラスに参加した人に、先輩方は「先生の前にどうぞ」と言って下さる。
それを喜ぶ方にあまり出会ったことがない。
正しいことをできなくて注意されたらどうしようと、お考えになるようだ。

フェルデンクライス・メソッドロルフィングを体感したことのある方は、変化をもたらすためには自分自身の微細な感覚を感じることが大切だとご存知かもしれないが、ヨーガも本来そういった要素を含んでいるものであって、そのことが忘れ去られているように思われ、とても寂しい。

冒頭の「注意されるかもしれないと恐れる初心の方」に対して先輩方が「前にどうぞ」と言って下さるのは、指導時の声が聴こえにくいと困るからであって、私の姿が見えにくいからではない。

自分のからだを動かし、それをしっかりと感じ取ることを通じてしか気付きは生まれない。
そしてその気付きは、肉体以外にも大いに影響を与えることができる。
先生や鏡を見ても、自分自身の気付きや学習にはならない。

教室や先生を儲けさせるためにヨーガをやっている訳ではないのだから、徹底的に自分に意識を向けて欲しいと思う。

ヨーガの体操・アーサナには、日本語で「坐法」という訳語が当たっている。
この坐法とは即ち、長時間結跏趺坐等で座り続けられる準備をするためのものであって、外から見える自分をなんとかするためのものではない。

長時間座り続けるということは、要するに自分の姿勢を常に感じ、意識し、自分にとって安定し快適な状態を維持できるということに他ならない。

ヨーガをしているからといって別に長時間瞑想して頂かなくてもいいのだが、何気なく、何事かをしているとき、またはその後に、どこかが痛くなっていたりしないということこそ坐法のキモであり、ヨーガをして得られる効果であって欲しいと思う。

猫背になると必ずどこかに負担が生まれ、呼吸も浅くなる。
呼吸が浅くなれば、体内のすべての働きが不調和を来す。その悪影響は計り知れない。
姿勢と呼吸に、いつも十分に気を払って欲しい。

骨盤の上に頭を持ってくるように、背筋を伸ばして座る。
座り方によっては、お尻の下になにかを入れて工夫してみよう。
腰が反り過ぎないように気を付けて、脇を締め、胸を開く。

米軍特殊部隊では、「サバイバル呼吸」と称してヨーガの調気法を教えるそうだ。
調気法とは、息を吐くこと、そして止めることである。
ちなみにサバイバル呼吸は「4つ(数えるあいだ)吐いて、4つ止めて、4つで吸って、4つ止める」という方法だそうである。これを強い緊張下でも行えるように、徹底的に訓練するという。

息を止めることを”クンバカ“という。
依存症の改善などに著効があるとされると同時に、現病歴や既往歴によっては危険が伴う上、止息時にバンダと言われる動作(肛門や下腹部を締める)を行わないと心身の障害に繋がると言われているので、自己流で行うことはやめて欲しい。
(効果が高いものほど危険性が高いのは、瞑想も同じ。諸刃の剣である。)

それでは、安全に行える調気法についてご紹介しておこう。

息を吸うときに数を数え、その倍の数で吐く。(吸うときに5だったら、10で吐く)
吐き切ってしばらくは苦しくないはずなので、「吸いたい」という衝動を意識してから、意識して吸う。
吸いきったあとも苦しくない時間が少しあるはずなのでその感覚を味わい、少しでも苦しさを感じたら、意識して吐く。

5~20分この呼吸を続けて頂いて、終えた後は心身にどのような変化が生じたかを改めて意識し、心のなかで言語化して欲しい。
これを1~3か月継続すると体温が上昇することが、複数の生徒さんから報告されている。

注意して欲しいのは「無理をしたら利益が失われる」ということ。
無理に何かをしているときに学習は生じない。
無理な努力は無分別で自動的な動作を生み、やがてそれが習慣化して、状況への柔軟な反応が失われることにつながる。

ヨーガを行うということは、ヨーガという一手法を用いて脳の再配線を行っているということであり、この配線替えをヨーガ以外のものに活用するということである。
結果的に「楽に生きられるようになった」という境地に至れるように使って頂けなければ、解脱を求める人々によって継承されてきたこの伝統的な手法が泣くだろう。

 

№389 目に見えない部分

「万処にある風(वायु  Vāyu)が空間(आकाश Ākāśa)に永遠にあり続けるように、万物もまた我の内にあると知れ。」バガヴァッド・ギーターⅨ-6

 

 

先日、アメリカでレイキ・マスターの資格を取得したMさんと一緒にワークショップを開催した。参加者の皆さんには“目に見えない気”を感じて欲しかったのだが、なかなか難しかったようだ。

Mさんはレイキの勉強のために一時的に海外に行ったのではなく、そもそもあちらでビジネスをしている方なのだが、感染症の件で思わぬ長期滞在になった。
生きる上でぶつかった苦しさのためにレイキや瞑想に出会いその実践を重ねているということが、私自身の経歴にも似ていて親近感を覚える。

10年前に初めてお会いしたときには、こんなことを一緒にやる日が来るとは思っても見なかった。人生とは実に不思議で楽しい。


さて10年ほど前、私も師に勧められて東京でエネルギーワークを体験したことがある。
その頃はハッキリ言ってよくわからなかったし、施術して下さる方によってはほとんど感じられなかった。

なので「わたしにはわからないんだな」と思って生きてきたのだが、なんとまあ、今は明確に感じられるようになっているではないか。当時お世話になった方に申し訳ない気持ちでいっぱいである。

きっかけは、3月にMさんがレイキ体験をさせて下さったことで、自分の掌から熱感のある“なにか”が出ていることをリアルに感じた。
とても面白いので、生徒さんのお許しを頂いて触れさせて頂くと「熱い!」と言われたりして、私ひとりの気のせいでもないことが確信できた。

同時に、この10年をかけてヨーガの実践を積んできたことと、氣を感じられるようになったことは無関係ではないことも理解した。
そんなことは当然かと思われるかもしれないが、ヨーガ療法を専門としてきた私にとってクリニック等で語れないこと(チャクラとかブラフマンとか)に対するハ―ドルは高く、意識は低かったのだ。


この変化をもたらしたもののなかで最も役に立ったのは呼吸の訓練(調気法)だと考えている。

何年もの間、複数の調気法とクンバカ(止息)、そしてバンダを組み合わせて行ってきた甲斐があった。

昨年末にリチャード・バートレットによる「マトリックス・エナジェティクス ― 量子論的手法による変容のテクニック」を読んで感動し、人の存在そのものにアプローチする手法に興味を覚えていたところだったので、Mさんには大いに感謝している。

ヨーガでは人間五蔵説という概念を用いて人を理解するが、肉体はもっとも薄い皮のような物であると考えている。玉ねぎで例えると、一番外側の茶色くて薄い皮。

ワークショップを行った際にもつくづく感じたが、ヨーガを肉体という側面だけで考えている人が多過ぎて実にもったいない。
いったい私とはなんなのか、その点から理解を深めていって欲しいし、そのためにヨーガが用いられて欲しい。

 

 

 

 

388 観る者でいるために

「すべてのものに対し自己中心の愛着がなく、種々の善悪に出合うとも喜びも憎しみもない者、その人物の智慧は不動のものとなっているのだ。」バガヴァッド・ギーターⅡ-57


数日更新をサボっていた。
理由は、今読んでいる本の内容を咀嚼するのにエネルギーを要していることと、娘の悩みに寄り添っていたからである。

高校生の娘が、学校に行くのが辛いと訴えてきたのは6月のことだった。
つらい時は緊急避難が大事である。
心理的な安全を確保してよく話を聴いてみると、様々な思いがちゃんぽんのように具沢山になっておりいったい何が本当につらいのか本人もよくわかっていないのだったが、これは高校生だからというわけではなく悩む人はみなそうであると思う。

思春期のホルモンの影響(右上象限:肉体)も当然受けているだろうし、進路や将来に対する不安(左上象限:自分の内面)もある。
問題は人間関係(左下象限)として生じた。

が、私が思うに、学校サイドは左下(環境、社会)の影響をあまり考慮していないと感じる。
もちろん信頼できる先生方は、そのことをきちんと考えておられる。

例年であればこの時期、既に上位大会への出場を得て燃えているか、秋の新人戦に向け気持ちを切り替えているか、とにかく余計なことを考える暇がないくらい稽古や遠征で疲労困憊、前しか見えないなかでじりじりと進んでいく匍匐前進のような状態なのである。

ところが、あれもこれもなくなってしまったがために怖いくらいヒマで、やたら周囲のことも目に付く。一所懸命やってきた者ほど無意識下ではムシャクシャしているのだろう。
同時に、こんな時でもそれなりに平常心で生きていられる人も当然いて、そういう子が割を食っているように見える(あくまでも私の主観)。

 

この状況で私は二つのことを考えた。

1.つらい時に助けを求める、もしくはつらい状況にあることを周囲にアピールできるのは大変重要なことである。
2.ナチスドイツ時代に代表されるような異様な空気の中で、正気を保っていた人の生きにくさと、実際その状況をどう生き抜いたかは学んでおくべきである。

 

さて、ここ数日我が子は学校に行っている。
担任の先生(国語)に「俳句でも歌でも詩でもいいから作って、僕に見せてよ」と言われたその翌日、近くの山の神社に詣で、川で遊んで、三つの作品を作った。
その時自分の読んだ歌に癒されたらしい。

ここに書き写すことは控えるが、「自然に触れ、自分の悩みの小ささに気付かされ、それを笑うことができた」というような意の歌であった。
この先生は、最終的に実に素晴らしい解決策を提示して下さったと思う。

苦しみを克服するには、自分が観察者であることを思い出さねばならない。
目の前の状況を苦か楽かの二極で分類していては、いつまでも苦しいばかりである。
人間はほんらい別々にわかれて生きている存在ではないのだから「魚、水を知らず。鳥、空を知らず。」という状況から目を覚ますことが必要だ。

そこを目指さないままに、体操や呼吸法だけ教えることはしたくない。
一者でありながらも、個である夢を見ていることのエッセンスを安心して表現できるための道具として、yogaを使っていきたい。

№386 避難場所を探す

「万処偏在なるお方は、誰の罪も功徳も受け取らないのだ。だが人の内なる智慧は無智さによって覆われており、そのために人は混乱しているのだ」 バガヴァットギーターⅤ-15

さっきまで何を考えていましたか?

途方もない哀しみと悼み、被害者意識、苦悩、罪悪感、斬鬼の念、絶望、怒り、憎しみ、フラストレーション、恨み、ショック、恐れ、不安、弱気、打ちのめされた感覚、苦悶、無力感、孤立、孤独、不信、裏切り。

このような思いがしばしば思考に登場してなかなか去ってくれない、という状況で生活している人がとても多い。

我が家の女子高生は、今そのような思いの真っただ中にある。
学校生活は実に大変だ。
潮の満ち引きのように、あるときは将来への希望を語り、同じ口で自分ひとりが地獄の底にいるような心もちであることを嘆く。
思春期のホルモンの影響もあろうから、自分の意思だけでは何ともならないこともこの状況に火を注いでいるようだ。

普段お目にかかっている方々は何といっても大人なので、より深い絶望を経験し、そのためなら何かを犠牲にしても良い、という思いでヨーガに向かって下さる。
そのことが恩寵のように思えるくらい若者の心の乱高下は激しく過酷で、これが若さっていうことだな!と感動を覚える。
若いからこそ許される生を満喫して欲しい。

さて、生き生きした若者のことはそっとしておいて自分たちのことを考えよう。

雑念が浮かぶということを、そのままにしておかないで欲しい。
雑念が浮かんでいることを自覚できないくらい心が外を向いているなら、それを内向きに修正して欲しい。

ストレスの中で生きるということは、サバイバルモードで生きるということ。
短期間ならすべての組織は持ちこたえられる。
しかしストレス状態が数時間で終わらない場合、身体は調和した状態に戻らなくなる。
自然界のどんないきものも、緊急事態の中で長期間生き延びることができない。

大きな脳のおかげで、人類はあれこれ考える力を持っている。
自分の抱える問題について考え、過去の出来事を脳内で再現し、未来に起こり得る最悪のシナリオを想像する。

ただ考えるだけでストレス性の化学物質を滝のように放出するスイッチをオンにしている。
この化学物質の分泌を感情と呼ぶ
一度そのような回路ができあがると、その神経回路の中で思考を巡らせ、その時分泌される化学物質がつくる感情の範囲内で感情を味わう。
そうして存在のすべてが、過去にすっかり捉われた状態になる

この状態にあるとき、自律神経は乱れまくっている。
環境が遺伝子に「病気になれ」というサインを送っている。

こんな状態になってしまったら、まず何をしたらいいだろう?

リラックスがいい。
脱力を通じて、よい意味での思考停止に陥ってみよう。
じっとしているとますます思考が巡るので、人がかけてくれるインストラクションに身を委ねよう。

もうひとつ。
思考の奴隷から生還した人に話を聴いてもらおう。
何年も指導を続けている先生はそういう方が多い。

呼吸が、姿勢が、というのはその後のことである。
まずはホッと息の付ける避難場所を見つけること。
その避難場所の住人は、ああせい、こうせい、と面倒くさい指示を出してこないものだから、決まりごとが多いところは避難場所じゃない。その点をわかった上で探して欲しい。

避難所は、探せば必ず見つかる。
安心してください。