蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№341 安心を取り戻す

昨日筝曲の稽古も再開した。普段どおりのことがなにごともなくできる日常の価値を、改めて感じさせられる。

先週末に再開したお茶の稽古では、濃茶の点前は行わなかった。
濃茶とは「一味同心」と言って、同じ茶碗からお茶を頂く点前だ。要するに「回し飲み」をするので(自分が頂いた後、懐紙で清めるとはいえ)、今のような状況では慎重にならざるを得ない。

業病を患っていた大谷吉継と同じ茶碗から飲むことを拒否した者たちの前で、石田三成だけが気にせずに飲んだそうだ。吉継はそのことに深く感じ入り、三成と命運をともにしたという話を思い返しつつ、“同じ茶碗から飲む”という行為のもつ深い意味を、こんな時だからこそ考えた。

さて、実践というもの意味について、自分に何かが足りないとか悪いところがあるという思いから始まることが多いように思う。もちろん私もそうだったけれど、本来人という存在に欠けているところなどなく、そのことを思い出すことが伝統的な実践の目的のひとつだということを、決して忘れないでほしい。

多くの人は、このことを忘れたまま一生を終えるのだと思う。
だからこそ、気付いた人は人に伝えなければならない。
あなたが何らかの方法で楽になることができたとき、人にそれを伝えることが大事だ。
同時に、あるひとつの方法を強要しないことも大事。道は無数にあるので、自分が好む道を否定する人もいるはずだし、そんな人が居るのは当然なのだ。

母親は、子供を育てる時に、自分の世界観を子供に伝えていく。
その世界観が「この世は、危険で油断がならないところ」というものであったなら、子供も同じように世界を捉えるだろう。

E・メイヤー教授によると、約4割の人がそもそもの初めから世界を危険に満ちたものとして捉えていて、その危険な世界を生き抜くために、常時身体が緊急事態になっているらしい。
親が深い愛情をもって、子供を守るためにやっていることが裏目に出てしまうようなことが、この世の中で実際に起こっている。

成長の過程で前頭前皮質を刺激するような活動が自然に取り入れられれば、いったん緊急事態モードになっていた身体の働きを変えていくことができる。どんなにすばらしい子育てをしても、子供の受け取り方次第でトラウマは生じてしまうというからこそ、生きることのなかに自然に身体からのアプローチを取り入れてもらえるといいなと思う。

かくいう私も、生きていて安心で安全だと心の底から思えるようになったのはここ数年のことだ。そしてその感覚は年々深まっていっている。安心だと感じることが上手になっている感覚だ。

ヨーガの世界では、加齢とはより成熟し、豊かになることと言われている。
20年後にこの感覚がどのように変容しているか、楽しみである。

№340 どこにいても安心

自分がどうみられているか気になるだろうか?
初めての方が教室に来られてレッスンに参加するとき、当然ながら勝手がわからず戸惑われる。

ヨーガの役目は「人に打撃を与えること」であり、ある状況の中で自分がどうふるまうか、冷静に見つめることができるよう意識を育てて欲しいとも考えている。

状況依存か独尊位か、ということについて昨日書いたけれども、いつでもどこでも、自分という主体をしっかりと持ち、間違ってもだいじょうぶ、不安でもだいじょうぶ、という心の姿勢を保っておられたら安心だ。

状況依存に関しては、興味深い事例がある。
これは、お茶の師が語って下さったことである。

表千家で茶を学ぶ自分が、異なるご流儀の茶会にお邪魔したとき、周囲にいる方々が自分とは違う所作をしているのに気づいたらどうふるまうか?
茶の湯は流儀によって所作がさまざまで、茶を頂くとき茶碗を回す方向も違う。もしかしたら隣のひとは回さないかもしれない。自分がこれまで習ってきたことと違うことを皆がやっていて、頭のなかが大混乱になる… そんなとき、どうするのが良いだろうか?

「自分の流儀を通しなさい」
これが師の教え。
周囲の人みなが表流の所作を知らず、「あ、あのひと、まわし方が間違ってる」と思われたりしたとしても、自分の流儀を貫く。それでよい。

茶の湯の名誉のために申し添えると、稽古をつまれた方々は、ひとのすることをあげつらったり嘲笑するようなことはぜったいになさらない。)

現代社会で茶道を学ぶ価値は、こういう点にもあると思う。
自分自身の型をたしかにもつことで、どのような場面であっても怖気づくことなく堂々とふるまえるからだ。

さて話を教室に戻そう。
初めての場所で、初めての動きをして、わけがわからず間違ったりついていけなかったりする自分のなかに、安心していることができたらどんなにいいだろうか。

多くの方は、初めてなのに「よくわからないから、できなくてすみません」と仰る。
わからないからこそこの場にやってきたのであって、できなくて当たり前なのだけれど、できない私がいけない、という考えを持ってしまっている。

私は学校が嫌いだったのだが、そこは「はじめてやることでも、うまくやってのけることで褒められる場」だったからだ(そんなことはない学校も、もしかしたらあるのかもしれないが)。

だから、じょうずにできることは好きになり、うまくできないことは嫌いになる。
でも大人になって、時間をかけて優しく教えてもらえれば、「自分にはできない」と思っていたことでもできるようになることを知った。

できないことは悪いことではない。
もし笑うひとがいたら、笑う方がおかしいと思っていてほしい。
どんな場面でも「だいじょうぶ」と思える自分に、体操を通じてなっていくことができる。

№339 ポジティブなふりをしない

ストレスを受けたとき、からだのなかでなにが起こっているのだろうか?

ストレスには、自分にとって良いものと悪いものがある。
実を言うと、一見悪いことのように見えるストレスでも、結果的におおきな気付きを与え、人格を成長させてくれることがあるので、受け取るこちらがわの「うけとめ方」によって影響は大きく変わる。

このことを体験的に知っているので、インドの古典「バガヴァットギーター」では、とても美しい表現でそのことを伝えている。

 “絶えず流れ込む川の水を受け入れ、
  満たされながら、海は全く揺らぐことはない。”     第2章70章

なので、ゆくゆくは「ストレスを自分にとってポジティブな影響に変えて受け取れる方法、および受け容れることのできる器」を養い育て、対症療法的・一時的にストレスに反応することから卒業してほしいわけだが、まずはストレスの影響についてみていこう。

自分にとってネガティブなストレスを受けたと感じると、脳の苦痛回路 ”HPA経路“ が活性化する。
そうすると、キラーストレスという悪影響があらわれ、動脈硬化、免疫系ダメージ、がん、突然死といったことが生じ得る状態になってしまう。

この状態は、ストレスを受ける本人の、情動や思考の回路に大きく左右される。
ということは、情動や思考の回路を修正することで、医療的な効果が最大限になるということでもある。

一見前向きにみえるが、無理をしているひとや、むりやり元気を装っているひとがいる。
心あたりのある人は多いかもしれない。ヨーガを始める前のかつての自分も正にそうだったわけだが、こういう人のことを「ポジティブぶりっこ」と表現した方があるという。

ポジティブぶりっこは、対外的には高評価を得ることができるだろうが、自分の内面の状態では大変なことになっている。
外面と内面のギャップによる反動で、苦痛系回路(HPA経路)がフル活動し、肉体的なダメージが蓄積していくのだ。

人間は社会的ないきものなので、立場上推奨されるポジティブな態度を”偽装“せねばならないときもある。そうすると、偽装された自己イメージが肥大化してしまい、本来の弱かったり、しょんぼりすることもある、しかし同時にいきいきとした自由度を持つ自分が、イメージに飲み込まれてしまうのだ。

からだの不調は結果的に生じたものなので、そこにだけ注目して、肉体の悪いところを除去するという視点ではなく、本来の自分自身にとってより楽で自然である状態と、対外的な表現をに一致させていくような努力も同時になされて欲しいと思う(ふだん意識できていない自分の側面と時間をかけて向き合うことが必要なので、簡単なことではないけれども、大いに価値のあることだ。)
それこそが真の健康へと至る道だと思う。

スッカ(sukka)とはサンスクリット語で「苦痛のないこと」を表すことばだ。
あたまで考えた楽であることと、肉体の感じる楽の双方を調和させて、あなた自身のスッカの境地を見出してほしい。

№338 自分を観る洞察力  

 

「自分の恐怖や痛みを自覚し、同時に、自分の奥深くにある”何か“と結びつくことによって、安定と力を得る方法を学ばなければなりません。この”何か“とは、”洞察力“のことです。」
                                J・カバットジン

 

からだを通じて自分というものに取り組もうとするとき、なにかしらの苦痛がきっかけになることが多い。

そこでありがちな、かつ大きな間違いとは、あなたの中になにか悪いものがあって、それを取り去らねばならないという考えである。

 

あなたのなかにあるものがどのようなものであれ、それが無くなりさえすればすべてOKなどという単純なものではないし、自分のなかに存在を許されない何かがあるという発想はとても破滅的だ。

まず、すべてをありのままに見よ、と教えられた。
自分の痛みや、つらい過去の記憶を想起させると心がざわめき、悲鳴を上げるから、それをそのままに見てごらんと。

しかしあなたは(そしてわたしも)ほんとうは心以上の存在だから、目を覆っていた手を外して「それ」をしっかり見ても、決して死んだりはしない。

むしろ「見てみよう」と思うことで、痛みや心の苦しみが、本当はなにをあなたに伝えたかったのかを理解できるようになる。

見ないまま放っておくと、その根っこにある「何か」は影に隠れて悪さをするだろう。
影となった「何か」は、あなたの人間関係の裏側に入りこんでいくかもしれない。
からだのどこかで蠢いて、嫌な感覚をつくり出すかもしれない。

自分の外側にあるものを理解するには、自分の感覚を研ぎ澄ませておくことが大事だ。
でもその時に、自分の内側に戦う相手があって、戦闘状態だったらいったいどうなるだろう。考えるだけで大変だ。

まずこの内戦状態を解消すること。
今、痛みがあるなら「なぜ痛むのですか」と対話してみることもいい。
そういうやり方がバカバカしいと思うなら、MBSR(マインドフルネスストレス低減法)で使われる“レーズンを使った瞑想”を試してみてはどうか。

これは、「宇宙人が初めて地球の食べ物を口にしてみた状況」をロールプレイするというもの。

レーズンを3粒準備し、順に口に入れて、「自分の感覚を見る自分」を観察していくのだが、リトリートの時にはいっぺんに三粒食べてしまった人がいた… カバットジン氏がちょっと呆れていたのが面白かった。

さて、レーズンを口に入れたあなたは宇宙人なので、これがなにか知らないはず。
でも。

 

まったく知らない、という地平に立って何かを体験することが、たぶんできない。
「これはレーズンだな」
「ブドウだよね」
「甘いよね」
といった先入観から、私たちは物事を経験している

先入観を取り払い、痛みや苦しみという感覚と向き合っていくと、なにかこれまでと違う智慧が自分のなかに生まれてくるのがわかる。
これは、本を読んだり、誰かになにかを教えてもらうことで見つけられるものとはまったく違う、あなた独自の智慧だ。

 

この智慧を生むために、症状や病が生じていると考えてみて欲しい。
あなたのなかに、直さねばならない悪いところなど、本来無いのだから。

 

№337 感情の抑圧

「抑圧の力は私たちすべての中に働いている。
私たちはみな、程度の差こそあれ自分を否定したり、裏切ったりするものだ。」

 

からだから始める、というとどうしても筋肉や骨(関節)のことを想像してしまう人が多い。これは、現代社会でヨーガがフィットネス的に捉えられているからだろうが、それ以上に、からだを物質として考えしまう癖がしみついているからでもあると思われる。

からだは感情が宿るところである。
記憶は身体感覚と共に残るものなので、薫り(匂い)や情景、皮膚感覚で記憶が引き起こされることは誰しも経験があると思う。

からだから始めるということは、感情をも癒すことが視野に入っているということでもある。

こころとからだでは、絶対的にこころの力が強い。
目に見えないものは、見えるものより精妙であるがゆえに強大であると言われる。
その強大な力の前には、からだは容易く屈服してしまうからこそ、こころとそのあらわれである感情を扱えるようにしていくことは、人が健やかに生きる上でどうしても必要である。

 

ストレス性の疾患も、その始まりには強い感情を伴うこころの動きがあったはずだ。
では、感情を感じることは悪いことなのか?
そうではなく、感情を抑圧してしまうから、肉体にその精妙な力が潜ってしまうのだろう。

漢方では内臓と感情を関連付けている(ヨーガではそこまで緻密なことは言わないので、非常に感心している)。
例えば、肝臓は怒りと関連があるという。
脾(膵臓のこと)はくよくよと思い悩むこと、肺は悲しむこと、そして腎は驚き恐れることで傷む。

現代の社会では、ネガティブな感情を持つことが悪いことのように思われている。
自覚しているものでも症状が出るのに(例えば、しょんぼりすることがあると風邪を引きやすくなる、など)、抑圧されたらどうなるか。
押さえつけられて隠された感情は、肉体などたやすく壊してしまう力を持っていることを忘れないで欲しい。

ヨーガは体操じゃないよ!と口を酸っぱくして言い続けているわけだが、ヨーガでは「二極の対立の克服」という大きな目標がある。
体操はやっているが、この点が伴っていない人が多いように見受けられ、非常に残念である。

「苦楽、得失、勝敗を平等(同一)のものと見て、戦いの準備をせよ。」
バガヴァット・ギーター第2章38節にある有名なこの言葉は、好戦的な志向を示すと誤解されることもあるそうだが、この言葉をかけられているアルジュナは武人なので、目の前に現れた彼にとっての義務である戦いから逃れることのないようにと教え諭されている。

この世の多くのものが対立を伴ってあらわれることに、不思議さを感じたことはないか、とウィルバーも書いていたが、感情も同じである。「負」に分類される感情を抑圧してしまったら、この世はとても平板な世界になってしまい、喜びは色あせて見えるに違いない。

健康という視点から見ても、人生をより良く生きる上においても、二極の片方を拒絶したり抑圧したりしないことが大事だ。

その練習をからだで行っていくからこそ、だんだん上手にできるようになるということは、実践すれば必ず至ることができる結論である。
ぜひこの体験を、多くの人に味わってほしい。

 

身体が「ノー」と言うとき: 抑圧された感情の代価
 

 

№336 からだはなにを言っているか?

多くの人は「自動操縦」で生きている。

エマージェンシーが起こったら、すぐに自分で操縦桿を握り直してオートパイロットを解除し、状況に対処しなければならないのだがそれができない。

 

自動操縦状態に陥ると、私たちは非常に大事なものを見失ったり、無視したりして、それを制御できなくなってしまう。

この大事なものというのが、自分のからだのこと。

 

ほんとうは、からだはいつもサインを発して色んなことを教えてくれているから、そのサインを受け取って対応してあげればよいのだが、自動操縦状態だとこのサインを聴きとるのが難しい。

多くの人は、「自分のからだがどう感じているか」についてほとんど意識していない。
その結果、からだが、環境や自分の行動や、思い込み、感情などにどれだけ影響をうけているのかがわからなくなっている。

そしてからだが悲鳴を上げた時、その悲鳴を聞かずに押し殺そうとしてしまう。

からだが冷えていたり、むくんだり、肩や腰が痛いという段階で、あたかも命にかかわることのように重大に受け止めて、からだの立場に立って対策してあげていれば、それがもっと奥にまで影響を与えて病気が発症したりすることは、かなりの割合で避けられるはずだ。

ほんらいからだとこころはひとつのものとして、私の「生きる」という活動を支えてくれている。

こころの動きを受け容れ、鎮める方法を学び、からだの声に耳を傾けて、日々生じる小さな変動を乗りこなしていく工夫を学ぶことで、わたしたちはそれぞれの心身とひとつになることができる。

自分のこころやからだとの繋がりを失い、自分を見失っている人が多いなかで、自分を確かに感じ、乗りこなして生きていると、人のことがよく見え、理解できるようになると言われている。

ヨーガの体操を行うとき、慣れていないひとは「やることがたくさんあり過ぎて忙しい」と言う。
いつも自動操縦で物事を行う癖が付いてしまっているからだと思う。

「ながら運動でもいいですか?」と尋ねられたら、ごく初心者の人になら「なにもやらないよりも、ながら運動の方がいいですよ」と申し上げるが、なにか目的があってヨーガに取り組む場合は「いけません」と伝える。

テレビを見ながら体操を行う時、あなたは何を見るだろう?もちろんテレビだ。
では、あなたはいったい何時、自分という最も大事なものを見つめる時間を持つのか。

ポーズを取ってみる。なんでもいい。
胡坐で座ることも「安楽座」というポーズだ。
ただ形を真似るだけではなく、外から見る自分を想像して完璧さを要求するのでもなく、目を閉じて自分の内側を見ると、

息は止まっているかもしれない。
歯を食いしばっているかもしれない。
眉間に深いしわが刻まれているかもしれない。

そして、ポーズの最中に肉体に生じていることは、普段の生活でも起きていること。
ポーズを取る、ということは即ち、あなたのからだやこころが普段無意識にどんな反応をしているかを知ること。

肩凝りの人は、歯を食いしばっている人が多い。
なので、ひどい場合は顎関節症になる。噛みしめていることに意識的になることができれば、この病気はすぐにでも治るだろう。

食いしばっていれば、頭皮まで固くなる。血流が悪くなる。
自分の頭を触って、頭皮が柔らかく動くか確かめて欲しい。

こういった小さなことを一つひとつ見ていくことで、あなたは自分自身とほんとうに仲良くなれる。

周囲をよく見て、安全に、もちろんマニュアル運転で毎日を過ごして欲しい。
これが、心身一如への道。


№335 心ここに在らず、から始める

 

以前、10カ月間のワークを行った時、よく言われたのが「正気に戻れ」ということだった。

多くの人は「自分というもの」と心の働きが同化してしまっている。
折々に生じてくる印象や、自分にまつわる考え、過去の記憶などが混然となって次から次に意識に上ってくることが、当たり前のことと思っている。

瞑想やその要素を含んだ実践を一定期間継続した人だけが理解できる、心が鎮まった状態というのがある。

大昔から心というのは厄介なものだと思われてきたらしく、心の働きを止められないのかなと考えてきた人たちがいる。この、心の働きを止める、できれば滅することを目指してきた人たちのことをヨーガ行者という。

 

当然私は行者さんの足元にも及ばないが、行者さん方がさまざまなアプローチ法を伝えてくれたおかげで、私もなんとか心の働きを制御できるようになった。

当然私も体操からはじめたわけだが、はやい段階で運良くラージャ・ヨーガの指導者にたどりついたため、「私という思い(自我意識=アハンカーラ)」や「過去の記憶」を自分にとって楽なものに捉えなおすことができた。

こんな風に書くと、私はあまり身体的なヨーガに興味がないのではと思うひともいるかもしれないが、制御できるものを放置しておくとそこに苦悩が生じるので、食や肉体にも十分に注意を払っている。

 

肉体から入る道が無かったら、挫折していたかもしれない。
しかし無事今に至っている。
ヨーガにおける主要な道は4つと言われるが、ひとそれぞれ得意分野が違うということを先人たちはよくわかっていたのだと思う。

心の働きを制御できたらどんなことが起こるかというと、あたまのなかのおしゃべりが止まる

こういう状態を、平素から何の訓練もなく保てているひとはいるのだろうか。
私は、ヨーガと茶道の訓練を通して、ようやくこの状態に至れた。

 

頭のなかのおしゃべりは、今ではデフォルトモード・ネットワークとして知られている。
雑念
これが浮かんでくる状態とはどういうものなのかを、脳画像などで説明してくれるので便利な時代になったなと思う。

とは言え、自分の脳の中を三カ月おきに確認するようなことは、恵まれた研究者さんしかできないことだと思うので、やはり自分で感じていくのが庶民のやり方だ。

感じる、ということが人は下手くそになっているので、ヨーガを勉強していただくときにはまずここから始める。
多くのひとが「自分を見失った状態」にあるからだ。

我に返って、観る者たる自分の立ち位置を固めていく。

自分をわかっていない、ということを理解するところから、始めなくてはならない。