蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№365 観ているひとを育てる

「もしも汝がこの義務に基づく戦いを行わなければ、自己の義務と名誉を捨てた罪に問われるであろう。」 バガヴァッド・ギーターⅡ-33

 

 

ヨーガの世界は実に広く、様々な面を私たちに見せてくれる。

どのような入り口から入るかによって人がヨーガに求めるものは違ってくるだろうが、せっかく縁をもらったのなら他の部屋でなにが行われているかも覗いてみて欲しい。

 

なんらかの不調をきっかけとして実践を始める人が最も多いと思うが、その場合は緊張と興奮に満ちた心身を鎮めるところから始めていくことになる。

こういったアプローチは実のところ「ヨーガ療法」と呼ばれるべきで、たぶん世界じゅうでセラピー的にヨーガを用いている人がほとんどだと思われる。

 

耳の少し上に、扁桃体という器官がある。
扁桃とはそのままアーモンドを意味し、アーモンドの形をしたセンサーが頭のなかにあるよということ。

このセンサーが過剰反応している人がかなり多い。

過剰反応の結果として起こる体の反応としては、血圧が上がる、呼吸が浅くなる、自律神経の働きが乱れることなどで、ストレスの波に巻き込まれている状態だ。

呼吸と動作を同調させ、息を吐くときにはハミングをしながら、吸う息よりも吐く息を長くするようにしていくと、この扁桃体は落ち着いてくれる。

自分のやっていることをしっかり意識して行う“意識化”練習を積むと、脳の前頭前皮質という部分が扁桃体の過敏反応を抑えてくれるようになる。
結果として、生きていると生じる感情の高まりに落ち着いて対処できるようになる。

「ああ、いま私は怒ってるな」と気付きつつ、怒れるようになるのだ。
他の感情も然り。
喜怒哀楽すべての感情を“観ているひと”が育ち始めるのだ。
(*ヨーガの目的は、観る者たる自分を確立すること)
(*喜びすぎると心臓が弱るらしい。漢方の教え)

これがもう少し上手になると「私、怒ってるなー」と思いつつそっと首筋で脈を測り、その脈がだんだん速くなっていくことを観察できるようになる。
怒っているとテンションが上がってきて、身のうちから力が湧いてくることに気付く(アドレナリンが出ている)。
怒っているはずなのに、気分が高揚して気持ちよくなることがわかる。

怒りがもたらす陶酔に酔い始めている自分に対して、「お前は今ヤバい状態にある」とツッコミを入れられるところまで前頭前皮質が発達していたら、観る者たる自分が「これ以上やるとマズいよ」と、脈が速くなりつつあるタイミングで物理的に怒りの対象と離れることを勧めてくれるので、別室に移動して心身が鎮まる活動に移ることができる。

こういう場面では、怒りの感情をしっかり感じつつ、息を長く吐くことに努めると良い。

対象のことを考えず呼吸に集中することも大事。
その場から去れるほど観る者が育っていれば、集中はかなりできるようになっているはずなので、難なく呼吸に向き合えるはず。

前頭前皮質は、周囲の世界との意識的な関わりを司る中心部分である。
日常生活を送る中での「自動操縦」状態ではなく、ものごとを深く考え抜くときに要となる脳の領域だ。

役に立つ一方で、前頭前皮質には大きな限界がある。
すべてが適度である必要があるのだ。

静かな場所でルーティンをこなし、日々心身が落ち着いていることを喜びとするヨーガも気持ちいいが、それは入り口のひとつに過ぎない。
毎日適度に生きて深い洞察が得られるとは思い難いし、想定外のストレスに対する抵抗力もつかないだろう。

マインドフルネスの簡易な練習だけをしていて迷子になっている人は多いと感じている。
そういう場合はどうしたら良いか。

果敢にストレスと向き合っていくようなヨーガの用い方をすればよい。
次回は、アサナ(体操)の別の側面についてお話しよう。

№364 性格が変わる

ヴェーダ聖典の読誦、護摩供養、布施、厳しい苦行などを行じても、この世では汝以外にはこのような我が姿を見ることができた者はいないのだ。」
 バガヴァッド・ギーターⅩⅠ-48

 

 

ヨーガを体操と思っているひとは「ヨーガと哲学との関連」と言われても何のことかと思われると思う。
インドには六つの哲学の学派(シャッド・ダルシャナ)があり、ヨーガはそのうちの二つ、ヨーガ学派とサーンキヤ哲学から大きな影響を受けている。


なので、ヨーガの先生ならよく知っているはずの「ヨーガ・スートラ」を始めとする様々な書物を通して、心身で得た気付きと古来伝わる智慧のあいだに、自分なりに橋渡しをしてみようとしている。

 

インド哲学の正統派の体系はすべて、ひとつの目標をめざしている。
「完成による魂の解放」

人間一人ひとりは人類の背後に横たわる無限の大海に通じる、一本の管に他ならないとラージャ・ヨーガは断言する。
欲望と欠乏は人のうちにあり、それを満たす力も人のうちにある。

自然界には粗大な現れと精妙な現われがあ。
精妙な現れは原因、粗大な現れは結果である。
粗大な現れは感覚でたやすく知覚できるが、精妙なものはそうはいかない。
ラージャ・ヨーガを修行すると、もっと精妙な認識ができるようになる

ヨーガに出会って自分の性格がすっかり変わってしまった、という話は実践者のあいだでよく出る話題だ。
ちなみに私にヨーガの智慧を授けて下さった師は、今はヨーガ療法の普及のために世界を飛び回っておられるが、人生に悩んでヨーガに出会ったお若い頃は、人前で気軽に話ができるような性格ではなかったと伝え聞く。
講師養成講座では3年のうちに数回の心理テストを行うが、タイプがすっかり変わってしまうということもよく見聞きしたものだ。

 

最近の脳科学の研究の中で特に注目すべきは、休んでいるときに働く脳のネットワークである。それは脳の正中(右脳と左脳の中央)にあり、帯状回を中心としたネットワーク。

例えばアルツハイマー病など、さまざまな精神疾患帯状回の機能低下が報告されている。このネットワークの異常が、多くの精神疾患につながっていることがわかっている。

このネットワークは自我と強く関係しているという。
帯状回の自我を創るネットワークに腫瘍などの問題が無ければ、それだけでアルツハイマーにもならずにしっかり生きていけるかというと、それは違うと感じる、と脳外科医の篠原伸禎氏が述べている。

成長して環境が変化するとともに、脳の使い方が変わっていかなければ、どうも幸せに生きていくことが難しいようだ、と。

子供の頃につくりあげた物事に対する反応のパターンを、ずっと維持し続けている人が多い。このパターンは「幼少期の自分向け」なのでいずれ機能しなくなるのだが、そのタイミングでものごとがうまく運ばなかったり、健康に問題が生じたりということが起こるのだと考えている。

ではその問題をこそよい契機として、これまでの反応パターンを意識化し、大人になった自分としての客観的な判断のもとに対処法として改めて確立し直す必要がある。

記憶というものは頭のなかにだけあるものではない。
特に強い感情を伴うものは、肉体に残る感覚として記憶されており、意識化がより難しい。

身体からのアプローチを、ラージャ・ヨーガが基礎段階の実践として位置付けているのはとても大事な意味のあることで、肉体を通じて心を客観視し、心の変化を生じさせている媒体を制御するということが即ち、脳の使い方を変えるということになっているのだと思う。

脳の使い方が変われば神経の働きにも当然変化が生まれ、結果的に性格が変わったと感じられるのだろう。まず自分で変化に気付き、身近な人にそれを指摘されるまで実践を継続して欲しい。

№363 ほんとうはなにを

「一瞬たりとも行為をしないでいられる者はいない。すべての人間は根本自性(プラクリティ)から生ずる徳性(グナ)により、否応なく行為をさせられるからである。」
バガヴァッド・ギーターⅢ-5

 

 

この世にはありとあらゆる実践法がある。
例えばダイエット。

「減量や健康のために行う食事制限」
これが、ダイエットという言葉の意味。

ダイエットについて、気に掛けているひとはとても多い。
教室にもそういう方はたくさん来られるので、ダイエットのための個人レッスンを行うこともある。

しかし残念ながら、「その為に何でもやります!」という覚悟を持った人はほとんどいない。
それはなぜかと言うと、「痩せたい」という言葉が、実は別の望みを表現しているからだ。

 

単純に「痩せたい=体重を減らしたい」だけで、その思いに裏も表もありませんよ、という方の場合、シンプルに食事に関する工夫や、栄養について最低限知っておいて欲しいことをレクチャーすれば、淡々とそれを実行していってもらうことで体重は落ちていく。

難しいのは、「今のまま何も変えずに、体重だけ減らしたい」と思っておられる場合である。
行動が今のままなら、何年たってもすべて今のままである。
ただそれだけ。

こういう場合、真の望みは別のところにあるので、その点を掘り下げる作業をやっていくしかない。
よくよく聞いてみると、病気になるのではという恐怖や、自分に自信がないなどという思いが根底にある。

自分が本当に何を願っているのか、それすらもわからなくなっているのが現代人である。

そこで今日は、「あなたが本心では何を最も望んでいるのか」知るための方法をお教えしよう。

アラジンの魔法のランプも、猿の手も、願い事は三つと相場が決まっている。
では、あなたの三つの願いは何でしょうか?
ジーニーも言っているとおり「願いごとを増やして」というお願いは却下。

時間をかけていては心が迷子になるので、10秒の間に三つ挙げて下さい
10,9,8,7……1!

三つ、挙げられましたか?
それでは次に、その三つすべてが無事かなったときのあなたの「気持ち」はどのようなものか、考えて下さい。

それは「どんな気持ち」でしたか?
安心、のんびり、ワクワク、ハッピーなどなど…

あなたが本当に欲しいものは、それです。

その気持ちになるため、その気持ちで日々生きていくために、色々な手段がある。

でも手段も色々あるので、いったいどこに行こうとしているのかを自分が見失っては、手段の奴隷になってしまうだろう。

無理に頑張り過ぎて、ストレスホルモンを出し過ぎて、肉体も精神もクタクタになってしまう前に、
「えーっと、ほんとうは何のために頑張ってるんだったっけ?!」
と、時々我に返って欲しい。

考えないこと、これがコツ。
10秒のうちに慌てて出した言葉は、きっとあなたのハラの底の本心を表している。

№362 感情と欲求を大切に取り扱う

「それ故にアルジュナよ。汝の食べるもの、供えるもの、与えるもの、苦行するといった行為のすべてを、我への捧げものとせよ。」
  バガヴァッド・ギーターⅨ-27

 

 

ストレスも感情という概念も、正確な内容がわからないまま使われている。

 

ストレスと同じように感情にもいくつかの要素がある。

心理学者のロス・バックは、感情には3つのレベルがあるとし、私たちが意識する程度によって分類している。

 

レベル3:どう感じるか

自分の内部から発する主観的な体験である。

これを体験するときは、怒り、喜び、怖れなどの心の状態と、それにともなうからだの感覚は意識されている

 

レベル2:他者がそれと見て取った感情

私たちがそれを意識しているかどうかにかかわらず、ボディランゲージによって伝えられる。

言葉によらない信号、独特の行動様式、声の高低、動作、顔の表情、軽くさわること、何かをするタイミングや言葉と言葉のあいだの間の取り方によってさえ伝えられ、生理学的な影響を及ぼすこともある。

多くの場合、本人たちはそれを意識していない

(ヨーガの瞑想や茶道はこの無意識の動作を意識的な行動に変える訓練であると考えている。自動運転から、マニュアル運転に変更する。)

 

自分がなんらかの感情を伝えていることに本人が気づいていないのに、周囲の人間ははっきりそれを読み取っているということは往々にしてある。

レベル2の感情は私たちの意図にはかかわりなく、他者に影響を与えている

 

両親にとって、子供が表現したレベル2の感情が、彼らの不安をかきたてる種類のものだとその感情を許容することは非常に難しい。
特定の感情の行動化を禁止されたり、それによって罰せられたりした経験があると、その後同じような感情を抑圧するように条件づけられてしまう。
自分で押さえつければ、恥ずかしい思いをしたり、拒絶されたりすることはないからだ。

しかし、そういう条件付けをされると、感情的な能力は損なわれる
その子供は将来、感情やそれに伴う欲求を適切に処理することができないだろう。
その結果、一種の無力感を抱くようになる。

 

ストレスに関する文献には、無力感が身体的なストレス反応を誘発する可能性についての報告が多くみられる。

ストレスの多い仕事や本当の自由を奪われた生活から抜け出すことができないと感じている人は多い。

 

さて、3つ目の感情について。
レベル1:感情からの刺激によって起こる生理的な変化のこと。
例えば脅威に対する「闘争か逃走」反応をもたらす、神経系、内分泌系、免疫系の活動がこれに当たる。このような反応は意識的にコントロールされたものではなく、外からは直接見ることができない。
ただ起こるだけである。
本人の自覚も無しに起こることがある。

 

そうした反応は緊急の脅威に対しては適しているが、本人が知覚した脅威に、何らかの方法で打ち克ったり、それを避けたりできないままでは、いつまでもその害が生じることになる。

(ヨーガの体操や呼吸法を適切に用いることで、問題となっている無意識の反応の意識化を促すことができると考えている。)


からだの恒常性を維持しながらストレスに対処するために重要なのは「感情コンピテンス」を得ることだ。これは、効果的なヨーガ指導の核になる重要な点でもある。

感情コンピテンスとは自分の感情や欲求に、適切な方法で十分に対処する能力のこと。

感情コンピテンスを獲得するにはある種の能力が必要だが、そうした能力は、今の、論理的であることが感情的であることよりも望ましいと一般にみなされているような社会には、欠けていることが多い。


感情コンピテンスを獲得するには、以下のものが必要である。
・ストレスを受けていると気づくための、自分の心の動きを感じ取る能力

・自分の要求を主張し、心の境界を守るために感情を効果的に表現できる能力

・目の前の状況に相応しい精神的な反応と、過去を引きずっているだけの反応とを見分ける能力
(私たちが世間に望み、要求することは、子供の頃に満たされなかった無意識の欲求ではなく、いま現在必要としていることでなければならない。過去と現在の区別が明確でないと、実際に経験していないうちから喪失感や喪失への脅威を感じてしまう。)

・本当に満たす必要のある心からの欲求に気付くことのできる能力
(他者からの受容や承認を得るためにそうした欲求を押さえつけてはいけない。)

 

ここにあげたような要件が欠けるとストレスが発生し、からだの恒常性が崩れることになる。その状態が続けば健康が損なわれる。

 

健康を危険にさらすような隠れたストレスから自分を守りたければ、感情コンピテンスを育てることが必要である。
またそれは、既に病気にかかっている人が回復するために取り戻されなければならないものであり、今後の病気を予防する最良のクスリともなる。

症状や病気に対して心や感情が大きな影響を与えているのだとしたら、単にポーズを取って健康を取り戻せるわけではないことがわかって頂けると思う。

 

 

 

№361 ストレスを変えるちから

「ブラフマ神の昼が始まる時、未顕現なるものから、この世に顕現するすべてのものが生じてくる。夜が来ると、すべての顕現している事物は未顕現の中に帰滅していくのだ。」   バガヴァッド・ギーターⅧ-18

 

 

セリエの論文では、一般にストレスをまねく要素として、

・不安

・情報の欠如

・主導権の喪失

の三つを上げている。

慢性疾患を抱えた人の生活には、これが三つともある。

 

急性ストレスと慢性のストレスは分けて考える必要がある。

 

急性ストレスとは、脅威に対して即座に短時間だけ起こる身体反応だ。
(大嫌いないきものに出くわしたとき、息が止まりそうになる)

慢性ストレスのほうは、ストレッサーの存在に気付いていない、もしくは気付いても逃れようがないため継続的にストレッサーに晒され、ストレス・メカニズムが長期的に活動を続けている状態である。

(苦手な人に毎日小言を言われて具合が悪くなるし、その人がここにいなくても、想像しただけで気分が沈む)

 

ストレスに対処する体の反応は「闘うか・逃げるか」反応とも呼ばれ、直接的な危険から私たちを守ってくれる。
スズメバチが飛んで来たら私はあわてて逃げるが、蜂が近くにいなくなればホッと息をつく)

しかしこの反応が、終わることなく慢性的に続けば害になる。
スズメバチだらけの部屋に押し込まれた挙句、外から鍵をかけられた。「もう出られない」と観念してしまったら抵抗する気力さえ失われ、大きな危険に至る。もしあなたが大暴れしたら、その部屋の壁はあっさり壊れてしまうかもしれないのだが、その可能性が検討されることがない)

 

コルゾール値が慢性的に高ければ、体内組織が破壊される。
アドレナリン濃度が慢性的に高ければ、血圧が上がって心臓に害を与えてしまう。


慢性的なストレスが免疫系の働きを抑制することは、多くの研究が明らかにしている。

ストレスのレベルが高ければ、視床下部―下垂体―副腎の軸によって放出されるコルチゾールの量も多くなる。

 

コルチゾールは傷の治癒に関わる炎症細胞の活動を抑制する
疲れが取れない、と感じているとき、ほんのちょっとした傷でも治りが悪いと感じたことは誰にでもある経験だろう。
それを大事なサインとして受け止めて欲しいのだ。

 

健康に有害なライフスタイルと精神生活から抜け出せなくなっているのは、個人的な問題だけが原因ではない。社会がそのような生き方を要請するとき、そこから外れて生きようとするのは大変な勇気を必要とする。

 

ところで、2019/1/19のテレグラフの記事で、「ホロコーストユダヤ人大量虐殺)を生き延びた人は、ホロコーストを経験してない同年代の人よりも長生きとみられることが最新の研究で分かった」と報じられた。

 

ホロコースト生存者は、より楽観的で、物事に対処し自分自身に気を配るすべに長け、社会的ネットワークも広いという。

 

また、医療社会学者アーロン・アントノフスキー博士が提唱したSOC=Sense Of Coherence 「首尾一貫感覚」というものがあるが、これは人生であまねく存在する困難や危機に対処し、人生を通じて元気でいられるように作用する「人間のポジティブな心理的機能」のことを示す

SOCとは生きる力であり、ストレス対処力であり、大きく3つの要素から成り立つ。

 

・把握可能感(comprehensibility):状況を理解できると感じる
・処理可能感(manageability)  :何とかなるという感覚 
・有意味感(meaningfulness)  :ストレス対処も含め、人生には意味があるという感覚

 

ちなみにこの三つ、よく考えるとすべて主観であって実際に状況をよく理解できていた」というわけではない。

しかしこの感覚が、彼らをスレスレのところで生き延びさせたのは間違いがない。

 

「きっとなんとかなるんだ」「自分は絶対に死なないぞ」という思いに根拠はなかっただろうし、たびたび絶望に襲われただろう。

しかし何度もそこから這い上がって、「絶対に生き延びて、ほんとうの自分の人生を生きるんだ」と自分を鼓舞し続けたところに、不思議な縁やチャンスが生じて、彼らを生かしめたのではないか。

 

冒頭の、ストレスをまねく三つの要素「不安・情報の欠如・主導権の喪失」をもう一度思い返して欲しい。

この三つをなんとかして克服し、
「状況を理解できる・何とかなる・人生には意味がある」という内的な感覚をそだて、「ものごとを楽観的に考え、自分を大事にし、友達に助けを求める」ことができれば、この社会が要請する逃れ難いストレスから救われるかもしれない。

今の社会自体が変わって欲しいという思いを、私は持っている。
しかし同時に、どんなに社会が変わっても同じように慢性ストレスは生じるだろう。
それは人の心の癖が生むものでもあるからだ。

 

生きるという活動にストレスが生じないことはないが、そのストレスを受け取る主体である自分に力を取り戻したいと願う人にはできることがある。そしてこの方法でうまくいった人が既にいると、伝えたいのだ。

№360 情緒的なストレスの緩和

アルジュナよ。すべての者の信仰心は、その生まれつきの性質に応じて形成される。信仰心がその者を形成するのであり、その者の信仰心のあり方が、まさにその者自身なのだ。」  バガヴァッド・ギーターⅩⅦ-3

 

 

H・セリエは、ストレスの生理的影響はおもに体内の三種類の器官に働くことを発見した。
内分泌系では副腎に目立った変化が起こる。

免疫系では脾臓、胸腺、リンパ節が影響を受ける。

そして消化器系では腸の内壁が影響を受ける。

 

ストレスを受けたラットを解剖すると、副腎の肥大、リンパ組織の縮小、腸の潰瘍がみられたそうだ。

こうした変化はすべて、中枢神経系とホルモンの作用で起こる。

 

なんらかの脅威を知覚すると、脳幹の視床下部CRH(副腎皮質刺激ホルモン放出ホルモン)を出す。

CRHは少し移動して、頭蓋骨下部の穴に収まっている下垂体に到達する。
下垂体はCRHの刺激を受けてACTH(副腎皮質刺激ホルモン)を放出する。

ACTHは血流にのり、腎臓上部の副腎に到達し、副腎皮質に刺激を与える。
すると、副腎皮質ホルモン(コルチコイド)が放出される。

 

副腎皮質ホルモンのうち、最も知られているのがコルチゾールである。
コルチゾールは体内のほぼすべての組織に何らかの方法で働きかける。

 

視床下部―下垂体―副腎は、一連の機能の流れを形成するひとつの軸と考えられる。

この軸が、ストレスに関わる体のしくみの中心であり、感情が免疫系その他の器官に直接的な影響を与える経路なのである。

 

はじめに上げたストレスの三大影響はそれぞれ、
副腎に対するACTHの亢進効果

免疫系に対するコルチゾールの抑制効果

腸に対するコルチゾールの潰瘍発生効果、によるものだということ。

 

例えば、喘息、大腸炎、関節炎、がんなどの治療でコルチゾール系のクスリを処方されている人の多くは、腸からの出血の危険性があるため、腸壁を保護するための別の薬剤も取る必要がある。このコルチゾールの影響によって、慢性的なストレスが腸のがんになるリスクを高める理由の一部は説明できるだろう。

 

さらに、コルチゾールは骨密度を低下させる働きもする。
うつ状態の人はコルチゾールの分泌が多いため、閉経後に骨粗鬆症と大腿骨骨折が多いという。

 

もちろん、こんなおおまかな説明ではストレス反応を語るにはまるで不十分だ。
ストレスは事実上体内のすべての組織に影響を与えるのだから

意識するしないにかかわらず、攻撃あるいは脅威だと知覚しただけでも反応は起こる
結局のところ、ストレッサーはすべて、生きものが生存のために不可欠だと感じているものが欠けていること、あるいはそれがなくなるかもしれないと恐れていることなのである。

セリエは書いている。
「躊躇なく言えることは、人間にとってのいちばん重要なストレッサーは情緒的なものである。」

 

ヨーガの戒律・ニヤマ(Niyama お勧め事項)のひとつに、サント―シャ(Santosha 知足)がある。
実はこれはストレス対処のため、そして心身の健康の維持増進に、この上なく重要な意味を持つ。

「今よりもっと悪いことになったらどうしよう」という恐れが、人の健康を損ねているように見える。同時に、人を救うまっとうな期待もある(足を掬う種類の期待もあるが)。

ああ、今日もこうして目覚めることができた!と毎朝驚きを持って目覚め、喜び、ほんの少しずつであっても、私の取り組みは何かの役に立っているはずだと信じ、また今日も一歩、歩みを進める。
そういう思考を持てるよう、自己を訓練する。それが知足の教えだと思っている。
バカみたいと考えながらも、実際にからだを動かし声を出せば、心身はその気になる。

疑り深い人は笑うだろう。
しかしこの教えが、人の神経系の働きをベストな状態に保つためのものだとしたら。

ヨーガでは師の教えを鵜呑みにするなと教えられる。
我が身で試して、自分で確信を持ててから信じる。
確信を持って言う。

教えは私を裏切らなかった。

しばらくバカになって、毎日胸に手を当てて「私は私のことを愛している!!」と語ることを40日続けてみたらどうなるか、数名の生徒さんと一緒に実験したことがある。
やはり、教えは裏切らなかった。

ただし、効果は練習量に応じて現れた。
量は質となるのなら、私だって頑張れる。

№359 私が決める

「憎むこともなく期待することもない(カルマ・ヨーガ)行者は、常に行為を放棄した者と理解されるべきである。実に二極の対立感情を克服した者は、容易に束縛から解放されるのだ。」 バガヴァッド・ギーターⅤ-3

 

 

他者との関わり合い――とくに精神的な関わり合いは――は、私たちの生活のほとんど一瞬ごとに、ほとんど意識されないまま、私たちの生物としての機能に無数の影響を及ぼしている

 

健康な生活を送るためには、私たちの精神の働き、周囲の感情的な状況とからだの機能との関係における複雑なバランスを理解することが不可欠だ。

 

医学ではふつう、ストレスとは非常に厄介ではあるが単独の出来事、たとえば失業や結婚生活の破綻、大切な人の死などの出来事だと考えられている。
確かにこうした大事件は多くの人にとってストレスの原因になり得るが、もっと目立たない、しかしからだにもっと長期的な害をあたえるような日常的なストレスがある。

心のなかから生じたストレスは、外からはまったく正常に見せかけながら、からだに悪影響を与える。

 

心のなかのストレスに幼いころから慣れてしまった人々は、アドレナリンやストレスホルモンへの嗜癖が身についてしまうと、H・セリエは考えた。

(*ハンス・セリエ:ストレス学説を唱え、ストレッサーの生体反応を明らかにした生理学者

セリエは実験で観察した身体的変化を表現するに相応しい言葉を探していて、「たまたまストレスという言葉を思いついた。それは昔から日常的に使われていた言葉で、特に工学関係では抵抗に対して作用する力を意味していた」。

引っ張られて伸びた輪ゴムに起こる変化や、荷重をかけられた鋼鉄のバネに起こる変化を例にあげている。こうした変化には肉眼で見えるものもあれば、顕微鏡で見なければ分からないものもある。

ハンスのあげた例は、重要なポイントを分かりやすく示している。
ある有機体に課せられた要求が、その有機体が通常満たすことのできる能力を超えているとき、過酷なストレスが発生するということである。
輪ゴムなら切れてしまう。鋼鉄のバネなら変形してしまう。

ストレス反応は、感染や負傷によってからだがダメージを受けたときに起こる。
心理的なトラウマによっても、そうしたトラウマを負う恐れがあると感じただけでも――それが単に想像に過ぎなくても――ストレス反応は誘発される。
たとえ本人が「良いストレス」だと信じているときでも起こりうる。

 

ストレス体験には3つの構成要素がある。
1 出来事:肉体的でも精神的でも、その生物が脅威と感じること(ストレッサー)

2 解釈システム:人間の場合は神経系、とくに脳

3 ストレス反応:知覚された脅威に対する生理面、行動面での適応反応

 

何をストレッサーとみなすかは、出来事の意味を解釈する処理システム次第となる。
ストレス刺激を受ける人物の性格と、現在の精神状況も大きく影響する。

 

ストレッサーとストレス反応との関係は、一律でも普遍的でもない。
また、ストレス体験はどれも独自のもので、今現在のことだが、過去からの余韻をひきずっていることがある。

各人の気質と、それ以上に各人の人生経験によって、ストレスの受け取り方が異なってくるのである。

ラージャ・ヨーガの瞑想では、過去の振り返りを行う。
過去の振り返りを「現在」行うことで、出来事に対する自分のストレス反応を知り、この先の反応をどのようなものに変えていくかを改めて決断していく

ヨーガは徹底的に、自分自身の調査活動である。
私は私というものをよく理解した上で、今この瞬間、この様な在りようである自分自身を全面的に愛し受け容れる。

そして同時に、これから先も死ぬまで変化を受け容れ、今日の私を微笑ましく振り返ることのできる度量を年々育てていきたいと願っている。
その取り組みを「人生」という長いスパンで捉えているので、焦る必要がない。

カラダがやわらかくなるのではない。
心がやわらかくなることが、ヨーガの効能である。