蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№358 イヤイヤやる練習

「それなる絶対者ブラーフマンは光明の中の光明であり、すべての暗黒の彼方におられる。それは智慧であり、智慧の対象であり智慧により到達されるべきものである。それはすべてのものの中の心臓内に宿っておられるのだ。」 バガヴァッド・ギーターⅩⅢ-17


コロラド大学の研究者たちが、症状が消える時期と再発が交互に起こる再発-寛解多発性硬化症の患者100人を対象にした調査がある。
人間関係に深刻な問題がある、あるいは経済的な不安を抱えているなど、質の上から見て過酷なストレスを負った患者は再発率が4倍だった。

 

多くの人が最初の症状が現れる少し前に、おおきなストレスとなるような出来事に遭遇していた。

ストレスの種類は様々で、愛する人の病気や死もあれば、生計の道がとつぜん脅かされたというものもあり、要するに人生を永久に変えてしまうような、自分では対処も適応もできないような出来事があったのだ。長期に及ぶ夫婦間の対立や、仕事上の責任が重くなったこともあった。

 

論文の著者は書いている。
「共通する特徴は、困難な状況に対処する能力が欠けていることに少しずつ気付いてきたことで、それが無力感や挫折感を呼び起こしたのである。」

 

慢性疾患を抱えた人たちは、まるで自業自得だと言わんばかりに、人から責められたり、自分で自分を責めたりすることが多いのだ。

 

彼等は子供時代の条件付けのせいで慢性的なきびしいストレスにさらされ、「闘うか・逃げるか」反応を起こす能力を損なわれている

 

根本的な問題は、いろいろな論文が指摘している人生上の一大事件など外部のストレスではなく、闘争あるいは逃走するという正常な反応をさまたげる無力感、環境によって否応なく身につけさせられた無力感なのである。

 

この無力感のために、生じた精神的ストレスは抑圧され、したがって本人も気付かない。

ついには、自分の欲求が満たされないことも、他者の要求を満たさざるを得ないことも、もはやストレスとは感じられなくなる。

それが普通の状態になる。
そうなればそのひとにはもはや戦う術がない。


まわりがどう思うか。
どんなことを期待されているのか、どんなことを求められているのか。
そんなことについてばかり意識を働かせて、「責められないか、間違っていないか、失望させはしないか」を心配してばかりいないだろうか。

自分を取り巻く人の思いよりも強く、自分の欲求確かにを感じ、言葉にできているだろうか(それを人に話さなくとも)。

 

「イヤイヤやる」ことから練習する必要のある人がいる。
こういう人が、実はかなりいると私は読んでいる。

自らの本心を読むことができず、他者の基準に自分を適わせようと、外向きの努力を続けた挙句、自分の内なる声を聴きとる聴力を失ってしまっている。

だから、目を閉じるところから練習しなくてはならない。
誰もジャッジしていないという環境の中で、安心して自由にしていていいことを学び、ゆっくり時間をかけて「だれに何と思われてもいい」と思える練習を積んでいく。

路上教習に出てもはじめは事故ばかりで何度も泣くだろうが、諦めることはない。
時間のかかる訓練は人を裏切らないものだ。

どうしても時間がかかる。
でも、10年かかってもいいではないか。
10年後に楽になっていたいなら、けっして焦ってはいけない。

№357 まだ道の途中だから

「もしも汝が意識をしっかりと我に集中させることができかねるならば、絶えずヨーガを行じ続けて(アビヤーサ・ヨーガ)我に達するよう努めよ。」
  バガヴァッド・ギーターⅩⅡ-9

 

 

ここ数日の文章は、かつて私が大いに影響を受けた書籍の内容に即して書き綴っている。この先を早く知りたい方は書籍を手に取って欲しい。文末に情報を記載しておく。

当時は新刊だったこの本を初めて読んだ時の衝撃を、今も肌で覚えている。
「すべて私が悪いのではなかったのか」という思いだった。

昨日YouTubeで公開した対談で、「病になったのは私のせいなのか」というテーマでお話をさせてもらったが、あなたのせいなんてことは決してないのだ

(対談はこちら https://www.youtube.com/watch?v=ykOlK8yaFmI

様々な人に助けられて納得に至ることができたからこそ、同じことで苦しんでいる人と手を携えて道を歩んでいきたい。

この本を手に取ったころは、まさか自分がなにかの先生になったり、不特定多数の方に向けて文章を綴ったりすることになるなどまったく想像しなかった。人生は実に不思議である。

人間の肉の目で、未来など決して見通せないのだから、そのことについて思い煩うのは貴重なエネルギーの無駄遣いである。
今すぐ他の何かに集中を移して、今この瞬間にこうしていることの不思議に思いを寄せられるような心身の使い方へシフトして欲しい。
考えることをあっさりと放棄して、呼吸や動きに身を委ね、諦めず何度も繰り返すしかないが、その方法は確実に人を救ってくれる

 

今朝目覚めた時に、ふと思い出したことがある。
ヨーガ教師になるための勉強をしているとき、毎月課題が出た。
自分の過去を振り返り、聖典智慧に即して改めて考え直すというものだ。
3年かけてこの作業を行い、課題こそ提出しないが、それは今も続いている。

ヨーガを行じる者は、過去の自分の記憶を毎日アップデートし、自らを救うような素材に変えるために浄化を続けていく。
だからこそ、無智で愚かであったかつての自分のことを、今、心からいとおしく思える。

ラージャ・ヨーガでは、過去というのは自分の行動原理を理解するための重要な素材だ。
安心した状態でそれを改めて取り上げて、当時の自分の心身の在り様や判断の基準を冷静に見つめ、自分なりに分析する。
過去の思い出というが、今とり上げればそれは現在の取り組みである。

さて、徹底的に自分について考え抜くが、これにはもちろん正解はない。
今の自分の理解度で解釈も全く違うだろう。かつての宿題をみたら、今の自分はその深刻さを笑って慰めてあげられるかもしれない。

宿題が返された時、師匠のコメントが書き込まれており、それは赤い字で「よく書けています」というものだった。

ああ、じょうずに内省ができて、自分は成長しているのだなあ!と思ったものだ。
ところが、この言葉には隠された枕詞があるらしい。
「今のあなたにしては」、というもの。

ヨーガは人を進化させるためのもの。
獣のような人から、普通の人、優れた人、偉大な人、神のような人へと成長するべく、歩みを止めずにヨーガを行じ続けよと教わる。

その成長の過程で、今の私にとって、前よりもちょっとだけ高い視点をもって過去の自分から学ぶことができていれば、それでいいんですよ、という意味でもあり、神みたいな人になるのは誰にとっても容易ではありませんね、という意味なのだと思う。

少しずつでいいのである。
今になって分かることは、かつて自分は「神のような人になれない自分はダメだ!許されない。生きている価値がない。」と思って自らを責めていたということだ。

智慧を授かるということは、人はそもそも愚かであると知ること。
なーんだ、そうだったのか、という感じなのだと思う。

普通の人Dから普通の人D‘になれただけでもすごい~、と思えるようになったことがヨーガを辞めない私へのご褒美である。
AだろうがDだろうが(上だろうが下だろうが)、私の人間としての目では見通せないから、今この周辺の景色を見るだけ。

ちなみに同じことは、茶道を通じても教えてもらったと感じている。

先生になってもいいよと言って頂いて、先生にならせてもらったが、実際になってみてわかったのは、先生にも段階があるから焦ったり恐れおののいたりする必要はなく、ただ諦めないでこの道でやっていこうという覚悟だけが人を導いてくれるのかな、ということである。

人は愚かなので、いつも間違っている。
だから「間違ったあなたが悪い!」と責めてくる人がいたら、その理解の方が間違っていると思うので、私はその説を採用しない。

だって優れた先生は、弟子が愚かであることを知っているので、優しく「おかえり」と言って迎え入れてくれるから。

自分には優しい先生が見つかってないだけなんだな、と思って救われた気持ちになってくれる人がいたら嬉しい。
先生も人間なので、優しい先生を目指して成長中なのかもしれない。

だから誰も間違ってなんかいない。
みなが道の途中だから。


ガボール・マテ著/伊藤はるみ訳 
「身体が『ノー』というとき ~抑圧された感情の代価」日本教文社 2005年

№356 安全でなければ

「我のみに意思の働きを据え理智の働きを集中させよ。そうすれば、汝はまさに疑いなく我の中に住まいするであろう。」
   バガヴァッド・ギーターⅩⅡ-8

 

自分の苦痛を人に知らせまいとする無意識の衝動が人の中にプログラムされていて、痛みや苦しみを押し隠そうとする行動を、反射的に取ってしまうことがある。

親の世代は自分自身の苦しみと共に生き、その人生の中で積み上げられてきたものに従って子育てをする。そして子供たちはその無言のメッセージを受け取って育つ。

幼くして、気にかけてもらうには努力がいること、自分の不安や苦痛は隠しておくのがいちばんいいということを学ぶ。

 

健全な母子関係では、子供が何もしなくても、母親は子供に愛情を注ぐことができる。
しかし、それが難しい人もいるし、難しい状況も時に生まれる。
親は聖人ではないし、完璧な人間でもない。
人生に起こることを支配することも、できはしない。

幼児の時に防衛法として身につけた生き方は、やがて強固なパターンとなり性格に組み入れられる。何十年経っても、同じやり方で人生に対処し続ける可能性が高い。

抑圧の力は私たちすべての中に働いている。
私たちはみな、程度の差はあれど自分を否定したり、裏切ったりする。
しかも気付かないうちに。

抑圧はストレスの主要な原因であり、病気の原因だと考えても、自分自身を咎め立てしたいのではないのだ。
ただそのことをもっと知って、多くの人が自らの治癒に繋がる行動をとってほしいということ。

羞恥心というのは「ネガティブな感情」のうちもっとも根深いもので、何としても避けたい。

恥を恐れる気持ちがどうしても捨てきれないために、私たちの現実を見る力が損なわれてしまう。

 

どんなことも笑ったりからかったりしないで聴いてくれて、見守り優しくしてくれる人がそばにいたとしたら、人生はどうなるだろう。子供の時に、そんな存在がいたらどうだっただろう。

 

頼りになる人がいつもそばにいれば、自分を尊重すること、気持ちをはっきり口に出すこと、物理的にせよ精神的にせよ、誰かがあなたの嫌がることをしたら怒りを伝えることができるようになっていたかもしれない

 

個人的な経験から言うと、私は頼りになる存在がそばにいないまま大人になった。
そして成人後に、心身の危機に直面した。
有難いことにその危機のお蔭で、どんな状態の私でも許し受け容れてくれる存在に出会うことができたために、それから先の人生や出会う友人、そして自分の子育てまでもが変容したと思っている。

人に助けられ、頼ることも甘えることもできるようになった。
自分に優しくできると、人の間違いも許せるようになった。

でも今でも時々、自らの心に嘘をつかずに振る舞うと、怒る人に出くわす。
そしてその人の中の抑圧の力を感じて、哀しい気持ちになる。

以前の自分は外ばかり見て、叱責されないように、落ち度無くふるまい褒められるようにという頭のなかの声に支配されていた。
今は心臓の中に、いついかなる時にも私を生かし慈しむ存在が宿っていることを体感として感じることができる。
ひとのこのような変容を可能にする、それが身体からのアプローチだと考えている。

完璧な人生などないし、私が「完璧だ」と思ってもそれは私からの視点に過ぎず、すべての人を満足させることなどできない。
だから批判する人は現れるだろう。
なにか辛いことを言われたとき、決して自分を責めることなく、それを口にしてしまう人の中にある抑圧という力に涙をし、せめて自分の身近にいる人の抑圧を緩めるようなかかわりができたらいい。

人を変えるのは、叱責や怒りではなく、愛情と慈しみだと信じているから。

 

 

№355  ノーといえることと健康の関係

「諸々の感覚器官の働きは強力であると言われている。これら諸感覚器官の働きを凌駕するのは意思であり、この意思をも凌駕するのは理智である。この理智をもさらに凌駕するものは真我(アートマン)なのである。」  バガヴァッド・ギーターⅢ⁻42

 

 

深刻な病気を抱えた患者の多くが、人生の重要なところでノーと言うことを学んでいなかったガボール・マテはその著書で語る。

病気も症状も、性格も状況も違っているが、心の奥底に抑圧された感情があることは共通していたと。

 

誰でも、他人ががっかりするかどうかなんてことに気を使わずに、自分の人生を生きていい
それなのに、なんと多くの人が他者の顔色を伺って生きていることだろう。

特に日本は、空気や世間体と言われる同調圧力が強い。
自己存在の奥底にある本心に従わずに生きることで、人に優しくできなくなったり、身の内に病を抱えることになるのはとても悲しいことだ。

ある人が身につけざるを得なかった生き方が、病気になった原因の一つかもしれないという表現は微妙な問題を孕む。生き方そのものを責められているような気になってしまうからだ。
しかし問題の核心はそこではない。

 

誰でも非難されるのは嫌だが、責任は負いたいと考えているだろう。

人生の様々な局面で、ただ反応するだけでなく意識的に対応したいと思っている。
私たちは誰でも、自分の人生の主導権は自分で持っていたい、自分が責任を負い、自分に関わることには自分で正しい判断を下したいと思っているのだ。

意識的でないところに、真の責任はありえない。
どんなときにも「随処に主」たらんとして修行をするのだ。
単に体操をするときであっても、そこに導かれていかなければ。

 

西洋医学的な考え方の弱点のひとつは、医師にだけ権威を与え、患者は単に処置や治療を受けるだけの存在と見ることがあまりにも多いこと。
人生におけるとても大事な場面であっても、ほんとうの意味で責任を負う機会を奪われてしまっていることがある。

 

病気になった人はけっして責められるべきではない。
それは誰にも起こりうることだから。

でも、自分についてより多くを学ぶことができれば、受け身の犠牲者になる可能性はそれだけ低くなるはず。

心身のつながりを知ることは、病気を理解するだけでなく、健康について理解するためにも必要である。

 

心とからだのつながりというと、ふたつの異なるものがあって、それらがなんらかの方法で互いに結びついているかのようだが、それは違う。
人が生きるということは、分けることができない働きの総和なのだ。

心のないからだはない。
からだのない心もない。
身体とこころ、という表現を使ってしまうけれども、からだは常に心身なのだ。

 

「人の体を治すのに、心をからだと別ものとして扱うのは大きな間違いだ」というソクラテスの言葉が伝わる。

 

心身相関、という言葉が当たり前にならなければ。
そしてそれがもっと広い文脈で活用されなければ。

悪性腫瘍をもつ患者の多くは、精神的、肉体的な苦痛や、怒り、悲しみ、拒絶といった不快な感情を無意識に否認する傾向があるという。

治療が功を奏するために、否定的といわれてしまう感情についても、安心して語り合える相手や機会を持つことがとても重要になる。
それは、人が本当に自由な精神を持って生きることを取り戻すための取り組みとなるだろう。

№354 感情の抑圧を解く

「そうした苦悩との関係の断ち切り方がヨーガと呼ばれるものであると知れ。」
   バガヴァッド・ギーターⅥ⁻23

 

病気になるにも健康を回復するにも感情が深くかかわっている

 

私たちの免疫系は、私たちの日々の経験と無縁ではありえない。

健康な医学部の学生たちの正常な免疫機能が、期末試験のプレッシャーによって抑制されたという報告がある。

 

漢方では、内臓と感情の関連について語る。

ざっと説明してみよう。

五臓:七感情
肝:怒り

心:喜びが過ぎること

脾(膵臓):思いわずらうこと

肺:悲しみ、憂い

腎:驚き、怖れ

信じられないと思うだろうか?

腎が虚しているとき、些細なことにびっくりしたり、怖くて物事が決断できなかったりする。
ああでもないこうでもないと考えてばかりいると、消化不良になってお腹にガスが溜まる。これはとても痛い。
クヨクヨすると胃も痛む。(胃は、漢方で「脾」と呼ばれる膵臓に大きな影響を受けている臓器)。
悲しいことがあってしょんぼりした後、痰が絡むようになって、それが咳や気管支炎に繋がったりすることもある。

観察すれば、皆さんも気付くことができるだろう。

 

先程あげた試験のプレッシャーに関連して、孤独を感じている学生ほど免疫系が強く抑制されることがわかったともいう。精神科の入院患者を対象とした調査でも、孤独と免疫機能低下との関連が示されている。

 

実際にはこういった証拠は山ほどある。
慢性的なストレスの長期的な影響は怖いくらいなのだと、私たち自身が知っておかなければ我が身を守れない。

試験のような外の世界からやってきたストレスだけならまだしも、自分のなかに「審判者」を住まわせ、じっと見つめられながら人生を送る人たちがいる。

その審判者が行動や考えの「良い・悪い」を判断して責めてくることが恐ろしく、心の底にある願望を認めることも満たすこともできずに生きることになる。
たまらなくつらいことであり、肉体にも大きな影響を及ぼす。

感情自体も電気的、科学的作用によって人間の神経系からホルモンが放出される現象である。

感情は、体内の主要な器官、免疫系の防衛機能、からだの状態を整えるために体内を循環している多くの化学物質の作用に影響を与え、また逆に利用されてもいる。

 

感情が抑圧されると、病気に対するからだの防衛機能が活動できなくなる。

「抑圧」
感情を意識から引き離し、無意識の領域に追いやること。

あなたが自分の感情を十分に感じ、それが教えてくれるところを理解しなければ、防衛機能が暴走し、健康を守るのではなく損なう結果になる。

ヨーガはこだわりを手放すことを求める。
頭で考えるだけでは出来ないからこそ、からだを動かし、呼吸を調え、過去の記憶を精査することによってそれを行っていく。からだからおこなうからこそ、感情も自ずと鎮まっていく。審判者に対抗できる、より愛情深い「観察者」を育てることもできる。

誰かに対して強い怒りを覚える時や、何かに対する強い愛着も、あなたの無意識の審判者を教えてくれるサインとなる。

誰かのことが許せないとき、「自分のなかの基準・正しさ」という審判者を改めて意識し、客観的に見つめることで、あなたはより一層自分自身と親しくなることができ、健康に近づくことができる。
無意識から生まれる感情を、無意識に誰かにぶつけても、あなたの健康が阻害されるだけだ。

そのことがだんだんとわかって来るので、ヨーガをしていると腹が立たなくなり、自分のなかから生まれる内的な感覚に、素直でいることができるようになる。
この世界が、怖くなくなるのだ。

真の感情を抑圧して生きている人は非常に多いので、ヨーガのような実践を通じて、自分自身を救い出すことと同時に、他者への共感も育んでいきたい。
私たちの中の生命原理・アートマンは、あらゆる人の中に宿っているのだから。

№353 あなたのなかの物語に

「わが根本自性は、地、水、火、風、空の各元素、意思、理智、我執の(各内的心理器官の)八種に分かれている。」
 バガヴァッド・ギーターⅦ⁻4


自己免疫疾患と呼ばれる病気がある。

「ある人の免疫系がその人自身のからだを攻撃してしまい、器官に損傷を与えること」が共通しており、慢性関節リウマチ、潰瘍性大腸炎を始め、必ずしも自己免疫が原因とはみなされていない他の疾患--糖尿病、多発性硬化症、場合によってはアルツハイマー病まで―― も含まれている。

この様な体内の内戦状態はどうして起こるのだろう?

医学の教科書は自己免疫疾患について、100%生物学的な見方を採用しており、ほとんどの場合、遺伝的な素質が主たる原因とされている。

発病前の心理状態や、その心理状態が病気の経過と結果にどう影響するかを知ろうとする者はほとんどいない。症状が現れるたびに、そのひとつひとつの症状に対処するだけ。

 

他の多くの学問分野と違い、医学はアインシュタイン相対性理論――観察者の位置が観察されている現象に作用し、観察結果に影響を与えるという理論――から重要な教訓を学んでこなかった。

 

ストレス研究の先駆者ハンス・セリエは、その著書の中でこう述べている。
「多くの人々は、科学的探究の意図とそれから得られた成果が、いかに発見者の個人的な視点に左右されるものかを十分に認識していない。科学および科学者の影響力が非常に大きい時代にあっては、この基本的な点に特に注意を払うべきである。」

専門分野に集中すればするほど、特定の領域についての理解は深まるが、その部分を持つ人間そのものについての理解を軽視するようになる傾向がある。

ある症状や病気で治療を受ける際に、彼らの人生における個人的、主観的な問題を見つめなさいと専門家や医師から促されたことのある人は幸いだ。

何年も治療を続けているにもかかわらず、病気に関する限られた範囲のこと以外は、目の前の人の生活や経験について何も知らない医師や指導者が多いのは何故なのだろうか。

ストレスが健康に及ぼす影響について、特に私たち誰もが幼いころから引きずってきたものが及ぼす影響についてわたしたちは知っていかなければならない。
あまりにも深く埋め込まれ、とらえにくいために、本当の自分の一部のように感じている“何らかの心的パターン”に、改めて光を与えていかねばならない。

 

わたしたちみなに、ひとりひとりの物語がある
その物語には、それぞれにとってこの上なく重要な示唆が含まれており、そのことを知らずして人は治癒や成長を遂げることができない。

叡智はあなた自身の中にあるのだ。

重要な情報のすべてが実験によって、あるいは統計的な分析によって裏づけられるわけではない。病気のあらゆる側面が、二重盲検や精緻な科学的手法によって証明される事実に還元できるわけではない。

 

ひとりひとりの人の中に、治癒をもたらす力があると確信できるように、自分自身を導いていくことが大切だ。


№352 心が悪の行為の住処ならば

「我は水における味であり月と太陽における輝きである。すべてのヴェーダ聖典の中の聖音アウンであり、空間の中の音であり人間の中の雄々しさなのである。」  
 バガヴァッド・ギーターⅦ-8

先日届いた本を読んでいる。
大戦中、仏教者が戦争協力をしたという事実について掘り下げた良書であり、衝撃的な書でもある。

バガヴァッド・ギーターのなかにおいて、武人アルジュナに対して「戦いの準備をせよ」とクリシュナ神が語る。

ヨーガには10種の戒律「ヤマ Yama・ニヤマ Niyama」があり、その筆頭が「非暴力 ahiṃsā 」であるのに、クリシュナ神はなぜそんなことを言うのだろう。

何かに悩み、怒りを覚えることや、その怒りを他者に対して表現したいと思う一瞬は、人間ならば誰にでもあるだろう。
「心のなかの戦争」はなぜ起こるのか。また、どうすればそこから逃れられるのか?

心は善と同時に、悪の考え方や悪の行為の住処でもある

人間というものは、ある時は正常となり神の領域まで達し、ある時は悪魔にもなる。

 

従って、清浄で自由でありたいと望むならば、己のもつ悪に対して注意深くあらねばならならず、自分自身で束縛と苦痛の原因である悪の本質を探し出し、除去していかねばならない

 

ヨーガでは、この取り組みを「何か大きなもの」と共に行うよう教えており、人間がひとりで行うことはできないと言っている。
これは、人間を超越した視点から見るという努力が必要だということなのかもしれない。たとえその視点というものを、想像することしかできないのだとしても。

人間は自分で望んでもないのに、まるで何かに力ずくで促されるようにしてなぜ悪行に耽るのでしょうか」(Ⅲ⁻36)とアルジュナは問う。

それは情欲があり、怒りがあり、動性優位の徳性があるから(Ⅲ⁻37)」と神は答える。

「汝はまず、感覚器官の働きを制御し、あらゆる絶対的智慧と相対的智慧とを破壊するこの邪悪な敵(情欲)を破壊せよ(Ⅲ⁻41)」

(相対的智慧:直感による智慧/絶対的智慧:すべての物質的な現象を超えた智慧

感覚器官の働きをコントロールし、それらの思いの奴隷となるのではなく支配者となるべきである。そうすれば情欲と怒りは、人を混乱させることはできない。

感覚器官とは、10頭の馬で示される、5つの知覚器官(目、耳、鼻、舌、皮膚)と、5つの運動器官(口、手、足、生殖器、肛門)のこと。
また、それぞれの感覚器官には、それに関連する対象物に対する愛着と憎悪とが本来定まっている。

人は、その定めに従わず、支配されずに生きねばならない。
愛憎に突き動かされるように行動していれば、戦いも起こるだろうし、地獄の中に生きるようになるだろう。

 


クリシュナ神はヨーガ行者の神であり、すべての行為をこの神に捧げるということは、神に集中するということ。
心が不安定で動揺していれば戦うことはできない。
そのためには、心のなかに欲望や不安や混乱があってはならない。

アルジュナが殺すという思いを捨てて自分は根本自性の特性に促されて行為をするのであり、しかも実は神自身がそれらの特性を指示していると気付き、更に、戦うにあたっては行為者であるという意識のすべてを神に捧げたならば、自分は罪を犯すどころか最高の善をも成し遂げられるという事実に、アルジュナは気付かねばならない。」
とスワミ ヴィラジェシュワラは解く。

スワミ ヴィラジェシュワラは、1970年IBM社にコンピューター部門の研究者として就職し、在職中に数多くの論文を出版。米国滞在中も熱心にヴェーダーンタ哲学を学び、インドに帰国後は聖典を科学の視点から解説した。
当時の米国にあって、スワミはなにを見、なにを思ったのか。

当時の禅者が日本の政策を応援し、若者に「喜んで死んでいけ」と説いたその心と、ヨーガが教える「無執着なる行為を為すべき」との教えの違いを、私も深く考え抜きたい。

なお、訳文は「科学で解くバガヴァッド・ギーター」たま出版  2014/5/22
スワミ ヴィラジェシュワラ (著), 木村 慧心 (監修), 岡太 直 (翻訳) からの引用である。

 

禅と戦争

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