「それなる絶対者ブラーフマンは光明の中の光明であり、すべての暗黒の彼方におられる。それは智慧であり、智慧の対象であり智慧により到達されるべきものである。それはすべてのものの中の心臓内に宿っておられるのだ。」 バガヴァッド・ギーターⅩⅢ-17
コロラド大学の研究者たちが、症状が消える時期と再発が交互に起こる再発-寛解性多発性硬化症の患者100人を対象にした調査がある。
人間関係に深刻な問題がある、あるいは経済的な不安を抱えているなど、質の上から見て過酷なストレスを負った患者は再発率が4倍だった。
多くの人が最初の症状が現れる少し前に、おおきなストレスとなるような出来事に遭遇していた。
ストレスの種類は様々で、愛する人の病気や死もあれば、生計の道がとつぜん脅かされたというものもあり、要するに人生を永久に変えてしまうような、自分では対処も適応もできないような出来事があったのだ。長期に及ぶ夫婦間の対立や、仕事上の責任が重くなったこともあった。
論文の著者は書いている。
「共通する特徴は、困難な状況に対処する能力が欠けていることに少しずつ気付いてきたことで、それが無力感や挫折感を呼び起こしたのである。」
慢性疾患を抱えた人たちは、まるで自業自得だと言わんばかりに、人から責められたり、自分で自分を責めたりすることが多いのだ。
彼等は子供時代の条件付けのせいで慢性的なきびしいストレスにさらされ、「闘うか・逃げるか」反応を起こす能力を損なわれている。
根本的な問題は、いろいろな論文が指摘している人生上の一大事件など外部のストレスではなく、闘争あるいは逃走するという正常な反応をさまたげる無力感、環境によって否応なく身につけさせられた無力感なのである。
この無力感のために、生じた精神的ストレスは抑圧され、したがって本人も気付かない。
ついには、自分の欲求が満たされないことも、他者の要求を満たさざるを得ないことも、もはやストレスとは感じられなくなる。
それが普通の状態になる。
そうなればそのひとにはもはや戦う術がない。
まわりがどう思うか。
どんなことを期待されているのか、どんなことを求められているのか。
そんなことについてばかり意識を働かせて、「責められないか、間違っていないか、失望させはしないか」を心配してばかりいないだろうか。
自分を取り巻く人の思いよりも強く、自分の欲求確かにを感じ、言葉にできているだろうか(それを人に話さなくとも)。
「イヤイヤやる」ことから練習する必要のある人がいる。
こういう人が、実はかなりいると私は読んでいる。
自らの本心を読むことができず、他者の基準に自分を適わせようと、外向きの努力を続けた挙句、自分の内なる声を聴きとる聴力を失ってしまっている。
だから、目を閉じるところから練習しなくてはならない。
誰もジャッジしていないという環境の中で、安心して自由にしていていいことを学び、ゆっくり時間をかけて「だれに何と思われてもいい」と思える練習を積んでいく。
路上教習に出てもはじめは事故ばかりで何度も泣くだろうが、諦めることはない。
時間のかかる訓練は人を裏切らないものだ。
どうしても時間がかかる。
でも、10年かかってもいいではないか。
10年後に楽になっていたいなら、けっして焦ってはいけない。