蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№385 もってないひとはいない

「我は究極目標であり維持者であり、主なる存在であり観照者であり、住処であり避難所であり、共であり本源であり、維持であり帰滅であり、倉庫であり不滅の種子である。」  バガヴァットギーターⅨ-18


「もってる」という表現を生徒さんから聞くことがある。
この意味が私にはよくわからない。
私以外にもわからない人がいると思われるので、デジタル大辞泉から引用してみる。

《「持っている」の音変化》
特別な何か をもっている。ふつう、強運をもっていることにいう。
[補説]2000年代初めごろから、 スポーツ選手などが使い始めて広まった。

特別な何か?

では聞きたい。
この世に、特別な何かを持っていないひとはいるのか?
さらにもう一つ聞きたい。
ひとりだけ特別な何かを持って存在している人がいるのか?

人の悩み苦しみは、そもそも自分に欠けているところがあるという考えから始まっている。
欠けている、不足している、改善せねばならない悪いところがある…
そして、自分以外のものから、欠けている何かを補ったり、悪いところを直すための何かしらをせねばならないという考えは間違っていると思う。

声の大きな誰かが言う。
あなたの苦しみは、〇〇という能力や知識が欠けているから起きているのですよ。
だからこの理論・真理・学びを行うと、あなたは楽になることができますよ。

あたかもそれが本当のように聞こえてくるのは、いつも自分に何かが足りないというマントラを頭のなかで唱え続けているからだろう。

不安になるようなことを考えてしまうならば、思考停止する方法を学ぼう。
瞑想も、まずはそのために役に立つ。

17世紀オランダの科学者クリスチャン・ホイヘンスは、隣り合わせに掛けた時計の振り子が、自然に、まったく同じリズムで触れるようになることに気付く。
これが「同調」と呼ばれる現象である。
私たちの生理機能は、自分自身の声であれ周囲にある物体や楽器であれ、それが発する音波の影響で変わる可能性がある。

グレゴリオ聖歌は素晴らしいエネルギーフードだと言われるが、これを歌うことの訓練は現代人にはなかなか難しいだろう(最低でも4年間それに専念して訓練する必要があるらしい)。

それでは代わりにbija(ビジャ)マントラはどうだろう。
サンスクリットの1音節の単語7つで構成され、7つのチャクラに対応している。

LAM(ラム) 根底(会陰部)

VAM(ヴァム)丹田(おへそと恥骨のあいだ)

RAM(ラム) 太陽神経叢(みぞおち)

YAM(ヤ―ム)心臓

HAM(ハム) 喉
OM(オーム) 眉間(第三の目)

すべての音(自然界にあるすべての音の周波数) 頭頂

こういった音を用いることで、患者たちが数回のセッションでものの見方を変えられるようになったと、統合腫瘍学のミッチェル・ゲイナー博士は語っている。
マントラ以外には、音叉やクリスタルボウルなども活用されているようだ。

これらの音が種子のマントラと呼ばれるのは、それによって私たちがより高い意識やエッセンスに移ることができる音の種だからだという。

種子のマントラで最も神聖なOM(オーム、日本語でいう阿吽のこと)の音は、所属する宗教に関わらず多くの人によって、現在でも用いられている。
神社の狛犬さんも、左右に立ってOMと唱えつつ、参拝するものを迎えてくれているではないか。

この音は、宇宙原初の音と言われ、そのため、唱えることで宇宙を形成している無限の波動の流れとつながると言われている。

ウパニシャッドでも「言葉と音のエッセンスはOMである」と書かれている。
仏教経典では「最も力のある言葉。その言葉の力だけで悟りに達することができる」とあるそうだ。

具体的には、アとウの中間のような音(オに近い)を伸ばし、最後は口を閉じて「ンー」とハミングのような音になる。音が消えた後も音の余韻に耳を澄ます。

しっかりとこの音を唱えると、同じ部屋にいる飼い猫がハッとした表情で立ち上がり周囲をキョロキョロと見回すので、驚かせないように離れたところで唱えるようにしている。
もちろん目を閉じて、その振動を全存在で感じ取ってほしい。

これは私たちを癒す音のクスリである。
自分が言っているという思いを捨てて、生命を支える偉大な何かが、私を通じてこの音を発してくれているのだと思うとよい。

この世に存在する者は、みな心臓内にアートマンを抱き、そこを通じて絶対者ブラフマンと繋がっている。
持っていない人もいないし、持っていないときなど一瞬たりともない。
まだ確信が持てていないならば、あれこれ考えない方がいい。

全細胞は常に思考に耳を澄ませているから、「持ってないかも」などと考えたら身体に悪い。

 

 

№384 どちらかなんてない

「万処に遍在する空間が微細である故に汚されないように、体中の万処に存在する真我(アートマン)もまた汚されることはないのだ。」 バガヴァッド・ギーターⅩⅢ-32

  

現代では健康を目的にヨーガを始めることが多いが、不調という片方の極から、健康というもう一方の極である健康を目指すのは、実は危険な行為である。

バガヴァットギーターの主要な教えは、行為の結果を放棄すること、そして二極の対立を超越すること。
どちらかが良いとか悪いとか考えることから、卒業するのだ。

健康があると認めれば、不健康なるものが確かにあると認めることになるが、実のところそんな明確な状態はないし、そのように考えることで欠けることのない満ち足りた存在であるはずの自分たちを、不安定で不確かな存在に貶めてしまうことになるだろう。

身体に変化をもたらすためにイメージの力がとても役に立つことは、優れたプレーヤーの実践を通じてよく知られているが、もうひとつ、万物の切れ目ない一体性をただ認識することも有効だ。

マトリクス・エナジェティクスと呼ばれる心身を癒す技法があるそうだ。
私は書籍で読んだことしかないけれども、その言わんとするところはよく理解できる。

例えば痛みや症状とは、実のところなんなのか?
痛みは患部で感じていない(脳が感じている)。
科学的な医学で治そうとするけれども、私たちがいったいどこからやってきてどこへ帰るのか、命とは、生きていることとはどういうことなのか科学的にはわからない。ではなぜ病だけは定義できると主張するのだろう。
私たちは考えもつかない不思議な存在であるという原点に戻ることで、人の心身を癒すことができると考える。そういうことが可能かもしれない、という余裕を自分のなかに作ってみる。

そもそも私たちは、心臓内の小さな空間に住いしつつ、人間の心身をはるかに超えた力を有するアートマンである(ヨーガ風に表現すると)。
量子物理学の見方では、とてもちいさな「何か」があるときは波として、またあるときは粒になったりしつつ存在しているエネルギーの“もや”のようなものが私らしい。

なにかをなにかたらしめる元となる微細な物質と、それをひとつの“もや”として結集させているちから、それこそが自分なのであることを私たちはうっかり忘れてしまっている。

忘れてしまっているので、そもそもの根っこのところにつながり直して思い出さなければならない。そのことをサンスクリット語ではヨーガと表現した。世界中に実に様々な「思い出し方」があるようだ。
こういうものは探しに行かなくてよいもので、ときがきたらあっちから勝手にやってきてくれる。きてくれたのに「他のものがいいなあ」と思うのもありかもしれないが、せっかくのご縁だから出会ったものをそのまま受け容れるのが良いと思う。

さて、目というものがそもそも見えるモノでできており、自分と同じ仲間であるモノしか見ることができない。この「見る」という行為がまた胡散臭い。見たことがないものは、既に見たことがあるようなモノに変換したり、まったく初めてのものは見えなかったりするという脳の働きを通じて、私たちは「見る」という行為を行っている。あまり信用がならない。

だから目を閉じて、感覚器官に惑わされず、経験を分類せず、考えることからも離れて、ただ、今ここに存在するだけのモードに入る。
すべてのものは理由あってここに存在し、すべてが結び付いている。
私もひとりではないし、誰もひとりではない。

今朝、足元に転がってきた小石ですらも、この万物のダンスの中で私のもとへやってきた。
すべてのことに意味がある。意味は分からなくてもよい。ただ。二極に分類してわかった気になることもしない。

意味は確かにある。その意味がわからなくてもいいから、いまここに確かに存在しているという安心感に安らいでみる。
自分にとっても、目の前の誰にとっても、たぶんこれ以上の癒しは無いと思う。
根源的なものにしっかりと立っている感覚。

№383 無駄に考えないほうがよさそう

アルジュナよ。我を超えるものはないのだ。宝珠の列が糸に繋がれているように、この全宇宙は我に繋がれているのだ。」 バガヴァッド・ギーターⅦ-7

 

身体的な実践を行っている人は多いと思うが、その活動が心を制御する目的と共に行われているだろうか。

自分にとって望ましい未来を祈らない人もいないと思う。
そのためにも、心にほしいままにさせない方がよい。

では心をなんとかするには何をしたらいいのか。
自分の思考を制御すること、そしてそのために「集中」という道具に習熟することである。
考えてばかりいる場合、考えが浮かんでいること自体に気付かない。
なので集中することから始める。

頭なのか心なのかわからないがおしゃべりがうるさい、ということになっていやしないだろうか。歯を食いしばる癖がある方や、頭皮がガチガチに固くなっている方は、その傾向が強い。

心が身体に対してもつコントロールを垣間見せてくれる興味深い医学現象に、プラシーボ効果がある。
プラシーボとは、からだに対して何の効果もないが、患者をなだめる目的かあるいは二重盲検法による実験における対象基準として与えられる医療処置のことだ。

ひとつのグループには本物の処置を与え、もう一つには偽の処置が与えられるもので、こうした実験では本物の処置の効果をより正確に評価するために、研究者もテストされる人間も自分がどちらのグループに入っているのかがわからないようになっている。薬剤の試験ではよく砂糖の錠剤がプラシーボとして使われる。

プラシーボは必ずしも薬とは限らない。正当医学から離れた療法から得られる医療効果もプラシーボ効果だと考えている人も多い(ヨーガとか?)。

外科手術でさえプラシーボとして使われている。
1950年代、ある独創的な医師たちが、狭心症の治療のために行う胸部動脈の結束手術でひとつの実験をおこなった。患者の胸部を切開し、何もせずにそのまま元通り縫合してしまったのである。
ところが、このインチキ手術を受けた患者も通常の完全な手術を受けた患者と全く変わらないくらいの症状の改善を報告したという。

そういえばヨーガ療法学会の2016年研究総会は「循環器疾患とヨーガ療法」というテーマだったが、日本一バイパス手術をしているというS記念病院の医師が「手術は成功しても、心臓病が治らない場合がある」と語っていた。

インチキ手術で良くなってしまうラッキーな人と、本当の手術を受けても楽になれない人を分けているものがなんなのか、知りたいではないか。

ちなみに私は煮えたぎった油に掌を入れるという行を体験したことがある。
その油で揚げたイモの素揚げを食べるので、油が煮えていることは間違いないのだが、実際の感覚はお風呂に浸かったようにほんのりと温かいだけである。

熱された油に手を突っ込むとき、なにを考えているか?

疑いは禁物であるということ、自分よりも偉大ななにかが存在しているということ、自分は守られているのだということ。

私が恐怖を覚えれば熱が肉体を傷つけることになるだろうが、そんなことは絶対にないという確信を持っているから、熱いはずの油に掌を入れることができるのだ。

自宅でからあげを揚げながらこんなことはやらない(怖くてできない)。
ある状況を付与されなければ決して果しえないことが、確かにこの世にはある。
凝り固まった頭では、決して理解も説明もできない心身の変化というものも現実では生じる。

これはなんの力だろうか。
行を仕切るご導師様の力だろうか? 経を唱え続ける人々の力だろうか?
それとも私自身に内在している力だろうか? この宇宙を支える力だろうか?

私たちの心には、イボを消し去り、気管支を通し、モルヒネの鎮痛効果を再現する力が備わっているというが、それを自覚していないため何かの舞台装置を調えてもらわなければその力をつかえないのである。

「そんなことありえない」と考える心の働きに待ったをかけて、しばらく黙っておいてもらう練習が大事なのかもしれない。どうせ考えてもわからないのだったら、どうやったら良くなるのかなんて考えなければ良いのだ。

遺伝子は私たちの思考に聞き耳を立てており、考える内容によって病気を生んだり治したりしているそうだから、まずやらねばならないことは役に立たない思考を黙らせることである。

そのためにからだを使えば、健康にも役立つし一石二鳥である。
単にからだだけのためにヨーガを使ったりしていては実に勿体ない。
からだだけをなんとかしようとするより、何を考えているか、もしくは考えていないかの方が大事だ。

 

 

№382 私がそうだと思うことのちから

「不滅と言われるその未顕現は究極の境地と呼ばれる。そこが我が居所であり、そこに達した者たちは再生することがないのだ。」バガヴァッド・ギーターⅧ-21

 

 

皆さんは、自分の健康を決めているのは何だとお考えだろうか?

ヨーガの道に入るきっかけとなったのは、原因不明の症状だった。
とにかく自分としては苦しい。しかし検査をしても何事もない。
なんにも見つからないから嘲笑の如く“ストレス”という言葉を出される。
そこでは、ストレスという言葉は「気のせい」や「考えすぎ」と同様の意味を持つように感じた。

今になって当時を振り返るに、「気のせい」「考えすぎ」ということについてはまったくの外れではなかったな~、と思っている。
ヨーガを学ぶなかで心というものの恐ろしいばかりの力を思い知らされたからで、その思いは日々更新されつつ今に至る。
心をほったらかしにしていてはいけない。

数年前までは日に数コマのレッスンを行い、月延べ100人もの方に指導をしていたことがあった。それを他の先生に譲ってしまったのにはいくつかの理由があるが、「クラスが毎週あることで、普段の生活の中で行う自助努力の邪魔をしているのではないか」と悩んだからだった。

人を変容させるのは自らの意識の力である。
と、信じている。
毎週クラスに参加して声を掛けられながら体操をし、それだけで何かをやった気になってしまう上、普段の生活における意識化の支援が十分に行えていないような気がした。

 

確かに、体操を目的にされてしまうと、そこから先へは向かいにくい。
しかし、毎週通ってもらうことで、これまで保持してきた信念の改変には繋がっていたと思う。年齢を言い訳に使わないことや、加齢とともに心が豊かになり得ることは理解して貰えた。

今の自分なら「それができとればええやないの」と思える。
当時はそうは考えられず思い詰めていた。今より若く、そしてアホだった。

ここのところ、からだのことについて書いてきたけれども、
次は「一番すごいもの = 一番怖いもの」について書いていきたい。
それは人が自分を定義する考え、ヨーガでいうところのアハンカーラ(ahaṃkāra 我執。我慢とも訳される)のこと。


まずは、インストラクター養成講座の時に聞いた事例について紹介しよう。
良く知られた実話なので、ご存知の方もおられるかもしれない。
…………………
心理学者ブルーノ・クロッファーが治療していたライトという患者は、かなり進行したリンパ球のがんに侵されていた。首、脇、胸、胸部、腿の付け根のすべてにオレンジ大の腫瘍ができ、脾臓・肝臓は肥大、胸部から毎日2ℓの液体を吸い出さねばならなかった。

しかし死にたくなかったライトは、クレビオゼンという新薬のことを聞きつけ、自分に試して欲しいと懇願する。当時この薬は寿命が最低三カ月は残されている人たちだけに試験的に投与されていたものだったので、医師はこれを拒む。だがライトが決して譲らず懇願し続けたため、医師はついにこれを聞き入れた。金曜に注射したが、医師はライトが週末を越せるとは思えないまま帰宅する。

ところがあくる月曜、医師が病院に行くと、ライトはベッドから出て歩き回っている。腫瘍は消え去っていた。最も強いX線治療で達成できるよりもはるかに速い配宿のスピードである。投与から十日後、彼は退院した。入院した時には酸素マスクが必要だったのに、退院後は自家用飛行機を自分で操縦して4000メートルの高度まで上昇しても何ともなかった。

ライトは二カ月ほど健康状態を保ったが、その頃から、クレビオゼンは実はリンパ球のがんに対しては効果が無いのだと主張する記事が現れだした。論理的で科学的な考え方の持ち主だったライトは酷く落ち込み、がんは再発、再び入院することになった。

担当医師は、クレビオゼンには当初思われていた通りの薬効があるが、最初に納入されたものは、流通の過程で品質が劣化していたのだと告げ、新製品を投与できると話した。実のところ新クレビオゼンなど存在せず、ただの水を注射するつもりでいた。それらしい雰囲気を出すために、わざわざややこしい手順を踏んで注射した。

またしても結果は劇的なものとなった。腫瘍のかたまりは解け去り、胸部の液体も消え、ライトは元気を取り戻し、その後二カ月なんの症状もなく過ごした。
しかし、アメリカ医学協会が、アメリカ全土で行われた研究の結果、クレビオゼンは癌の治療に効果は無いと判明したと発表したことでライトの信念は打ち砕かれ、再発の二日後、彼はこの世を去った。
…………………
この話をどう読むか。
まずそこに、私たちの我執が関わってくるだろう。

 

 

№381 からだを虐めない

「汝が自分中心の執着から生ずる迷妄を克服した時、汝はこれまで聞いたことと、これから聞くであろうこととを区別しない無執着の境地に達するのだ。」 
 バガヴァッド・ギーターⅡ-52


昨晩、子供の出稽古の付き添いをした。
稽古の前に1時間かけて「体幹レーニング」を行う。
その道場で特徴的なのは、送迎のお母様方も一緒にそのトレーニングを行っているということだった。

当然私にも「どうぞご一緒に」とお声がかかったので、下半身を鍛えるスクワット系の動きと、バランスを保つ動き、そしてプランクをお付き合いし、腕立て伏せやジャンプ系の動きはパス。
約1時間かけて運転して帰る必要があるから消耗する動きはやらない、という言い訳以外にも色々と思うことがあったので、ここで考察してみたい。

一言でいうと、これではからだが壊れる、ということ。

事実、指導者の先生は腰痛持ちとのことで、骨盤周辺の動きが悪いのが見て取れる。
とてもショックだったので、共同で指導を行わせて頂いている静岡在住のよっちゃん先生(理学療法士さん)に思わずメッセージをしてしまった。

体幹レーニングと言いつつ、アウターの筋肉ばかり使って、インナーの筋肉は全然使ってないよ!」

これを読まれる方の中にも、「体幹を鍛える」ということにご興味がおありだったり、実際にジムに通っておられる方もおられると思う。
肉体を鍛えることはとてもいいことだけれど、からだをモノのように扱って、そこに意識が伴っていない活動をしておいでの方が多いように見受けられる。
そして呼吸もまた、疎かにされている。

数日前から「投影された宇宙」を読んでいるところなのだが、私たちの肉体も豊かな全体の一部なのであって、自分の小指の先にまで意識を払ってみたら、それこそ大いなる学びがあるだろう。

昨日体験して頂いたトレーニングも、エクササイズ・タイマーを用いてある一定の時間を「限界まで耐える」のだが、まるで肉体は痛めつけないということを聞いてくれない別の生きもののようだ。
よく話し合いをして、意思の疎通を図ることからはじめて欲しいのだが…


さて、トレーニングはあなたの日常生活をどのように変容させてくれるのだろうか?
ここでしかできないことを時々やるのではなく、日常動作が変わる気付きをこそ求めて欲しい

昨日の出稽古は剣道だったので、それを題材に少し実験をしてみよう。
竹刀を持つつもりで、手近にあるペンかなにかをお持ちになって欲しい。
どんな風に掴んだだろうか?

既にご存知の方もおいでと思うが、竹刀は薬指と小指で握るもの。
これができると、二の腕から胴体にかけての筋肉が上手に使えるようになる。
(そういえば、三味線の撥も同じように握る。)
胸が開かれ、骨盤はやや前傾しながら立つことになるだろう。
その時、十分に深い呼吸が行え、心は静かに澄みわたるはず。

また、剣道はすり足という歩行を行う。
これは茶道の足捌きと同じなのだが、「歩き方で歴がわかる」と言われるほどこのすり足は難しい。

ドタバタと足を上下させずに、床面と親和するように歩く。
私が歩いているのか、床が私を運んでくれるのか。
すり足を行うとき、からだは自然にまっすぐになる。ここでもやはり、呼吸は落ち着いていくだろう(息を止めていなかったら)。

もしわたしがスクワットを指導するならば、「床に落ちた、小さな、大事なものを拾うつもりでそっと腰を落としてごらんなさい」と申し上げるだろう。
そしてその時、太ももを痛めつけないように腰を落としてみて、という。
そのためには、架空のしっぽを天に向けて上げながら、お尻の筋肉に働いてもらうといいですよ、と。

太ももに頼らず、内側の筋肉に働いてもらって、からだは骨で支えてもらう。
この感覚がつかめると、日常動作がとても楽になる。


内側の筋肉は呼吸と深く連動している。
からだの深層の、自分では決して触れないところを呼吸が優しく触れてくれる。
内臓までマッサージしてくれるかのように。

呼吸が変われば日常生活は一変するだろう。
これが本当の「体幹」を鍛える動きだと、私は考えている。

だから、呼吸と意識化の練習から始めるのが良い。
そして、自分の呼吸のリズムと調和しながらゆっくり動く(タイマーなどに支配させない)。
反復してもその都度感覚は違うので、反復を目的とせず、感覚の違いを感じ取ることを重視する。

呼吸と意識を考慮しない動きは、この世にたくさんの怪我人を生み出すように思う。
肉体を通じて自分を愛おしむという活動をこそ、トレーニングといってくれるようになればいいのに。
からだを鍛えることでどこかを壊してしまう人を、無くすことができればいいのに。

 

 

№380 楽な方の私にしようっと

アルジュナよ。我は万物の心臓内に宿る真我(アートマン)である。我は万物の始まりであり、中間であり終末なのだ。」 バガヴァッド・ギーターⅩ―20

 

 

意識することで人は“自分というもの”に気付いていく。
気づいてしまうと、人はなかなか賢いのでなんとかできてしまう(時間がかかったとしても)。

ヨーガは体操ではありませんと言うなら、なんであると主張するのか。
ヨーガとは意識化の手法ですよ、と今は言いたい。

真実の我には、我執と心素がセットでついている。
個別に分かれ、独立した自分なるものがあるという考えが我執。
過去の記憶や印象がつまったきんちゃく袋が心素。
ストレスがかかると、このきんちゃくの口が開いてしまうものだ。

我執と心素の二つが、真我を塵のように覆っているといわれている。
それを掃除して、真我の輝きが現れるようにするのがヨーガという活動。
掃除方法の核は気付きである。
気付きを得るためには、実のところ色んな手法がある。

ほんとうのところ、個別にわかれた私なんていない。
過去の記憶にはキリがない。
そもそも私が誰からも分かれていないのだとしたら、それはいったいだれの記憶なのか?

なので、結局のところ掃除にもキリがない。
だからヨーガというものはやり方ではなくて生き方である。
そういうことを考えてきた人はこの世界にこれまでにもたくさんいたのであって、そういう生き方を決心することを(そっちの方が楽だから)、インドの辺りの言葉でいったらヨーガという語になった、という、ただそれだけのことなんじゃないかな。

多少の掃除であっても、まったくやらないのとは格段の違いがあると「気付いて」しまうから、やめずにずっとやりたくなる。
掃除が進めば進むほど、楽になってしまうとわかるから。

掃除以前、「私」は私という別のものが、他の人と別個で実際に存在していると勘違いしているので、個別の私が目標なるものを立てて、良いと悪いを区別して、自分にとってはこういう未来がいいに違いない!と、狭い了見から決めつけて考えてる。

いや、でも、ぜったいお任せした方がいいですよ。
なにしろ個別の私たちの視野はとても狭いし、視点は怖いぐらい低いから。

絶対者ブラフマン、と私たちが呼ぶものは、ものごとが生じそして去っていく場であり、力(エネルギー)そのものなのだと思っている。
そっちの方が個別の私なるものより色々わかっている・見えていると思うので、私はコントロールを手放し、どちらかを選ばない。
個別のような私でありながら、絶対者(場そのもの)になったつもりで。
そのためには、時々目を閉じて、考え事を止めないとね。


というようなことを、この二日間、家の押し入れを掃除しながら考えていた。
身体的実践を細々とでも継続していなかったら、こんな平安の心境に至れたかどうか。

だから、黙ってヨーガ行をやりなさいよと言ってくれた師匠に感謝である。

先生は、知っていたんだなあ。

確かに、あの頃これを言われても、絶対に信じなかった。

だから私も、今日も生徒さんと一緒に体操をしてこよう。

№379 あなただけの「良い姿勢」

クリシュナ神が告げられました。
アルジュナよ、我の数百、数千という多種多様な姿を見よ。種々の色や形を持つ我が姿を見よ。」 バガヴァッド・ギーターⅩⅠ-5


姿勢を癒すのにてっとり早い解決法は、残念ながら、ない。

従来のプログラムでは、からだの外形を作り変えることを重視している。
からだを横から見たときに、耳~肩~股関節~足首がまっすぐになるようにとか?
それほんと?

この世界で、わたしがふわふわと浮かんでいかないようにしていてくれる力(お好みなら重力と呼んで頂いても構わない)や、この世界そのもの(環境)と、わたしが“これぞわたしだ”と思っているからだそのものとの関係を変化させることが、姿勢を変えることの意味なので、形だけをなんとかしようとしても、そんなことはできない。

わたしが世界を感じ取る感覚を変えるという行為こそが、姿勢に変化を起こすことができる。
そしてその変化した姿勢を持続的に保つのも、変化した感覚に気付き、維持していることを感じ続けることで行われる。
感じ続けることをこそ、訓練し続けるのだ。

誰にでも共通する健康的な姿勢という理想形があるわけではないし、理想のためにからだが何か違うことを「やる」必要があるわけでもない。
やることはただ一つ、あなたが“感じる”ことだ。

自分の内面から外に向かって姿勢の変化に取り組む「新しい姿勢のルール」を感じながら決めていくことで、身体は自然に世界と調和することになるだろう。

楽器を演奏しているひとならわかると思うが、演奏のためにからだが変形したりする。
ちなみに私は、指の第一関節(特に中指)がちょっと曲がっている。
「まだ若いのに…」と某治療院で言われたことがあるが、これは筝を弾くからだと思う。
また、筝は上体をわずかに右にねじって演奏するので、私のからだはそれに適合してすべてのバランスをとっているのに違いない(右にだけねじることに何の疑問もないし、どこも痛くなったりしない)。

断固として、あなたのライフスタイルに合わせたからだを創っていけばいいのである。
どこかの誰かが「正しい」とかいう姿勢なんて、単にその人の主張に過ぎないと思って放っておこう。

ただし、運動と姿勢が無関係と言っているわけではない。
強さとしなやかさが無ければ、重力との関係でつらい思いをすることになるかもしれない。

身体的にバランス感覚を欠いていると、それは人間関係にも現れるとヨーガでは言う。

しなやかなからだの動きを生み出すためには、流れるような緩やかさをもって様々な動きを行っていくのがよいだろう。だから私はヨーガ・アサナを選択する。

その動きに、筋トレやストレッチ、有酸素運動という区別は一切ない。それはただ、アサナである。
アサナを通じて私は生かされている至福感に満たされるので、それはすなわちヨーガそのものでもる。アサナをしていないときにも至福感は感じているので、ヨーガを行っていない時はないのだとも言える。


自動的に、無意識に、時間をかけて何をやっても、あなたの姿勢や症状は変わらないかもしれないが、一瞬一瞬の全身の感覚を感じ取ることにしっかりと集中できれば、「たかがそんなことで?」と思うようなシンプルなポーズで大きな気付きが得られるだろう。

あなたはあなた自身と結びついている必要がある。
そのことへ向かう取り組みが、「姿勢を良くしたい」という求めから生まれるのであれば、それは素晴らしいことだ。

がんばるべきは動作ではなく、頭のなかのおしゃべりを遠ざける集中、そして感じること

がんばりどころをけっして誤らないように。
自分を責めたりしないで。
生きていることの不思議や素晴らしさを、忘れないでいて。